第一章 我欲
1
「おい、坂屋! 起きんか!」
ストンと肩に軽く手刀が当てられる。
「いって! なにすんだ!」
確か今は二限の授業前。まだ五分残っている。
この僅かな安眠時間を妨害されてまるか。
「何すんだ…ねぇ。キミこそ高い学費払ってもらって受けている授業をおねんねタイムに費やしてるが…」
「何だよ」
「こっちの方が『何だよ』なんだ! お前が日直なんだぞ!」
まだ五分あるだろう。そう思い教室の壁にかかった時計を見ると、二限開始から五分経っていた。
「やっべ…」
無意識の習慣として起立をすでにしていたクラスメイトとは対象的に、俺だけ座ったままだった。
「全く…コレだから坂屋は」
誰かがボソリと呟く。
「なんだと! 誰だ! 今言ったの!」
「誰も彼も、この平野寺真自が忠告してあげたんだ。感謝すると良い」
声の主は俺の斜め前に座る男子生徒。身長は大体一六八センチ程のある、アイツ。
奴の名は平野寺真自(ひらのでらしんじ)。この街の中でも有数の大金持ちと噂されている平野寺家の長男だ。因みに髪型は左側の少し垂らしている前髪部分を除くと、オールバックである。
奴には因縁があるが、一言で表すと「鼻につく奴」である。
「いくら坊ちゃんだからっつっても今日という今日は許さん! 俺と勝負を…」
「勝負をする前に号令をせんか号令を!」
遮る様に教師が割って入ってきた。
「分かりましたよ! はい、みんなキリーツ! 礼! 着席!」
「ったく、お前が寝てたから五分削れたんだぞ…」
適当に済まされた号令。俺が日直の時は大抵がこうである。
全員が座り、五分遅れの授業が始まった。
「…昨日もお絵描き?」
教師が黒板に文字を書き始めた頃、俺の隣にいる女子生徒が声をかけてきた。
「まーな。割と良い出来でさ」
俺はサラッと返答する。
俺に話しかけてきた彼女。名前を鹿児島 結子(かごしま ゆうこ)という。身長は一五〇センチ弱。髪はセミロングより若干短めである。
小さい頃からの幼馴染で、俺が絵を描いている事を知っている。昔は結子に頼まれて下手くそながらもよく彼女のイラストを描いていたりした。
まさか高校まで同じ所に入学し、中学二年以来、久々に同じクラスになるとは思わなかったが。
そしてなにより、俺たちの通う『映一高校』は、二年から三年に上る際にクラス替えは存在しない為、残りの学生生活は結子と近い距離にいることになる。
…実際ちょっとだけ嬉しかったりする。
「今度アタシにも見せてよ」
「お、見るか?」
互いにニコッと笑う。
そう、コレぐらいの距離感なのである。
最近じゃあ普通かもしれないが、彼女は俗に言う「オタクイラスト」を閲覧する事に抵抗がない。
その為か、気味悪がって避けるどころか偶に俺の家に見に来るほどである。
だからと言って彼女がオタクであるかどうかと言われれば全くそうではない。不思議に思って以前聞いたが、どうやら「一つの作品」としてフラットな目で見ているとのこと。
そんな事も思い出しつつ、ヒソヒソと結子と話していると、俺を目掛けて真っ直ぐチョークが飛んできた。
「ワッ! …何すんだ!」
「こらぁ坂屋!純粋な鹿児島までもダメ街道に走らせる気か!」
「今日日そんな技使うのなんか、漫画にもおらんぞ、先生!」
昭和の残り香を強く残す、この体格の良い(どちらかと言うと太り気味)な担任教師もまた、真自とは違うタイプの敵である。
「えっと…すいません」
俺に話しかけた結子が気を悪くしてしまったのか、口喧嘩する男二人を止めるように頭を下げた。
「鹿児島くんは謝らなくて良いんだ、悪いのはその隣の『そそのかしデビル』だからな」
その絶妙なつまらないワードチョイスが、クラスに笑いを起こす。
「こ、こらぁ!笑うんじゃな〜い!」
恥ずかしさを隠すために声を出す教師を他所に、ちらと結子の方を見る。
その視線に気付いた彼女は、ペロッと可愛く舌を出し、ウインクを決めた。
こう言う事には昔から要領が良いのが彼女だ。
*
その日の放課後。
約束通り、結子を俺の家へ呼ぶことになった。
俺と結子は部活に所属していない、いわゆる『帰宅部組』であるため、十六時前には暇になっている。
「ただいま」
「おかえりノボル。…あら、結子ちゃんじゃない」
「あ、お母さま。お邪魔します」
結子はペコリと俺の母さんに一礼をした。
「別にしなくていいのに」
「い~のよ。こういう習慣、大人になってから意外と評価されるのよ」
「へ~へ~」
アドバイスをする彼女の言葉を雑に聞き流し、俺はポイっと靴を脱ぎ捨てて二階の自室へと向かう。
「あ、ほらノボルくん! 靴そろえなよ!」
「い~からい~から!」
俺の気持ちは既に昨日完成させた絵を見せたい一心だった。
そんな俺のワクワクを抑えきれない気持ちとは対象的に、結子は俺の靴さえもキチンと揃えていた。
「ノボル! 結子ちゃんにこんなことさせるんじゃないよ!」
「いえいえ、私は大丈夫ですから!」
「ごめんなさいねぇ、しょうもない息子で」
「ハハハ…」
その会話を聞いて階段の中腹地点で立ち止まる。
「早く来いよ、結子」
「はいはい、今行くわよ。それじゃ、お邪魔しますね。お母さま」
「ゆっくりしてね~」
「は~い!…ほら、ノボルくん、行こう?」
階段を上り始めた結子に促され、再び二階への歩みを進めた。
「何ブスッとしてんのよ、ノボル」
「けっ! なんでもないわい」
顔に出したつもりはなかったのだが、どうやら先ほどの俺は眉間に皺が寄っていたらしい。
正直言って、何故苛立ったのかは分からない。が、早く結子に絵を見せたいのに、母さんと結子が会話したその一瞬が少し気に入らなかった…のだと思う。
「昔から知ってんだから、挨拶なんて軽くすればいいのに…」
「寧ろ昔から知っているからこそ、ちゃんと挨拶しておくのよ」
「そーいうもんかね」
「ええ、そーゆーもんよ」
などと他愛もない話をしながら、俺の自室に到着する。
「あ、ノボル~おかえりラ~」
「うい」
自室では、AIのイニアが俺のベッドの上で横になっていた。
「こ、こんにちは…」
「こんにちゃ~…え~っと、ゆう?」
「結子よ」
「そうラそうラ! 結子! お久しぶりラ~」
ニッコリと笑いながらイニアは結子にふっつく。
学校のテスト等で時間があまり取れず、結子がイニアに出会うのは凡そ一か月ぶり位のことであった。
「…ノボルくん、あんまり変な事覚えさせないでね?」
「俺はベッタリしろなんて教えてないぞ」
躊躇いもなくイニアがくっ付いた事に対して、何か俺がやましい事を学習させているのではないかと疑っているようだ。
「ホントに~?」
「ホントだよ!」
大きい声で反論してしまう。だって教えていないのだから。
「アタシがくっつきたくてこうしてるんラよ~」
「ほれ、本人がそう言っとる」
イニアは結子の腕に顔をよせ、スリスリと動かす。
「そうなの? イニア」
「そうラ! 意気地なしのノボルに代わって愛情表現の代行をしてるラよ~」
突拍子もなくとんでもない発言をした。
「ばっバカ! お前!なんつう事をいっとるのじゃ!」
「だってそうじゃないラか」
その大胆過ぎる言葉に、一瞬で自分の顔が赤くなるのを感じた。
「そ、そうよ! イニア! 変な事言わないでよっ!」
慌てて腕にまとわりついていたイニアを振りほどきながら、結子は言った。
彼女も俺同様、焦りからなのか恥ずかしさからなのか、少し顔が赤くなっていた気がした。
「そうだと思うんラけどなぁ…」
「と、とにかく! 今日の本題はそこではない!」
「そ、そうよ! さっ、早く見せて!」
イニアの無神経な発言をこれ以上阻止するべく、阿吽の呼吸で俺たちは話題を変える。
「今日の本題ってなんラ?」
俺たちの約束など知る由もないイニアは俺に聞いて来た。
「昨日完成させた絵を是非見たいって言うからさ」
「へぇ~! ノボルも出来た時ガッツポーズしてたもんラね~」
ウンウンと頷きながら、イニアは満面の笑みを浮かべた。
「そ、そんなにすごいの…?」
イニアと俺のテンションが不思議だったのだろうか。
結子はどことなく怪訝そうな顔で聞いてきた。
「AIに食わせるパターンで画期的な組み合わせを思いついたんラ!」
「ふ~ん…」
結子は俺のベッドに腰を下ろしながら空返事をした。
彼女は俺がAIを使用してイラストを描き始めた時期を知っているが、まだ真髄に気付いていないのかイマイチ反応が良くない。
「…よし、でた! 見てくれ結子! これが渾身の新作だ!」
俺が表示させた一枚の絵。
シーンは夜のストリート街。人の背中がメインであるが、構図的には俯瞰視点。こちらに振り向く形で顔をひねる、赤い前髪で片方の目が隠れているような、すこしクールファンキーな女性のイラストであった。
「AIってこの角度の絵も再現できるのね…」
複雑なイラストを想像していなかったのだろうか。漸く結子が興味を示し出した。
「そもそもAIイラストってもんは大概ネットから膨大な数の画像データをインプットしたサーバーに単語を並べる事で生成したモノなんだけども…」
「ソレぐらい知ってるわよ」
「俺はここ数ヶ月で画期的な方法を編み出したのだ!」
「画期的な方法…?」
結子が首を傾げる。
「それはだな…」
俺が言おうとした時である。
「学校のお友達の特徴を分析する事ラ!」
先に言われてしまった。
「あ! お前! 俺が言おうとした事!」
「だって勿体ぶってるから…」
「こう言うのは間が大事なの!」
どうしていつもイニアはこう、風情と言うものが分からないのだろうか。まるでロボットの温度…というかこいつはロボットだ。
「学校の皆の特徴分析をして行けば魅力的なポイントが分かるわけね…」
腑に落ちた顔で結子は言う。
「そーゆー事!」
「あとはノボルが紙に適当に書いた下手な絵とパズルが合えば完成って事になるラ」
またしてもイニアの皮肉めいた説明が聞こえてきた。
「下手とはなんだ下手とは! 今や俺はAIという最高の武器が手に入ったんだぞ! 俺が描きたい絵を、俺以上に細かく綺麗に描いてくれる…ソレがバカみたいにウケる…」
ツラツラとイニアに熱弁していた俺を横目に、結子は帰り支度をしていた。
「あれ、結子…もう帰っちゃうのか?」
「うん、絵も見たし」
彼女は俺のベッドから立ち上がる。
そして去り際に、
「今度、私をイメージした絵も作ってくれるかな」
と一言。
「おう! 任せとけ!バンバン描いちゃるから!」
「待ってるわね。それじゃ、また来週ね!」
「キィつけて帰れよ〜」
バタム。俺の部屋のドアが閉まる。
ヤケにアッサリだったな…。
まあ、いいか。
「あら、もう帰っちゃうの?」
「ええ!用件もすみましたし。お邪魔しました!」
結子が母さんと挨拶した後、家から出て行く音がした。
「ノボルくん…変わっちゃったな…」
2
翌週の放課後。
俺は奴が鼻について堪らなかった。
「僕に勝とうなんて、十年早いんだ。坂屋」
「んなにをー!」
そう、俺が腹を立てていた相手はやはり、平野寺真自である。
奴はこの映一町(えいいちちょう)で数百年以上続く『平野寺』の一人息子。容姿端麗で金持ち。なんでも卒なくこなすその姿はクラスの女子の人気者である。
オマケにそれを武器に皮肉や格の違いをいやに懇切丁寧に説明する態度は男子にとっては目の敵。
特に俺には更に気に入らない要素がある。
「坂屋もそろそろ美術部に入ったらどうだ? まだ二年の最初なら何とかなる」
「やーなこった!」
そう。此奴はクリエイティブ魂が強い人間だ。
そして何よりも、「AIの力を借りない」派閥なのである。
「キミの感性なら、真面目にやれば伸びそうなのに。そんな頑固じゃあ、結子さんに嫌われてしまうぞ」
「やい! うるさい! 俺はもう伸び盛りじゃい!」
そう反論する俺に、やれやれと言ったあからさまなポーズを取ってきた。
「今回ばかりは本心で言ってると言うのに…なんせ、キミのペンネームも界隈ではそこそこ有名だ。つまらん感性でワードとありきたりな情報ではあの人気の絵は普通作成できない…」
「わーってるならさっきの煽りはいらないだろうが!」
そう怒る俺に、真自は一枚の紙をヒラヒラと見せつけてきた。先程貰ったという水彩画の賞状である。
「何しろ常に研究をし尽くしてこの手で掴み取った僕が、この美術部部長のこの僕が推薦しているんだ、だから…」
「ワザワザ見せつけんでもいい! 俺は俺のやり方でやるんじゃ!」
などと怒ってる間に真自の周りには賞状を見たがる女子が群がっていた。
「まあまあ皆さん落ち着いて…兎に角、実力は認めるがコレだけは言える。キミは絵を描くというよりは、作っているに近い。心が無いんだ」
「な! どういう事だ!」
そう言い返そうとした時、既に奴は周りの女子の対応に当たっていた。
「ま、まぁ怒らないでノボルくん」
そう声をかけてくれたのは結子だった。
「くっ…あんなにコケにされて溜まるか!」
だから嫌いなんだ、真自は。
「結子、帰ろう! あんなナルシストバカ放っておけばいいさ!」
「…え、ええ」
教室から出ようとしたその時である。
「おのれ今僕をナルシストバカって言いおったな!」
ものすごい勢いで真自が詰め寄ってきた。
「図星では無いか。現に筆を人の頭に突き付けている」
俺に指摘され、思う所があったのだろうか、俺に突き付けていた筆を自分の制服の内ポケットにしまった。
「…いつかその減らず口を叩けないようにしてやる…」
そう言い捨てると奴は美術室のある旧校舎棟に向かって歩いて行った。
3
「『他の人とは一線を画しています』…グフフフ!」
「よかったラねぇ〜」
「応とも! イニアも喜んでくれるか!」
「勿論ラよ。アタシはノボルが喜んでる姿を見るために生まれてきたロボットなんラからね!」
二人で喜び合ったのは他でも無い、この前完成させた絵の事についてだ。
イニアの解析によれば、絵を投稿したサイトの月刊ランキング三位程に入り込める予測であったが、良い意味でそれは裏切られた。
なんとぶっちぎりで一位。二位に大差をつける形での月間優勝を飾ったのだ。
「グファハッハッハッ! コレで十五万円戴きじゃい!」
「アタシもここまで伸びるとは思ってなかったラ!」
真自の煽りなど目の敵では無い。俺だってちゃんと実績を残している。
そんなことを考えていた時である。
「なんだ……こんな時間に」
俺のスマホが何度か振動したのだ。
時刻は二十三時。宣伝が来るにしては遅すぎる。
ポケットからスマホを取り出してみると、そこには真自からのメッセージが。
『月間ランキング優勝おめでとう。やはりキミの感性は確実だ。だから…』
この先は通知の都合上省略されていたが、大体理解できた。
『お褒めの言葉どうも! 俺だって実績があるんじゃい! だが勧誘は受けん!』
…とだけ返信した。
「褒めてくれるのはいいんだが…イチイチ勧誘が凄いんだよな、アイツは」
俺はベッドにスマホを放り投げる。
「何が〜? …あ、このアイコンに写ってる顔…真自ラね!」
投げたスマホを拾ったイニアが言った。
「ん、お前…真自と面識あるのか」
「うん! ノボルのお母様達がアタシを買う丁度一人前のお客さんが真自だったんラ」
聞けば俺の両親がイニアを購入する前、平野寺家がこの個体の購入を検討していたようで、その時に一度イニアは彼と会話をしたことがあるとの事だった。
しかしその直ぐ後に俺の両親が購入しに店舗にやってきていた為、商品説明も兼ねて店員がデータログを初期化していなかったのだと言う。
「確かに凄い自信を感じる人ではあったラね〜」
「やはりイニアもそう思うよな! 俺は毎日学校でその洗礼を受けとるんじゃ…」
…でも今回の件でやっと明確な実績をあいつに突きつけることができる。
「今のメッセージがその査証じゃ〜!」
今一度高笑いをした。ニヤニヤが止まらない。
「静かにしなさい! あんた何時だと思ってんの!」
母さんに怒られるのも気にならなかった。
4
週が明け、月が変わって五月。暖かな陽気と共に春の残り香を感じる季節である。
あるのだが…
「アッチィ!」
「アタシもエラー起こしそうラ…」
「まさかこんなに暑くなるなんて…」
ゴールデンウィークに入り、学校も休みな俺は、結子を家に呼んでいた。
というよりも、本来は俺が呼ばれる予定だったのだが。
「まさか冷房をつけていてもまだ微妙に暑いなんて…」
急な摂氏三十三度に形から対処すべく、一階の和室で涼もうと挑戦しているが、どうにも涼しくならず。簾もかけて日本の風流で何とかしのごうとしてみたが…
どうにもなけなしの日陰では我慢の限界であり、「節約の為に冷房は弱で付ける事!」という張り紙の横にあるリモコンに手をかけ、部屋についているクーラーの電源をオンにした。…がやはり弱の冷風ではまだ微妙にその暑さは残っている。
このしんどさは人間以外にも十分に伝わっているようで…
「日本の日差しは湿度があるからジメジメするらしいラ…地獄なんラ…」
ロボットである為、汗こそはかかないが明らかに放熱が追いついていないイニアが呟いた。
「すまんな、結子。ウチは節約のために冷房は弱なんだ」
「ううん。良いのよ。元はと言えば私が声掛けたんだし」
そういうと結子はニコッと笑う。
本来は街の公園で会う約束を結子が提案していたのだが、猛暑の為に急遽俺の家で一緒に過ごす方向で変更したのだ。
それにしても…
「…」
イニアが言っていた「日本特有の暑さ」により、肌に服がペットリとついてしまっていた。それは俺の目の前にいる彼女も例外ではない。
まだ半袖を出すような季節でもないため、長袖(薄手ではあるが)の上に、ファスナー付きのパーカーを着ていた彼女である。
しかし、我慢の限界が来たのだろうか。
あろうことか何のためらいもなく長袖まで脱いだのである。
「ノボルくん、顔拭くタオルみたいなの借りても良い?」
「ン…」
思わず固まってしまう。
幼少期の頃とは全く違う、大人に向かって着実に成長する女性の身体。
…普段気にしてないけど、結子も一人の女性だもんな…
家にあるアレコレを知り尽くしている彼女は、この部屋の隅にある五段ほどある箪笥から俺の物が入っている段を引き開け、フェイスタオルを引っ張り出していた。
「あーもうべしょべしょ…」
そう言いながら汗が溜まりがちな箇所を、拭く彼女を俺はボーッと見ていた。
「…ん、どうしたの?」
「い、いや」
「あ、ノボルくんも汗拭きたいの?」
いや、そうではないが…。
「え、ああまぁ」
何となくはぐらかす為に適当に返事をした。
「何枚も使うと勿体無いし、ハイ!」
少し湿ったフェイスタオルを俺にパスして来た。
幼馴染で十年以上も顔を合わせている仲であるが、いざ改めて見ると不思議な気持ちになってしまう。
幼馴染という感情以上に女性として…こう…
「…ノボルくん?」
「…へっ?」
「大丈夫?」
結子の声で我に帰る。イカンイカン…
「大丈夫ラか? 冷たいもの持ってくるラ?」
イニアは心配そうに俺の額に手を当てて来た。
…熱は熱でも物理的なものではない…気がする。
「どうするラ…?」
「あ、ああ! 頼むよ」
「オッケー! 任せるラ!」
そういうとイニアは立ち上がる。
「あ、ユウコ〜! ノボルの下の段に入ってるアタシの服着てても良いラよ〜!」
台所に向かいながら叫ぶ声が響く。
……二人きり。
何を話せば良いか、困っていた。
余りにも何もしないといけないのはよくない。変な空気を分散させる為にも、取り敢えず俺もベタついた汗を拭きとりながらチラと結子を見てみた。
どうやら結子も俺と同じく会話を模索していた様で、持って来ていたバッグの中を不自然に確認したり、箪笥の中にあるイニアの服をイソイソと取り出していた。
「この段、全部パーカーじゃない! …イニアはパーカーしか着ないのかしら」
「え、ああ…あいつは年がら年中パーカーだぞ」
そこで会話は途切れてしまう。双方で話すタイミングを窺がっている…そんな感じだった。
…ここは一つ。
「…あ、そうだ。結子、用ってなんだ?」
少しわざとらしい声になってしまったが、本当に聞きたい事である。
実は今日会う約束についても、俺ではなく結子から声をかけてきてくれたのだ。
「用事っていうのはね…」
「ふむ」
服を着替え、床に座り直した結子は、
「その…お絵描きを一緒にしたいなって」
と、少し恥ずかしそうに言った。
―それくらい普通に言えば良いではないか。
「ほう。お絵描きを。いいよ」
「ホント?!」
何故か結子は目を輝かせて言う。
すると彼女は紙とシャープペンシルを手提げバッグの中から取り出し、机の上に置く。
よく見ると彼女が出したペンの本数は二本だった。
「これ、ノボルくん使って良いわよ」
ニコッと笑いながら俺の方に差し出してきた。
思わずまたフリーズしそうだった。俺も準備しないと。
「じゃ、ちょっと待っててな」
見惚れてしまう前にサッと絵を描く準備を始める為に二階にスマホとノートパソコンを取りに行こうとした。
「ち、ちょっとノボルくん」
結子が声をかける
「ん?」
「お絵描きするのよね…?」
不思議な質問をしてきた。
「勿論。まぁ、シャーペンでも描けなくはないが……最後まで描けないじゃない」
「そ、そう…じゃあ取ってきて良いよ」
歯切れの悪い結子をヨソに、俺は自室に絵を描く道具を取りに行く。
「ここんとこドギマギしてる時多いんだよな〜、結子」
スマホとノートパソコンを抱えながら俺はつぶやく。
ここ最近、結子の俺に対する対応が引っかかる。妙に他人行儀というか、なんか距離を置かれている感じがする。
しかしながら特に裕子に嫌われるようなことは行なっていないし、当然やろうと考えたことすらない。
「もしかして…恋?」
階段を降りる足が一瞬止まる。
「んなわけねぇか」
流石に考えすぎだろう。
俺は再び階段を降り始めた。
「あ、ノボル! 用意できたらラ!」
階段を降りて直ぐ、廊下でイニアと鉢合わせた。
そういえば冷たいもの持ってくると言ってたが…何なんだろうか。
「…ん、これは」
ふとイニアが手に持っていたものを見る。
水捌け用とその水を受ける二つのプラスチックが重なった容器。中には白く、そして細く、そしてキッチリと時間を決めて完璧なタイミングで調理されたであろう引き締まった細い麺の玉がいくつも乗っていた。
「冷たいものラ!」
*
「ほう、美味いじゃない」
チュルチュルと啜りながら言う。
イニアがいう「冷たいもの」の正体は素麺だったのだ。
「確かに! なんか今まで食べた中で美味しいわ。イニアちゃん、ありがとう」
「ふふーん! アタシにかかれば最適かつ最短の処理で一番美味しいソーメンが作れるんラよ!」
結子に褒められて満足げな表情をイニアは浮かべていた。
「そういえば、結子は何で今日うちに来たんラ?」
「あら、イニアちゃんには言ってなかったっけ…」
すると結子は、素麺を食べるために一度床に置いた紙とペンを持ち、イニアに見せる。
「ホントは一緒に外歩く予定だったんだけども…この暑さじゃない?だから久々にお絵描きしようかな〜と思って」
「わあぁ! 良かったラね! ノボル!」
「へっ?」
俺は思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
「だって結子が一緒にお絵描きしてくれるって言ってるラ! 好きな人とのお絵描き楽しくないわけないラ!」
イニアのストレートかつ天然な発言に思わず頬を赤らめてしまう。
「ば、バカ! 何つーこと言ってんだ!」
「そ、そうよ! アタシたちは昔から一緒にお絵描きする時があったから…!」
頬が赤くなっていたのは俺だけではなかったようだ。
「間違ってないはずラ。製造されてから二年弱。アタシがノボル達見てる限りだとこの結果しか算出されないラよ〜」
最初こそ天然な発言であったが今度は明確に弄る目的で発言していたのが声色で理解できた。
コレが俗に言うAIの侵略と言うものなのかもしれない。
「ま、いっか! ソーメン食べたらアタシもお絵描きに混ぜて欲しいラ〜」
能天気AIロボにはほとほと呆れる。
5
「お絵描き難しいラ…」
「おい何じゃいそれは」
悩むイニアのペンの先を覗いてみると、エイリアンのようなものが描かれていた。
「コレ見て分からないラ!?」
「分からん」
顔に髪の毛が描かれているが、髪の色が塗られてない。言わば透明の髪の毛を被っている状態の『何か』が描かれていた。
「ヒントは人ラ!」
「ふむ、わからん。結子は分かるか?」
俺たちの会話を特に割って入らずに見ていた結子に聞いてみる。
「うーん…多分女の子かしら?」
「そうラ!」
イニアはニコニコで答える。
「つーことは…女の子の…宇宙人?」
さっきの笑顔が一瞬で怒り顔に変わる。
「違うラ!人って言ってるラ!」
その声と同時に何故かイニアの鉄の腕が俺の頭にチョップとなって襲いかかる。
「フガッ! …何すんだ!」
「真面目に答えないからラ!」
「真面目にわからんと言うてるだろうが!」
実はこのイニアにはお手伝いAIロボットの機能として『注意機能』が備わっており、万が一何か所持者が誤ったことをすると、物理的に止めてくれたりする。
…筈なのだが、余りに学習をしすぎた事で、今のようなやり取りでも柔軟な(主観的なものに近いが)「注意検知」をする様になったのだ。
イニアと揉めている中、その横で結子がハッとした顔で手を挙げた。
「ハ、ハイ!」
「結子、分かったかラ?」
キラキラした目でイニアは結子を見る。
「多分だけど…私?」
結子がイニアに聞く。
「正解ラ! この目のクリクリとちょっとセミロングな感じが似てるラ!」
揉めている俺をドカッと突き飛ばし、嬉しそうに結子の頭を撫でる。
「なにすんだ!」
「不正解者には丁度良い罰ラ!」
「なに〜ぃ? …じゃあ俺も結子描いてやるよ!」
思い切ってそう言ってみた。
「ノボルくん…」
…ハッ。
「ちょっと待ってろ! えーと、結子の特徴は…」
そう言いながらもう一度彼女を見る。先程の一瞬見せた顔はもう無く、また違う表情だった。
「えーと、セミロングでどちらかと言うと茶髪より。身長は一五〇センチ程度。眉は少し細めで…よし! 結子、三パターン程ポーズ写真を撮らせてくれ」
*
「…こんな感じ?」
言われるままに結子はポーズを取る。
俺はその彼女にスマホのカメラを向け、撮影を始めた。
第一のポーズ。正座する彼女の写真。角度は斜めや横から。落ち着いたセミロングの髪の毛に正座を組み込むことで、どこか和風を感じさせる日本の要素になる。
第二のポーズは、八十年代のアイドル風。意外にもこのアイドル文化というものは他国ではあまり無い「作り上げる路線」の物であった為なのか、この系統のポーズを学習させると、より日本風に近付く。
そして最後は真正面から自由な表情で。
なんだかんだでコレが一番算出イラストを他と明確に分けるものと言っても過言ではない。
「ふむ。一つ目と二つ目はヨシ。だが…」
…三枚目が少し暗い気がした。
「結子。もう一回撮り直しても良いか?」
「…」
「結子?」
今度は結子がボーッとしていた。
「…あ、もう一回撮るのよね! どうぞ!」
と言う彼女の「撮るのよね!」辺りでシャッターを切る。
「コレが良いかな〜」
ちょっと戸惑っている顔であるが、コレが最近の結子に一番近い気がする。
「さあ、コレを取り込んで…特徴となるワードを入れて…出来た!」
ワードと先程の写真をもとに、俺の描く結子が完成した。
「どうだ! これが結子じゃい!」
「す、すごい…」
完成した絵を開いたノートパソコンを見て、結子は圧倒されていたようだった。
「こんなん勝てるわけないラ〜!」
先程の特徴、実際の写真を取り込んだイラストは、まるでほぼ実写のような出来栄えであった。
「どうだ、結子」
「そ、そうね…確かにすごいリアル…」
完成度に驚いたのか、一歩引いた感じで結子は言った。
「さあ! どっちに軍配をあげる!」
「アタシの負けな気がするラ…」
喜ぶ俺とションボリしているイニア。
その様子を見て少し困惑しつつも結子は口を開いた。
「わ、私は…」
「おう…」
「ラ…」
緊張感が走る。
そして結子が出した答えはこうであった。
「私は…イニアちゃんの絵かな」
場が静まる。
「や、やったラ〜!」
「ぬぅわに〜!」
思わず一瞬イニアと顔を合わせてしまうほどまさかの回答であった。
「り、理由は…?」
思わず俺は聞いてしまう。
「うーん…一言で言えば『頑張ったで賞』って事かな」
*
「アタシの健気な誠意が伝わったラ〜!」
結子が帰った後もイニアは相変わらずはしゃいでいた。
「負けてしまった。女性宇宙人に…」
「まだまだラねぇ〜! ノボルも!」
「うるさいわい!」
結局風呂に浸かっている間も、上がった後も、飯食った後も…そして何より、寝る直前の今もずっと考えていた。
何で勝てなかったんだろうか。
「でもアタシもびっくりだったラよ。絶対負けたと思ったんラもん」
部屋の真ん中で背伸びしながら彼女は言う。
「そりゃあ俺のほうがビックリしとるわ…イニアの何倍も特徴つかんどったのに…」
パジャマの第一ボタンを外し、パタパタと暑さを逃しながら俺は言い返す。
一体俺の絵には何が足りなかったのだろうか。
「そこが次にレベルアップしなきゃいけない課題かもしれないラねぇ〜」
「わっ、いきなり横で喋るな!」
壁の方を向き、ベッドでふて寝している俺の横にイニアは顔を近付けて言った。
…ふと気が付く。
「次の課題…って、俺が負けた要因がもう分かってるのか、イニア」
「ウン! 今日の結子見てて分かったラ」
自信ありげに彼女は言う。
俺は気になり、イニアに向かい合うように向きを変える。
「して、その方法は?」
「自分で考えるラ」
「どーして!」
「そんなのAIの力を使わなくてもわかる問題ラ」
「あのなぁ!」
思わず少し苛立ってしまう。
「バカー!」
「フガッ!」
不意を衝く鋼鉄チョップが太ももにヒットする。
「何すんだ!」
「…今のがヒントになるラ」
「コレが?」
「本当ラ。今回ばかりはAIがなくても十二分に解決できる問題ラ」
ニコニコしながらも、どこか真剣な空気が伝わってきた。
「俺には分からん」
再び俺はイニアを背にし、不貞寝をし始める。
「取り敢えず今は分からなくても何れ答えがでる…ラ…」
「いずれって…」
眠たかったのだろうか、そう言った後イニアのスウスウという小さな寝息だけが部屋にこだました。
俺の絵が勝てない理由って一体何だったんだろうか。
俺の結子に関する細かい感性の知識量はイニアよりも圧倒的にある。
しかし勝てなかった。
…分からん。俺には。
分からん…
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