第38話 西蔵

「今チベットに行ってるわ。その人」

 美麗さんが小丸にもう一杯、お代わりのミルクを注ぎながら言った。

「えっ、チベット?」

「そう、修行するんだって」

「修行・・、なんの修行ですか?」

 私は訳が分からない。

「悟りを目指しているそうよ」

「悟り?悟りってあの悟りですか」

「そうよ、あの仏教の悟り」

「へぇ~、仏教ですか」

「そう、チベット仏教ね」

「悟れるんですか。なんかああいうのって何十年とか修行してやっと悟れるか悟れないかでしょ?」

「本人はでもいたってまじめだったわよ」

「そうなんですか」

「うん」

「・・・」

 悟りと言えば厳しい修行というイメージしかない。

「つまり、お坊さんなんですか」

「そう、この村でもお坊さんの格好してたわ。チベット仏教の小豆色の袈裟衣のね。滅茶苦茶浮いてたわ。この村では特に」

 美麗さんはそう言いながら笑う。相当浮いていたのだろう。

「変わった人なんですね」

 私も人のことは言えなかったが、話を聞いた限りでも相当な変わり者っぽい。

「でも、いい人よ。とっても」

「へぇ~、会ってみたいな」

「でも、またいつ帰って来るか分からないからね」

「というか帰って来るんですか」

「そうね。帰って来ない可能性もあるわね」

「・・・」

「そのままチベット人になっちゃったりして」

 美麗さんはまた笑う。


「僕もチベットに行ったことがあるよ」

 今日も畑仕事に精を出す、獏さんに美麗さんから聞いた話をすると、獏さんが言った。

「そうなんですか」

「うん」

「どんなとこなんですか」

 なんだか興味が湧いてくる。

「標高が高くて、すごく空気が薄い。でも、景色は最高にいいよ。空気が澄んでいて、雄大な山々が目の前に広がっている。それを見ているだけで、今まで抱えていた悩みが全部どうでもいい、ちっぽけなものに思えてくるんだ。そのくらい雄大だったな」

「へぇ~、私も見てみたいな」

「人もすごくやさしかったよ。僕みたいな見も知らない外国の旅人に、家に招き入れてくれてご飯食べさせてくれたり、家に泊めてくれたりね」

「へぇ~」

「みんなチベット仏教の熱心な信者だったな。やさしかったのもチベット仏教の影響かな」

 獏さんは首を少しかしげながら言う。

「そういえば、チベットでは、すごく不思議な人に出会ったよ」

「不思議な人?」

「うん」

「どんな人なの?」

「なんかこう、ただ目の前にいるだけなんだけど、すごく、心が落ち着くんだ」

「へぇ~」

「その人そのものが静寂なんだよ。だから、その人の前にいるだけで心がすごく穏やかになるんだ。あれは不思議な体験だったな」

「へぇ~」

「後で聞いたんだけど、その人はやっぱり、すごく、立派な高僧の方だったんだ」

「へぇ~、やっぱり悟りとかって本当にあるんですね」

 日本のお坊さんといえば、胡散臭い坊主丸儲けみたいなイメージしかない。

「うん、あるね」

 獏さんは確信を込めて言った。

「へぇ~」

 私もなんだかチベット仏教に興味が湧いてきてしまった。

「悟りってなんだにゃ?」

 そこで小丸が私に訊いてきた。

「う~ん、悩みとか苦しみとかがまったくなくなる心の状態かな?」

 私は自分で首をかしげながら言う。私にもよく分からない。

「にゃにゃにゃ?」

 しかし、小丸はもっと首をかしげる。小丸には、まったく分からないらしい。

「そうか、小丸にはそもそも悩みとかないから、もう悟ってるみたいなもんなのか」

 私が気づいて笑う。

「そうか、君はいいな」

 獏さんも小丸を見て笑う。そして、私と獏さんは二人して笑った。

「にゃにゃにゃ?」

 小丸はさらに訳が分からず、一人首をかしげていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

小丸との日々 ロッドユール @rod0yuuru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る