第34話 輪廻


「嫌!」

 可奈が顔を上げて金治を見た。「一人にせんといて!」

 金治の胸は激しく痛んだ。

「一人にはせん。この先一生お前の側にいて、お前を守る盾になる」

 畳の上に蹲る金治の全身が真っ赤であることは、不死彦の目にもはっきりと映っていた。

「不死彦!あとはお前が何とかせえよ!」

 だが、受け入れたくなかった。

「金治さん、あきません」

「その為にワシはお前の面倒見てきたんじゃろが!この際や、もうそういう事にしといてくれ!」

「無茶苦茶や……!」

 不死彦に大粒の涙が浮かぶ。

 可奈が、両手両足で金治に抱き着いた。

「一緒にいく!可奈ちゃんもジイジと一緒にいく!」

「阿保抜かせ」

 と金治は優しく微笑んだ。「合唱コンクールで歌うんやろが。太鼓叩くんやろが」

「合唱コンクールちゃう。音楽発表会や」

「ワシも見に行くからな。頑張れよ、可奈」

「ジイジ嫌や、行かんといて。行かんといてぇ!」

「そうよな、そうよな、嫌やよなぁ。でもなぁ可奈。ワシはそうやって嫌がる命を前に、何度も何度も凶刃を振り下ろして来た男なんじゃ。ワシが鬼じゃ。本物の鬼はワシじゃ。ワシを連れて行けぇッ!」

 金治は腰から最後のナイフを引き抜き、立ち上がって可奈に背を向けた。不死彦が必死の形相で手を伸ばした。だがそれより一瞬早く、金治は自分の胸にナイフを突き立てた。

 可奈が、金治の足に縋りついた。

 胸から鮮血を撒き散らして自害した金治は、だがしかし、この世界を離れてほんの数秒後には自分の家の居間に戻って来た。その瞬間、白髪を逆立てた一本角の鬼が、醜く歪ませた口腔を大きく開いた。

「ミツケタ!」

 鬼が飛び上がって金治へと襲い掛かる。金治の全身は再び赤痣で膨れ上がり、もはや身動きひとつとれなかった。

「ちょっとタンマ」

 その、金治の視界から鬼が消えた。

 その代わり、金治と可奈の目の前には不死彦が背中があった。

「金治さん、ここまでです」

「ふ」

 鬼が不死彦のすぐ目の前で着地した。不死彦の右肩のすぐ上に、指先でつまんで持つ柊の葉が見えた。見開いた鬼の目がその緑の葉に注がれている。

「答えを見つけたんですわ、金治さん」

 と不死彦は言う。「私が生まれた理由と、私が今日まで生きて来た意味を、見つけました」

「な、何してんねんお前。そんなことしても……」

「末三さんはあの時、死神に魂を引き裂かれたわけやないんです」

「末三が?」

「さいです」

 不死彦は頷き、言う。「末三さんは命を賭した博打に打って出たんです。さすがに相手が鬼やとは思わなんだけど、んです」

「あいつが、自分で……?」

 金治が発見した時、末三は山形家の近くにある神社の境内で倒れていた。不死彦という人格が誕生したのがまさにその日、だが、事件の背後関係は解明されず終いだった。とは言え、末三が真白に呼ばれて山形家の調査を行っていた以上、死神と目論んだこの世ならざる者の手で何らかの攻撃を受けた、と考えるのは至極当然のことに思われた。

 しかし、全ては末三自身の仕業だったのだ。そしてそこには確かに、金治が口にしたある言葉が影響を及ぼしていたのである。

「末三さんは、引っぺがそうとした」

 と不死彦は言う。「自分の魂を無理やり引っぺがし、仮死状態を作り上げることで死神を一気に自分の方へと誘き寄せよう、そう目論んだんです。一見、常軌を逸したようなこの行動はしかし、本人が画策した計画以上に大きく事を動かしてしまった。何故なら謎の怪異の正体は御覧の通り、死神ではなかった。末三さんは苦悩した。あなた方家族を引き裂いてしまうという思わぬ結果に、それはそれは激しく悔いた。だから、末三さんに成り代わって今ここで、私が罪滅ぼしをするのです」

「お前には関係あらへんやろが!」

 金治は喉が千切れる程の声で叫んだ。

 フフ、と笑う不死彦の声が聞こえた。

「金治さん、私はそういうあんさんがほんまに好きでしたわ。例え過去にどんな過ちを犯していたとしてもね。それに私は、いや私こそ、ここにいたらあかん人間なんです」

「そんなわけあるか!お前が死んだら末三はどうなる!」

「別に。あんさんに直接お別れを言うのが私か末三さんか、その違いしかおまへんやん」

「やめろ不死彦!おい末三!毒三郎!やめさせろ!」

「おい、名もなき鬼さんよ。お前は順番を間違うとるんよ。可奈ちゃんやない。金治さんでもない。先に私を連れて行け。それが筋というもんや、え?一体何十年間違え続けたら気が済むねん」

「不死彦!」

「金治さん。この鬼さんは私がきっちり、地獄の底で捕まえときますんで」

「不死彦!」

 おっちゃん、と可奈が手を伸ばした。

 柊の葉を手放すや否や、鬼の手が不死彦の首を掴んだ。赤痣が巡り、不死彦の目、鼻、口からドロドロの血が噴き出した。だが不死彦は両腕を上げて鬼に抱き着いた。いや抱き着いたのは肉体ではなく、身体から抜け出た不死彦の魂であった。

 小柄な老婆の姿をした鬼は、不死彦の魂にのしかかられるように抱き汲められてそのまま畳の下へと消えた。不死彦と鬼、ふたつのこの世ならざる者の魂が、一緒に地の底へと沈んだのだ。

「おっちゃ……」

 可奈は無意識に手を伸ばした。立ったまま絶命する不死彦の手を握り、そして祈った。おっちゃんに会いたい。おっちゃんに会いたい。もう一度おっちゃんに……。

「戻って来て!」

 しかし、戻って来たのは不死彦ではなかった。

 やがて崩れ落ち、黒い髪の揺れる横顔が見えた時、金治は思わず目を閉じた。そこに倒れていたのは不死彦と同じ肉体を共有し続けた母体、沢瀉末三に他ならなかった。何故なら松林不死彦とは、本人の言葉の通り、初めからこの世に生を受けた人間ではなかったのだから。

「そんな」

 瞼を開け、金治が独り言ちるように言い、声を震わせた。「そんな簡単に行くなやお前、え、不死彦よ」

 どこにも実感はなかった。だが、確かに鬼は消えた。不死彦と共に老婆は地獄へ戻ったのだ。

「ジイジ、どこにも行かんといて」

 可奈は不死彦から手を離し、涙でぐしゃぐしゃになった顔で金治を見上げた。

「可奈」

「ジイ……まだ、顔赤い」

「え」

 金治と可奈、その両者を引き裂くように、畳を角で突きあげながら鬼が戻って来た。鬼は可奈の背後に着地し、その手を小さな肩に乗せた。

「可奈ぁ!」

 その時だった。

 ―――オトウハン。

 声が聞こえた。

 何もなかった空間から白い手が伸び、真横から鬼の体を突き飛ばした。

「真白!」

 まるで実態を持った人間と変わらぬ姿で真白が帰って来た。いや、初めからそこにいた真白の魂が、今ようやく現世へと戻って来たのである。真白は金治に背を向けたまま鬼を方を向き、畳の上に膝を折って座った。長い髪がまるで音を立てるように、金治の家の畳を擦った。

「ただいま戻りました」

 何十年振りに、真白の声が金治の鼓膜を撫でた。

「ま……」

「長い間留守にして申し訳ありませんでした」

「あ、謝るならワシの方や。ワシの方こそ頭下げないかん。お前と千尋を捨てる決心をしたのは、このワシやから」

 真白の頭が、僅かに前に傾いだ。

「すべては私のせいです。私がオトウハンや末三さんを巻き込んでしもたから」

「済んだ話や」

「ほならもう、オトウハンも謝らんといてください。私は、オトウハンと一緒になれて幸せでした。こうして最後にお声も聞けた。もう、思い残すことはあらしません」

「や、やめろ、真白。怖いこと言うな」

「堪忍え」

「やめえ!」

 金治が叫んで手を伸ばす。

 と同時に、老婆に向かって真白が身を投げ出した。

 老婆の目はこの時、可奈ではなくしっかりと真白を見つめて、その唇には赤赤とした微笑みを浮かべていた。

 聞こえなかった。

 聞こえはしなかったが、確かに、老婆の口がこう囁きながら動いた。

「ミツケタ」

 真白が老婆に組み付いた。何人たりともその身に触れることの敵わなかった鬼が、両手を広げて真白の体を抱き止めた。

 まるでスローモーションのように落ちていく真白と鬼の姿を見つめながら、金治は直感していた。もう二度と鬼は現れぬだろう、だがその代わり、真白が戻って来ることも二度とない。もしも鬼が可奈を狙って地上を目指すなら、真白が何度でも蘇って来るだろう。そして鬼はその真白を捕まえて地獄へ引き摺り込む。永遠にその堂々巡りが繰り返され、結果、可奈は守られるのだ。

 そして今この瞬間は、真白が用意してくれた、最後の別れの場でもあるのだ。

「す、すぐにワシも……ッ!」

 そっちへ追いかけるからな―――。

 金治は何とかその言葉を飲み込んだ。しかし、真白は全てを分かった顔で満足そうに微笑み、金治に向かって頷いた。


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