第33話 業の果て


 金治は立ち上がり様に振り向いて、腰に下げていたナイフを引き抜いて鬼の顔面を突いた。光る切っ先を見た鬼は目を見開いて飛び退り、襖をぶち抜いて隣の部屋まで移動した。

「ぐぅ!」

 突如金治の首筋に痛みが走った。見なくとも分かる。痣が広がったのだ。金治は己に残された時間がどれ程も残されていないと知った。だが、金治は怯まなかった。

 より力が強く伝わるようにとナイフを腰高に構えていては、鬼に近付けば近づく程彼奴の視界から消える。どうせ刃先が鬼の体に到達することはないのだから、馬鹿げているとは思いながらも刃を立てて金治は構えた。

「ワシは諦めが悪いんや」

 言うと、右手でナイフを縦に握った状態で鬼のもとへと駆けた。可奈が泣き叫ぶように金治を呼んだ。

 どん、と金治は畳を蹴って、右手を間に突き出したまま飛んだ。バアンと激しく空気の膜に遮られ、金治の体が鬼の三十センチ手前で弾かれた。

 予想出来ることだった。金治は態勢を整えて畳の上に着地し、隠しておいたものへと手を伸ばした。

「可奈!耳塞げ!」

 咄嗟に両耳を塞いでしゃがみ込んだ可奈を横目に、金治は猟銃を構えて鬼に向けた。

 轟音とともに、その振動で天井から埃が落ちて来た。弾丸は鬼の体に着弾せず、空気の膜を滑るようにして後方へと受け流された。弾はそのまま金治の家の壁を粉砕し、どこかへ飛び去った。だが金治はその時、ある事実に気が付いたのだ。

 金治の撃った猟銃の弾は逸れ、鬼の背後の壁を貫通した。しかし、バラバラに砕けた壁の木くずや破片が、鬼の体に当たって畳に落ちたのだ。もちろん鬼はそんな些細なことには気づいてすらいない様子だった。が、金治はそこに活路を見いだした。

「なんや、当たるやんけ」

 金治は猟銃を捨て、腰からナイフを抜いて右手て握った。

「ジイジ!」

 と可奈が呼んだ。

 後頭部が熱い。そして首より下、背中の肩甲骨辺りまでが熱く火照り、ジリジリとした痛みを帯びていた。

「痛くも痒くもないのう。そないなチマチマしたやり方で、ほんまにワシを仕留めることが出来ると思うてか」

 金治が憎まれ口を叩くと同時、赤痣の熱が一気に背中全体を覆った。筋肉が引き攣るような感覚だった。

 金治は舌打ちし、左手を背中に回した。

「はー、腰いた」

 金治は両膝を曲げて低く構えると、鬼と可奈の交差する視線を遮るように足の裏を滑らせた。

 鬼は金治などそこにいないかのように、可奈だけを見つめてニタニタと嗤っていた。金治は思った。この鬼は、ひょっとしたら可奈を攻撃するつもりさえないのかもしれない。可奈が身近な人間を蘇らせる度に、閻魔の使いとして死者を冥府に送り届けているだけなのだ。

『大事なものが何度も奪われる。決して逃げられない。それはいつまでも追いかけてくる』

 真白の予見したものがこれだったのだと、金治は今更ながら思い知った。

 鬼の立場からすれば、きっと、閻魔や自分の行いこそが正義であると映るだろう。死者を呼び戻す人間こそが悪で、自然界にとってのイレギュラーなのだからと。しかし、と金治は奥歯を噛んだ。

 この可奈を見よ、と思うのだ。

 全てを奪われた。それが病なのか運命なのか、はたまたお節介な鬼のせいなのか定かではない、だが金治は可奈が不憫でならなかった。この泣き顔が正義の先にあるべきもので、それが世界の答えだというのなら、自分はやはり、悪でいい。

「正しい行いをすることで、胸を張って死ねると思うたわけやない。ワシはただ、約束を守りたいだけじゃ」

 金治は畳を蹴って飛んだ。

 右手を突き出し、左手を後ろへ回したまま。

 右手に握ったナイフを寝かせ、刃の切っ先で鬼の目を突いた。

 鬼は両手で顔を覆い、見えない空気の膜で金治の攻撃を防いだ。

 だが、金治は後方へ弾かれながら左手でもう一本のナイフを投げた。そのナイフは見事鬼の腕の隙間を通り、鬼の右目に突き刺さった。

 ギャアアア、という鬼の悲鳴が、衝撃波となって金治の家を内側から押した。金治は更に後方へと押し戻され、畳に両手をついて丸くなっていた可奈のもとへと転げた。

「あんなしょうもない葉っぱごときが鬼の眼突きと呼ばれるくらいじゃ、どないかすれば目には刺さると宣伝してるようなもんやろが。見えてなければ恐れることもないと、己の力を過信したな。人間様を舐めるなよ鬼がぁ」

 すぐさま体を起こして啖呵を切る金治であったが、その口からはボトボトと溢れた血が糸を引いた。

「ジ、ジイジ顔!」

 この時点で既に金治の全身が赤く腫れ上がっていた。金治は全身をつかって呼吸しながら、

「大丈夫や」

 と可奈に優しく声をかけた。

 

 金治さーん!

 声が聞こえた。

 金治さーん!

 不死彦の声だった。

 可奈の瞳が希望に揺れた。

「おっちゃん来た。ジイジ、おっちゃん来たで!」

「可奈。よう聞け」

 金治はそれでも可奈を離さず、鬼に見つめたまま低い声で言った。

「ジイジ?」

「あれはもうどないもならん。いくら不死彦であっても、どないもならん」

「……ジ」

 鬼の目から血の涙が垂れ、可奈の前に現れてからはずっと嗤っていた唇が、醜く歪んでいた。確かに金治の投げたナイフは鬼の目を突いた。突いたが、だが、結果はただそれだけのことでしかなかった。鬼は退散するでも倒れるでもなく、忿怒の表情を浮かべただけ。そして金治の命はまさに、風前の灯火であった。

「ワシのせいや」

「……なんで?」

「すまん。可奈」

「ジイジ強いんやろ!ジイジやったら勝てるって!」

 金治はたまらない気持ちになって、可奈の頭を胸に抱いた。

「すまん可奈!」

 そこへ、不死彦が駈け込んで来た。

「間に合った!」

 襖を開いて現場を確認し、金治と可奈が生きていることを見てとり、不死彦が叫んだ。二人の向こう側、すぐそこに白髪の老婆が見えている。

 ―――だがまだ何も終わってない!

 盛大に魚を燻した跡、散乱する何十本もの尖った木材、鬼の顔を濡らす赤い血。金治が必死に抗った痕跡が、不死彦の胸を燃え上がらせた。金治と可奈が生きている限り、まだ終わりじゃないんだと息巻いた。

 だが、金治は不死彦を見上げ、睨みつけるような目でこう言い放った。

「可奈を、頼む」

「嫌や」

 と可奈が金治の胸に顔を埋めた。

「……金治さん?」

「お前言うたよな不死彦」

「何をです?」

「生きてる人間ではあの鬼を攻撃する手段がないて」

「あ、ああ」

「見てみい、ワシのナイフ届いたでぇ」

「あんさんはほんま、えげつない御人やわ」

「せやけど時間が足りん。時間が足りんのよ不死彦」

「金治さん」

「それに、やっぱり決め手に欠けるわ、このままやと」

「あんたぁ、まさか」

「可奈よ。ワシがお前を守る。死んでも絶対に守ってみせる。ワシは死んだら地獄行確定なんじゃ。せやさかいちょっくら行って、あの鬼と閻魔をシバいて来るわ」


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