第32話 末三日記.2
人が生きていく上で欠かせぬ知識、例えば水が何であるか、空気が何であるか、食べられるものが何で、食べられないものは何かなど、経験に由来する情報はすぐに不死彦の中でも再構築された。話すことも、文字を読むことも最初から出来た。ただし、生きる為にもっとも重要であろう「目的意識」を不死彦に持たせるのが困難だった。
存在意義と目的がなくては、多少の知識がある分ふとした瞬間、すぐに自死を選びそうになる。だがその危険は、山形金治が側で面倒を見ると申し出てくれたおかげで問題を先送り出来た。悩んだ末三は、日記をしたためて不死彦に読ませることで自死を回避し、少しずつだが、生きる目的を持たせることに成功した。むろん時間はかかった。始めて数年はそれこそただの日誌でしかなく、どの土地でこんな怪異譚を仕入れた、といった話がほぼ全てを占めた。不死彦にはその怪異譚に対する率直な感想を書かせることで、「考察」という名のもとに、末三が不死彦を必要としていることを理解させていったのだ。おかげで不死彦は末三と同等のオカルティストにはなれたが、かといってその知識を生かす術がなかった。
数年経って、ようやく不死彦が小説家として自立した生活が可能になった頃、末三は過去の話を日誌に織り交ぜていくようになった。真白との出会いと、山形家の周囲で起きた不可思議な出来事を、である。
不死彦はこの日記の中で初めて、真白と死神の事件を知った。ただし、末三本人ですら死神の正体が何であるかを掴んではいなかった。その後交わされた末三と不死彦の考察日記は、当初の目的とはまた違った意味でも、お互いにとって必要不可欠なライフワークとなっていった。
『もしも私の説いた死神説が全くの見当はずれであった場合、これまで我々が得た情報を総動員して新たな推測を構築せしめる必要性を感じる。それもなるべく早急に。何故なら、あの恐ろしい何かが真白様の身に起こる怪現象ではなく、あの御人が予見した未来に起こる事象であったなら、ほとんどの謎に辻褄の会う解答が導き出されることに今更ながら気付いてしまったからだ。そして、その未来に起こる事象、ここでいう恐るべき怪異とは、真白様亡き今、十中八九彼女の子孫に向かうはずである。とても嫌な予感がする。そして今更ながらこの推測に辿り着いた己の未熟さ加減に、甚だ後悔の念を禁じ得ない。私はなすべきことを間違っていた。そのせいで、一体どれ程の心痛を彼らに与えてしまっただろう。掛け替えのない愛情、その時間をまるでどぶに捨て去るような生き方を強いてしまったのだ。万が一、今後金治様より何某かの報せを受けた時、私は今ある全てをかなぐり捨てででも、命を賭して馳せ参じる覚悟である。その時は、残された貴殿にこの家の蔵書と管理の一切をお任せしたいと勝手な言い草ばかり巡らせながら、今これを書いている』
実際には、末三がこの文章を書いたのは今から十年近く前になる。真白が死んで意気消沈した末三が、過去の行いを悔いてしたためた、不死彦にとっては戦慄するような内容であった。その後戦々恐々とする日々が続くも、金治から何某かの報せを受け取ることなく変わらぬ日々が過ぎていった。
だからだろう。不死彦は末三の残したヒントを探し当てるのに苦労した。末三は決して直接的な文言を用いることをしなかったし、また本人さえも何が真実であるかという答えには辿り着いていなかったのだ。
「そういう……ことか……」
しかしこの日、不死彦はついに辿り着いたのである。そして何故、末三が直接的な文言を用いなかったのか、という謎をも理解した。
「今ある全てをかなぐり捨ててでも……か。末三さん、あんさんはやっぱりすごい御人やったんやなぁ」
不死彦は自室の文机で、末三と交わした日記を読みながらハラハラと涙を流した。
「ジイジ」
夜が来た。
可奈の指さす方向に、目があった。
赤く充血した目が、居間の、外れた天板の隙間からこちらを見ていた。天板をずらした記憶が金治にはなかったが、寒い時期でも暖を取ろうと鼠やイタチが出るから、そういった害獣の仕業であったのを気付かず過ごしていたのかもしれない。問題は、そこから覗いている目が害獣のものではない、という事実だった。
「やっぱり鰯でないとあかんか」
言いながら金治は側に置いていた薪を手に取った。先端を尖らせ、人体ならば膂力で貫ける鋭利な凶器に仕上げたものだ。
「可奈、ワシの後ろにおれよ」
「あれ何」
「狸やろ」
「狸あんな大きいん?」
見えている目の大きさは獣のそれではない。明らかに人のものだ。
「見るな。オトンにそう教わったやろ」
「でも」
ガコ、と天板がさらにズレた。可奈がその場で地団太を踏んで怖がった。駆け足で逃げて行きたいだろうに、しかし行く当てがない。
「心配すな、あいつはワシに手が出せんのよ」
と金治は明るく言う。「そやしワシの側におる限り可奈も大丈夫や」
しかしな、と小声で呟いた。
可奈の痣が大きく広がったのはなぜか。相変わらず金治の痣は変わりない。この場合可奈の死期が近い、とも取れるし、鬼に目を付けられ危険が迫っている、とも取れる。不死彦はこの赤痣が鬼の攻撃ではないと言ったが、もし何らかの攻撃であったと場合、どのように対処すればいいのか。あるいは本当に可奈を直接の地獄に引き摺り込むつもりなのか……?
「ジイジ、寒い」
家の中をそよそよと風が吹き、視界を覆っていた焼き魚の煙がどこかへ流れ、消えていく。室温が急激に下がり、金治と可奈の吐く息が白く変わった。
とそこへ、天板の外れた天井裏の闇から、縮れた髪が束になって這い出して来た。鬼が目に見える形で侵入を開始したのだ。
「気色の悪い」
金治が思い切り、尖った木材を投げつけた。すると髪の毛は反射的に闇の中へ消えた。しかしすぐにまた這い出して来る。金治がどれほど強く木材を投げた所で、怯ませることは出来ても侵入をやめさせることは出来なかった。
「やっぱこれもあかんか。追っ払った所で根本の解決にはならんな」
「ジイジ」
金治は膝を折り、可奈を小脇に抱えた。
「そんな顔すな可奈。大丈夫や」
「大丈夫ちゃうやん」
ぽろぽろと涙をこぼす可奈の頬を指で拭いて、
「温いなぁ、お前の涙は」
そう言って金治は笑った。「もっともっと、ワシの獲ったこの山の肉をお前に食わしたいなあ」
「可奈ちゃんも猪肉食べたい」
「なあ、他にも美味いもんようけあんねん」
「食べたい。ジイジと一緒に食べたい」
鬼が、二人のいる居間に降り立った。
ミツケター。
鬼が囁き、嗤う。
「きっと、閻魔はお前のことが羨ましいのやな」
金治は可奈に向き直り、優しく声をかけた。可奈の頬を両手で挟み込み、幼い目が恐ろしいものを見なくて済むよう、自分の方へと向けた。
「きっとあの婆もお前が羨ましいんや。死んだ人間をあの世へ渡さず、魂を呼び戻せる可奈のことを羨ましがってるんや。だからこんなにか弱いお前を怖がらせるんや。阿保やのう」
金治の手の中で、可奈の頬がぶるぶると震えた。
「可奈ちゃん……可奈ちゃんが悪いん?」
「悪いことあるかい」
「可奈ちゃんが悪いから怖いのが来るん?」
「可奈は何も悪ない」
金治は背中のすぐ後ろに、鬼の気配を感じていた。「悪いのは、このワシや」
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