第31話 末三日記.1


「おい、ほったらかしたままにすな。ちゃんと片付けろ」

 金治がそう言うも、可奈は竹馬を庭に捨て置いたまま縁側に向かって歩き出した。普段なら金治も怒鳴り散らす所だが、どうにもそんな気力が沸いてこない。怒るにもエネルギーが必要だ。そのエネルギーを生産する明日への活力が、底をつきそうになっていた。金治は溜息を飲み込みつつ立ち上がり、可奈の代わりに竹馬を拾いに向かった。

「後でまたやるんや、置いといて!」

 可奈に言われて振り返ると、丁度縁側の敷石に足をかけた可奈の側に、千尋が立っていた。金治は驚いて竹馬を手放し、目を擦った。

 千尋は可奈の右側に立って金治を見ていた。その顔は微笑みを浮かべ、全身を埋め尽くした忌々しい赤痣も消えていた。そしてその隣では見覚えのない女性がこちらを見ている。飯嶋家で見た顔だ。おそらくあれが、千尋の妻・茜だろう。そして可奈の左側には、髪の長い女が縁側に腰かけていた。真白である。

「ジイジ」

 と可奈が言う。「聞こえてる?置いといてな?」

「あ、ああ」

 金治は上の空で答え、何も見ていない振りをしながら縁側に戻った。「ちゃんとあとで、片付けえよ……」

 金治は困惑していた。可奈の側に死者が集まって来る現象自体は、すでに心が受け入れている。自分の目に映るそれらがすでにこの世の者ではないこともまた、動かしがたい事実として理解出来ている。だが、可奈が死者を蘇らせると聞いた今、あの時言葉をかわした千尋の姿が思い出されるだけでも胸が痛むのだ。そんな状態で、あるいは家族として共に時を過ごすはずだった死者たちの魂を前に、金治はどんな顔をしていいか分からなかった。しかも彼らは二度死んでいる。死者に心があるとは思わぬが、もしあるならば、一体どんな気持ちで今、彼らは可奈の側にいるのだろう。

「ジイジ泣いてんの?」

 言われ、金治は思わず目元を拭った。涙など零れていなかったが、目尻には少しばかり浮かんでいたのやもしれぬ。

「阿保抜かせ、ワシ、今まで一回も泣いたことないで」

「ええー?」

 可奈は少しだけ頬を緩ませ、「それは噓やなー」と言った。


 その晩、不死彦から電話がかかって来た。

 出るなり、開口一番「無事ですか」と不死彦は大声を出した。

「やかましのお、大丈夫や。もうええから、電話なんかしてくるな」

 不機嫌を装い金治が言うと、

「そういうわけにいきますかいな」

 別れた時とは違い、やや明るい印象を受ける声で不死彦は答えた。金治は首を傾げた。

「どういう意味や」

「こちらでヒントを見つけしだいすぐ戻ります」

「お前」

 諦めてなかったんか、と言いかけて金治は口を噤んだ。希望を抱かせるような不死彦の発言を、今は受け入れる気分ではなかった。

「金治さん、おそらくですけど、しばらくあの老婆は現れんと思うんです」

 と不死彦は言う。

 金治は受話器を右から左に持ち直し、態勢を変えて可奈の姿を探した。可奈は金治の背後で、壁にももたれて座っていた。乾燥しているのか、しきりに手首をぼりぼりと掻いている。やることがない為、日に何度も風呂に入っているせいだろうか。

「金治さん?」

「おう、お前今何言うた?」

「ですから、しばらく老婆は姿を見せんと思います」

「どういうこっちゃ」

「もしあの鬼が、私らが死神やと思っていた奴と同じなら、目的に応じた動きを見せてくるはずです。あの時真白さんには指一本触れてこなかったように」

「何が言いたい」

「つまりその、死者を地獄に引っ張る為に、奴は存在しているわけなんで」

「可奈の周りで誰ぞ死なん限りは大丈夫、そういうことか」

「この場合、その誰ぞは金治さんですけどね」

「お前、ワシいくつや思てるねん。今日でも明日でもおかしないぞ」

「御冗談を」

「ワシが冗談を言う男か?」

「ほな、私が戻るまでは生きとってください」

「だからお前はもうええて」

「一番怖いのは、金治さんが亡くならはった後、鬼が直接可奈ちゃんを引き摺りに来る事です」

「恐ろしこと言うな!」

「ですから金治さんは何卒ご無事で。私も、こっちで末三さんが残してる筈のヒントを手に入れて、すぐにそっちへ戻りますよってに」

「毒三郎の?」

「金治さん」

「そんなもんあるかないかわからんやんけ」

「絶対あると、私は信じてます」

「ほな好きにせえや。何もなかったら戻ってくなよ」

 ジイジ。

「絶対あります。私、多分、何やそれに近しい話を読んだ気がするんですよ、末三さんの日記の中で。でもそれがいつやったのか……」

 ……ジイジ。

「ほお、まああてにせんと期待して……なんや可奈、どないした」

 電話口の向こうで喋り続けていた不死彦の声が止んだ。可奈が、いつの間にか金治のすぐ後ろに立って、服の裾を引いていた。

「ジイジ、痒いわ」

 可奈が金治に手首を見せた。

「可奈!」

 金治は手首を裏返す。「お前これ……こっち向け」

 金治は有無を言わせず可奈を振り向かせ、背中をめくって腰の痣を確認した。赤痣が、大きく広がっていた。

「不死彦」

 金治は受話器を拾い上げて耳に当てた。

「金治さんまさか……そんなわけありませんよね」

「ワシよりも時間がなさそうや」

 金治が言い終えるよりも先に、電話は切れた。

 金治は可奈を抱き寄せ、

「約束する」

 と耳元で囁いた。

「何が?」

 可奈が問う。

「ワシは三界貫く矛と呼ばれた男や。この世の誰よりも強かった。そのワシがお前も守ってやる。今度はお前の盾になる」

「ジイジ強いの?」

「おお、強いぞ。ワシが守ったる。例え死んでも絶対に守ったる」

 金治の放った『死』という言葉に可奈が反応した。体を捩って金治から離れ、

「ジイジ、死なんといてな」

 と、真っすぐに金治の目を見つめた。金治は先程よりも強く可奈を抱きしめた。孫の髪の毛からは、千尋と同じ、お日様の匂いがした。


 金治はそのまま倉庫へ行って、ありったけの木材をナイフで削り、先端を尖らせて側に置き、鬼の襲撃に備えた。狩猟で使う何種類もの刃物も腰に括りつけ、貯蔵庫で凍らせていた魚を引っ張り出して燻し、家中に煙をたいた。金治にとっては魚の焼ける良い匂いがするだけだが、近くで煙を吸い込めば確かに息苦しい。不死彦は鰯が効果を発揮すると言っていたが、生憎鰯はない。魚なら何でも、無いよりはましだろうというなりふり構わぬ行動だった。

「魚ばっかりやな」

 惨状とも言える家の有様を見て、可奈が嘆いた。「可奈ちゃんラーメン食べたいねんけどなー」

「山下りたらなんぼでも食わしたるよ」

「いつー?」

「知らん!」

「あー、ラーメン食べたいなー!ジイジラーメン何が好き?せーので言お!」

「何を?」

「せーの!」

「しょうゆ」

「うまかっちゃん!」

「え?」

「気ぃあわへんなー!」

「……うふふ」

 金治は笑いながら泣けて仕方なかった。なんじゃこいつ、と思った。だが、もはや自分に聞いて来る人間がいないと承知の上で、あえて正直に認めたいと思った。この子は強い。可奈は可愛い。そして、愛おしい。ああ、愛おしいな。可愛くてしかたないな。

 金治は泣きながら煙をたいた。可奈はそんな金治を見て面白そうに笑い、屈託ない無邪気な笑い声に、金治はさらにボロボロと泣いた。


 不死彦に、松林不死彦という名前を付けたのは何を隠そう沢瀉末三であった。当初末三は、己から別れた不死彦の存在を憐みながらも、実存を証明出来ぬ半身を可視化したくて名をつけた。名前があれば、それを呼ぶ者が出来る。他者がその存在を認識出来るなら、例え見えずともその実存は証明される。だが末三の思いはそれだけに留まらなかった。こうして始まったのが、末三と不死彦の交換日記である。

 

 

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