第30話 閻魔
軽トラから降りてすぐ、金治は地面に両膝をつけて可奈を抱きしめた。決して力強くではなかったが、却って包み込む毛布のような優しさが、かつての金治を知る不死彦の胸を深く抉った。
可奈はほとんど反応を見せなかった。どこか不貞腐れたような無関心さで、金治にされるがまま、じっとしていた。
「不死彦」
「はい」
「お前もう帰れ」
「な、何を言い出さはるんですか」
「事の次第はよう分かった。お前を呼んで正解やった。せやけど、こっから先はお前でもどないもならんやろ。せやし帰れ、あとはワシがやる」
「あとって、どないしはるつもりですか」
金治は立ち上がって可奈の手を引いた。
「もうええ、帰れ」
「帰りませんよ!」
不死彦が大声を張り上げた。「可奈ちゃんどないするんですか」
金治は立ち止まって片頬だけ振り向かせ、
「同じこと言わせんな」
と答えた。
不死彦は締め出しを食った。玄関に鍵のかかる家ではなかったが、勝手に押し入っても叩き出されるだけなのは分かっていた。相手は八十を超えた爺だがこちらも五十を超えた初老である。単純な力でも、まだ勝てる気がしない。
不死彦は家の裏手にある物置小屋に侵入し、そこに腰を据えて考えた。主に、自分がここにいる意味をである。末三の残した忠告と、金治から聞いたこれまでの経緯、そして実際に自分が目にしたあの老婆の言動を掛け合わせて推測するに、あの者が閻魔の使いである鬼だという答えに間違いはないだろう。
本来、地獄の使者は人の目に見えない。だがこちら側には不思議な力を持った人間が二人もいた。未来を予見し、あの世から戻って来ることの出来た真白と、その孫であり他者の魂を呼び戻す可奈である。彼女らと接することで、いわゆる霊力というのか、普段は見えないものを感じ取ったり実際に見たりすることが出来たのは貴重な体験だった。それは末三が歓喜する飯の種ではあるものの、そんな彼から分離して生まれた不死彦にとっては、あまり望ましいこととも言えなかった。
確かに、そもそも存在しない筈の自分が、人間として誰かの役に立てていると思えること自体は、実に喜ばしい。だがその方法は何だって良いわけで、何なら目を覆いたくなるような怪現象に立ち向かう必要などどこにもなかった。たまたま末三が怪談蒐集家であり、たまたまそれを下地に小説を書いてみたところ、たまたま作品にしてもらうことが出来た、それだけの話なのだ。
金治はああ見えて他人の面倒を見るのが上手だった。性格はどこか暗く歪んだ部分もあったが、基本的には昔気質の男らしい人物で、自分からから弱音を吐いたことがない。真逆の性格であった不死彦に対して口汚く罵倒することも多かったが、その代わり、引き摺ることもなかった。
考えてみれば、金治にとって不死彦は、殺してしまいたい相手だったとしても何ら不思議はなかった。不死彦さえいなければ、金治が妻と子を捨て去ることもなかったのだ。いくら真白の要請を受けて末三が馳せ参じたのだとしても、そのことと金治の生き様には関係がない。家族を捨てる理由にはならない。それでも金治は、冬の到来とともに山を下りて不死彦の前に現れた。毎年、毎年。
三十年である。当時すでに成人していた末三と違って、突如この世に放り込まれた不死彦は赤子も同然であった。ただ、例え赤子であっても三十年も経てばそれなりの青年にはなる。なんなら十年でも、一人で生活していくことに困ることはなくなった。それでも金治は冬になればやって来たし、彼の性格を考えればきっと、死ぬまでやって来るのだろう。
「もういい」
という言葉は、本当ならば不死彦が金治に言わねばならぬ言葉の筈だった。
可奈が温かい鍋料理を皿に乗せて現れた時、不死彦は声をかけるのも憚られるくらい泣き崩れていた。自分が何とかせねば、金治が死んでしまうと分かっていた。だがひとつも良い方法が浮かんでこないのだ。
可奈は、そんな不死彦を見て何も言えず、皿だけ置いて走って家に戻った。
金治だけではない、あんな可愛らしい六歳の幼子が世界を失ってしまう。父、母、祖父、祖母。世界を切り開く矛となる筈の家族を全て、失ってしまうのだ。
「こんなことしてる場合やない」
不死彦は可奈の持って来た皿を引っ掴んで鍋料理にがっついた。口の中が火傷する程熱かった。だが止まらずに一気に食べた。体の芯から温まってくるのを感じた。
「こんなことしてる場合やないで不死彦。末三さんを信じろ。あん人が、何の秘策も用意せんまま人に頼る筈がない。絶対に何かヒントが残されてるはずや。絶対に何か手があるはずや!閻魔なんかに負けてたまるかぁ!」
不死彦は倉庫を飛び出した。一瞬立ち止まって金治の家に深く頭を下げ、そして全速力で山道を駆け下りて行った。
「すぐに戻って来ます!絶対に私がなんとかしてみせます!それまで可奈ちゃんのこと頼みますよー!金治さーん!」
家の裏手から不死彦の気配が消えたことは、金治も早々に気が付いた。可奈に料理を運ばせた時、不死彦は泣いていたというから、色々と思う所もあったに違いない。消えてくれて良かった、これでいい、金治はそう思った。
「可奈。ワシの首見てくれ」
昼食後のことである。庭で、金治が急ごしらえで作った竹馬に乗っていた時だった。可奈は金治の座る縁側には向かわず、顔だけそちらを向いて、
「何?」
と聞いた。
「首や。赤いか?」
金治は襟元を手で引っ張って首筋を見せた。飯嶋家で浴びた鬼の血飛沫が痣となった。それが広がっているかを問うているのだ。
「赤い」
「大きいか?」
「知らん。可奈ちゃんもともとジイジのそこがどうなってたか知らんもん」
「そらそやな」
無視できる程度の大きさなのだろう、と今はそれで納得することにした。鏡で見た時はさして変化がないように思えたので、金治としてはやや不満だった。何故すぐにも襲い掛かってこないのだ、あの鬼婆は。
「ジイジいつ山下りんの?」
器用に竹馬を操り、庭の中をぐるぐると行ったり来たりしながら可奈が言う。
「せやなぁ」
「可奈ちゃんもうここ嫌や」
「……せやなぁ」
可奈にしてみれば、この家にいい思い出などある筈がない。父が死んだ家、鬼婆に足首を掴まれた家、大型の罠にかかった皺くちゃの老婆を目撃した家だ。山を下りると言ったのは金治なのだから、早い所一緒にどこかへ移動したいと可奈が思うのも無理はなかった。
「可奈よ」
「何」
「お前の側に、オトンやオカンがおるか?」
「……どういう意味?ジイジがおるやん」
「ワシみたいなんと違うて、お化けみたいなやつ」
お化け、という言葉に反応して可奈の顔が曇る。だが金治の言いたいことは理解している様子だった。
「うん」
「今、誰ぞなんか言うてるか。あーせーこーせーみたいな」
「言うてない」
「誰も話しかけてこんのか」
「こーへん」
可奈は少し怒ったように言って、竹馬を下りた。配慮がなかったか、と金治は唇を噛んだ。そもそも生きた人間と同じように霊が話しかけてくるなら、死んだ人間を生き返らせる必要などないではないか。ただ、とも思う。可奈はこの家で何度か死者の魂と交信していた。それが会話だったのか一方的な受信だったのかは不明だが、死者側から何らかの意思表示があったのは事実だろう、と金治は見ていた。
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