第28話 過去世.2
末三いわく、一般的に死神は恐ろしい見た目で描かれる点から、それこそ金治が指摘した悪霊のような存在と混同されがちだが、実際には死者の魂を冥府へ送り届ける案内役なのだそうだ。
「真白さんは特別なお人やから、たまたま自分の死期を予見できた、と仮定しましょう。最初は遠かった嫌な気配が、ゆっくりとやけど近付いて来ていると感じる。とっくに何かしらのアクションを起こしてもおかしいない筈やのに、つかず離れずじっとして動かへん……それが何とも言えん、こう、得体の知れん持ち悪さと言いますか。だってもうすぐ一年ですよ。一年も前から人に張り付く死神なんて聞いたことありませんわ。真白さんかて全然お元気やし病気ひとつしてない。もしあれが死神やとしても、この動きのなさばっかりは意味が分かりませんね」
「引っぺがす事はでけんのか」
「え?」
「もしもお前らのいう人ならざる者が死神ならしゃーない。でも違うなら、なんとかして真白から遠ざけることは出来んのか」
「……引っぺがす、ねえ」
いかにも門外漢の、素人考えの雑な言い草だった。だが意外にも、末三は我が意を得たりといった表情を浮かべてどこぞへと姿を消した。
末三の心が壊れたのは、その直後のことだった。いや、破壊されたと言いかえるべきか。場所は町内にある神社の境内で、行方をくらましていた末三が倒れているのを金治が発見した。この時、末三の髪色は黒から淡い金へと変色し、どことなく顔付まで変貌しているように思われた。沢瀉末三とは別のもう一人の人格、松林不死彦が発現するようになったのはこの日を境にしてであった。両者は期間限定で人格を交代する、同一人物なのである。
季節は冬、丁度十二月に入った辺りだった。その時末三に何があったのかという詳細は金治の知る所ではない。だが末三は「死神のようなもの」によって心を壊され、人格を二つに裂かれてしまったのだ。
真白は大きな悲しみに泣き暮れた。金治の身を案じたばっかりに、無関係の人間を巻き込んで良いわけがなかったと言って、底が見えぬ程の悲しみに落ち、己の過ちを悔いた。
その後ふたつの人格に別れた沢瀉末三は、春から秋までを末三として過ごし、冬の到来と共に松林不死彦として生きることを余儀なくされた。この二つの人格はお互いが記した日記を頼りに現実を受け入れ、近況報告と情報の交換を続けた。末三は不死彦が自分であることを知っているし、不死彦もまた末三が自分であることを受け入れている。金治が千尋に対して「狂人の類」と称した理由が、ここにあった。
末三は事件の後も怪談蒐集家として活動を続け、シーズンオフである冬場になると家に籠り、不死彦として小説を書いている。ただし、二つの人格がお互いを受け入れるまでには、やはりある程度の時間を要した。金治は真白が嘆き悲しむ様を見ながら、あの時自分が口にした提案が末三の心を壊したのではないか、と気に病むようになった。と同時に、結果として真白の心を傷つけてしまった己の無力さにも腹を立てた。だから、戒めの意味で金治は買って出たのだ。
―――不死彦の面倒は、ワシが見る。
それが、金治が妻と子を捨てた背景にある、三十年前の物語であった。
朝日が昇る前に、金治は和水の家を離れた。
外で待たせていた不死彦と可奈のことが気がかりであったし、何より二人に飯嶋家の敷居を跨がせるわけにはいかなかった。むろん六歳である可奈の心を傷つけまいとする思いもあったが、何故可奈が和水の死期を事前に悟ったか、という点にも当然考えは及んでいた。
金治が、飯嶋家の玄関から拝借して来た鍵で軽トラのエンジンをかけた。それを見た不死彦は事情を察した様子ながら、
「泥棒でっせ」
とあえての軽口を叩いてみせた。
「……訴える奴がおらんなってしもた」
不死彦は額に手を当て、大きな溜息をついた。
「和水婆ちゃんは?」
可奈の問いに金治は答えず、運転席から降りて可奈の前にしゃがみ込んだ。
「可奈」
「和水婆ちゃんは?」
「なんでチョコレートもらわれへんと分かった」
「……婆ちゃんは?」
「誰が可奈にそれを教えたんや?」
「……もう一人の婆ちゃん」
「もう一人?」
金治が片眉を下げて不死彦を見上げた。不死彦は頷き、
「とても髪の毛の長い、色の白い綺麗な御人やね?」
と可奈に聞いた。可奈は頷き、
「泣いたはった」
消え入りそうな声でそう答えた。
「不死彦。全部説明せえ」
金治は立ち上り、振り返って不死彦を見た。「真白が大昔に言うとった、とてつもなく恐ろしいものというのが、あの鬼婆なんか?」
辻褄はあいます、と不死彦は答えた。
その後三人は軽トラで山の上の家へと戻った。見ようによっては、怪異が待ち受ける家になど戻らない方がよいのでは、と映るかもしれない。だが怪異は山の上の家ではなく人に憑りついている。それは山道を登りながら辺りを調べた不死彦が自信を持って断言し、金治もまたその意見には理解を示した。もとはと言えば千尋と可奈があの老婆を連れて来たのだ。その可奈を引き連れて場所を変えた所で、行った先にもまたあの老婆は現れるだろう。
「人が亡くなった時、今でもたまに、鬼籍に入る、という表現をつかいますよね」
そう、不死彦が語り始めた。
湯上りに外へ出て、その後金治に担がれながらとはいえ山の麓へと下りた可奈は、さすがに疲れ果てて揺れる軽トラの中で深い眠りに落ちた。不死彦が口火を切ったのは、その車中であった。
「それが?」
ハンドルを握る金治が尋ね返す。
「ここで言う鬼とは、死んだ人間のことです。昔は死んだ人間が鬼になると考えられていたようで、鬼籍とはつまり、死んだ人間の名が記された帳簿。いわゆる、閻魔帳というやつです」
「……それで」
「金治さん覚えてはりますか。私らが真白さんきっかけで出会うた時、末三さんは忍び寄る怪異に対して、死神と呼んでいました」
「覚えてる」
「結局あの事件は、私と末三さんが引き裂かれる形で未解決のまま時間だけが流れました」
「ああ」
「私と末三さんはその後もやりとりを交わし続けていますが、いつの頃からか末三さんは、こんな風に書き記すようになりました。あの時私は、きっと間違えていたのだろう、と」
「死神という見立てが間違ってた、そういうことか」
「御明察」
「実際にはそれが、鬼やったと?」
「まだ推測の域を出ません。末三さんもそこに関しては明言されていませんが、しかしおそらくは」
「可奈のこととどうつながる」
「法則を見つけました。金治さんもお気づきかもしれませんが、あの鬼は決して私やあなたに危害を加えてはこない」
「……確かに」
「それはおそらく、私や金治さんが生きてるからです」
金治は前を向いたまま目を細めた。何となく、不死彦の言わんとしていることが分かった。
「あれが悪霊の類なら見境なく霊障を放ちまくるでしょう。けど対峙した時の、何とも魂を犯されるような汚らわしさ、気色の悪さはあれど、襲い掛かってはきませんでした」
「いや、そやかてワシも例の赤痣つけられたぞ」
「それは別に危害ではありません。死期が近いという意味合いにはなるかもしれませんが、それ自体は攻撃やおまへん」
「ほなら何」
「兆、みたいなものでしょうか、あるいは目印みたいな。いいですか。かつてあの鬼は、生前の真白さんの前にも現れた。しかしある一定の距離からは近付いてこなかった。何故ならあの時点では真白さんにも千尋さんにも、死の前兆はなかったからです」
「ほなら、何で現れたんや」
「可奈ちゃんです」
軽トラのタイヤが小石を踏んで跳ねた。
「……可奈?」
「そうです。鬼は、地獄の閻魔の使いでもあります。そして鬼は、死者を冥府へと誘う案内役。しかし可奈ちゃんは、自分の身近な人間が死んだ時、無意識に死者を蘇らせてしまう恐るべき力を秘めていた」
金治は青ざめた顔で可奈を見やった。
可奈は助手席に座る不死彦と金治の間で、首を傾げて眠っている。
再び車が跳ねた。
「鬼は、いずれ真白さんの血が可奈ちゃんへと流れ着くことを知っていた。だから真白さんの前にも現れたんやないでしょうか。いや、どちらかと言えばこの場合、未来を予見する真白さんの力が、闇に潜む鬼の存在を探し当ててしまったのかもしれません」
「ま、真白の血ィてお前、そんな……真白はそんな、死んだ人間を生き返らせたりなんぞ……!」
「真白さんは死者を蘇らせたりしません。しかし彼女は」
金治は急ブレーキを踏んで、前方遥遠くを見つめる不死彦を睨んだ。
「何じゃ不死彦。言うてみい!」
「彼女は、死なない。真白さんは自分自身を蘇らせることが出来る。違いますか、金治さん」
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