第26話 また


「可奈ちゃん、美味しい?それ」

 不死彦が問うと、

「うん、食べる?」

 普通の顔をして可奈は個包装されたチョコレートをひとつ、不死彦に差し出した。不死彦はそれを受け取り、包み紙を解いて中身を口の中に放り込んだ。高級なチョコ特有の香り高い甘みが舌の上に広がった。不死彦の指先が触れた時、可奈の手は熱く、やや湿り気を帯びていた。

「ジイジは?」

「……もらおか」

 金治も一つ受けり、だが開封することなくこう尋ねた。「可奈は、例えばワシとオトンと、両方の声が聞こえる場合は、どっちの言うことに従うんや?」

「……何言うてんの?」

 可奈が眉をしかめて言った。「ジイジに決まってるやん」

「そうなんか?」

「せやで、そうせえって言われたもん」

「誰に」

「あ」

 という声は出なかった。しかし可奈は咄嗟に両手で口を覆い、そして金治の膝を手で叩いた。「もう、これ以上聞かんといて!可奈ちゃんまだ六歳やで!」

 金治と不死彦は見つめ合った。

 ―――口止めされとる。

「思い出しませんか、金治さん」

 と不死彦が苦笑いを浮かべた顔で、言った。「我らが闘争の日々を」

 金治は答えず、過去に思いを巡らせた。

「私は」

「ええんか」

 だが、金治は不死彦の声を遮って言った。「ここでのんべんだらりとくっちゃべっててええんか」

「平気ですわ」

 と不死彦は答えた。「私の推測が間違いでないなら、少なくともあの婆さんは金治さんに手出しできません。そして、おそらくこの私にも」

「……ほなお前」

「ええ。あの婆さんの目的は可奈ちゃんです」

 チョコを頬張る可奈の手が止まる。

「余計あかんやろ!」

 金治が吼える。

「大丈夫です。わけがあります」

「何や」

「残念ですが、全員殺されてしもたからです」

 不死彦の言葉に金治は目を白黒させた。

「どういうこっちゃ?」

「金治さんは、真白さんが普通の御人やないこと、ご存知ですやろ?」

「真白?……あいつが未来を予知する、そういう話か」

「はい。でも、ほんまはそれだけやないのと違いますか?」

「何や、お前が真白の何を知ってる?」

 その時、

 ―――あ。

 可奈の手から、チョコレートの包み紙が落ちた。

「ジイジ、チョコレート。もうもらわれへんかもしれん」

 と、可奈が金治に向かって囁いた。秘密の話をするように、小さな声で。 金治の気持ちとしてはそれどころではなかったが、

「何でや」

 と、つい条件反射で尋ね返していた。しかし、

「……」

 可奈は答えなかった。

「このチョコって、麓の家の、あの飯嶋さんからもらった奴ですよね」

 不死彦の問いに、

「そや」

 と金治が答える。

「飯嶋さん、?」

 と不死彦が念を押すように聞いた。

 跳ねるような勢いで金治が立ち上がった。

「元気にはしとった。ほいでも息子には電話で調子悪い言うてたらしいし、咳もしとった。何でそないなこと聞く」

「ああ、あかんあかんあかんあかん」

 不死彦は慌てて立ち上がった。「い、行きましょ、今すぐ行きましょ」

「だからなんでや不死彦!」

「走りながら説明します!」

「可奈!」

 金治が手を伸ばした。「残りのチョコレート取りに行くぞ」


 三人は夜の山道をひた走った。

 金治は両肩に可奈を乗せ、八十過ぎとは思えぬ健脚で砂利道を蹴る。それは慌てふためき先に家を飛び出した不死彦を追い越す程の速度だった。昨日山道を下る時に使った三輪運搬車は、飯嶋家の敷地に置いて来てしまっていた。

「ジイジ怖い!ゆっくり!」

 と可奈が悲鳴のような声をあげる。

「無理や!止まったらこける!」

「金治さん待って!」

「不死彦!和水がなんや!あいつに危険はない筈やろ!わけを言え!」

「それは……!」

 飯嶋和水が健康ならば、その筈だった。あるいは山形可奈と出会わなければ、危険が及ぶこともなかった。しかも問題があるのは和水でも老婆ではなく、可奈の方だった。

「可奈ちゃんはおそらく!自分の意志とは関係なく!んです!」

 不死彦が喚くように言った。覚悟も決心も何もない。不死彦にとっても勢い任せでなければ言えない言葉だったのだ。

「出会ったばかりのお前に何で分かる!口から出まかせやったら承知せんぞ!」

 金治は振り返らずにそう叫んだ。可奈の顔を見ずに済んでいることは、金治にとっても有難かった。

「出まかせやありません!」

 と不死彦も叫び返した。「ああ、末三さんが考えを改めはったのはこれのせいか!真白さんや末三さんが感じてた嫌な予感の正体はこれやったんや!」

 この時金治が受けた衝撃はまさに筆舌に尽くしがたいものがあった。足を止め、不死彦の両襟を掴んで締め上げたい程の怒りもあった。だが今足を止めれば転んでしまうだけではない。一瞬一秒立ち止まったが為に、三十年来の友人を失う羽目になるかもしれないのだ。

 金治はこれまで、決して麓の村で愛想を振りまいて来なかった。進んで人付き合いもしてこなかった。その中で、和水だけは特別だった。愛情などと呼べるものがいつに間にやら育まれていたと、そういった話もでない。頭のてっぺんから爪先まで、全身隈なく他人の血を浴びてきた生粋の人殺し。そんな金治を人間として扱ってくれる唯一の存在。ただ単純に、今こうして自分が生きていることを見ていてくれる、和水はたった一人の存在だったのだ。それはおそらく、夫に先立たれた和水にとっても金治は同じだったのだ。だから、止まるわけにはいかなかった。


 山を下り、和水の家に辿り着いたのが何時頃だったのかまでは分からない。夜は明けていなかった筈だが、明かりがないにも関わらず家の様子が肉眼で見て取れた。金治たちが到着した時、飯嶋家の玄関扉が開いていたのだ。金治は可奈を下ろして不死彦に預けると、ナイフを抜いて一人家の中へ入った。

 土足のまま上り框に足をかけ、

「和水」

 と名を呼んだ。「不用心やぞ」

 家の中は嫌に静かだった。金治は靴を履いたまま廊下を進み、リビングダイニングへと続く扉に指をかけて中を覗いた。

「なご……」

 ダイニングテーブルに和水の姿があった。椅子に腰かけ、廊下の金治に背中を向けている。息を殺して中の様子を伺うも、目の届く範囲に老婆の姿はなかった。金治はそのまま五秒和水を凝視し、それからゆっくりと足を踏み入れた。

「おい」

 低く声を発すると、

「金さん」

 突然和水が返事をした。金治は足を止め、

「どないした、寝てないんか」

 と声をかけた。

「分からん。寝た筈やけど、何でかここに座ってる」

 金治は和水の隣に立って、肩に手を置いた。

「調子悪いんか」

「いや、なんや、それもよう分からしまへん」

「なご」

「金さん」

「……おお」

「もうちょっと、ワテら、お互いのこと話ししても、良かったんかもしれませんな」

 和水は俯いたままそう言った。

「ああ。かも分からんな」

「なるべく詮索せんように気を使ったつもりが、ただ単に、踏み込むことを怖がってただけなんや」

「そうかぁ。でもワシは、そういう奥ゆかしい和水をありがたいとを感じてたよ」

「あはは、ほな、ワテの一方通行でしたな」

「……和水」

「かましまへん。ワテかてうちの人のこと、まだ忘れてやしまへんよってに」

「お互い様やな」

「よう言うわ」

「……」

「ちょっと時間が足りませんでしたわ。ほんまはもうちょっと仲良うなれた筈なんやけど」

「別に今からでもええがな。お前らしいないぞ。うちの孫にまた美味しいチョコやったってくれや。車に乗り切らんくらいワシにも野菜くれや」

 音もなく和水が血を吐いた。吐いた血はテーブルを汚し、和水の両膝に落ち、足元を濡らした。驚いた金治が覗き込むと、和水の顔は真っ赤な痣で腫れあがっていた。

「何でや」

 と金治は言った。「何でこんなことに」

「あきまへんえ、金さん。恨んだらあきまへん。これはもう仕方がないことなんです。ここでこうして金さんと最後に話しがでけた。それだけでホンマは、もの凄い奇跡なんやと思います」

「和水」

「金さん。ほな……また」

 何でや、そう叫んだ金治の声は、家の前で茫然と立ち尽くしていた可奈と不死彦の耳にもはっきりと届いた。


 



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