第25話 因果
「ど、毒三郎!」
金治が叫んだ瞬間、目の前にいた不死彦が消えた。そしてそこには、同じく金治が良く知るもう一人の男が立っていた。その男は名を、沢瀉末三と言った。
「金治さん」
「末み……!」
「金治さん!」
沢瀉末三は前を向いたまま叫んだ。「気付くべきやったんです金治さん!」
「な、何をや!」
「この子が真白さんの孫やと分かった時点で!気が付くべきやったんですよ!」
驚愕して立ち尽くす金治と可奈を見据えて、老婆は嬉しそうに目を細くして嗤い、不格好に飛び跳ねた。血のように赤い口腔内が蹴鞠のように弾んでいる。ミツケタ、ミツケタと子どものように繰り返しながら老婆は嗤い、金治が落とした箱罠を内側から手で押した。
「もはやこれは、どないもならん因果律です」
沢瀉末三はそう言って両膝から崩れ落ちた。
「ちゃんと分かるように説明せえ!」
と金治が怒号を飛ばす。
「あれですよ金治さん。あれが、私たちを引き合わせた者の正体です。真白さんと共に立ち向かおうとした、あれが、本物の……」
「真白と……?ほな」
金治は見た。
大型の金属ゲージを苦も無く押し、形を変形させて老婆は外に歩み出た。勢いはなく、重量のない布か紙でも押しのけるように、老婆は金治の罠を打ち破ったのである。
金治の足元で沢瀉末三が倒れた。見るとその頭髪は元通り、不死彦の持つ金色へと戻っていた。可奈は何が起きているのか理解出来ぬ様子で泣きわめき、横たわる不死彦の体に縋り付いた。が、
「逃げて!」
その可奈が突如叫んだ。ぎょっとして金治は可奈を見下ろした。
「逃げて末三さん!もう逃げて!」
可奈の声だった。だが可奈が発する言葉ではないように思える。金治は目を見開いたまま可奈の肩を掴んだ。
「オカアハンか?」
可奈が金治を見上げた。
「早く逃げてください!もうこれ以上巻き込みたくはありません!」
「真白」
「オトウハン!堪忍え!」
金治は可奈の肩から手を離し、老婆を見やった。
ゆっくりとした足取りで老婆が近付いて来る。
すでに距離は十メートルを切っていた。
金治は腰にぶら下げていたホルダーから大ぶりのナイフを抜いて、
「行け、可奈」
と言った。金治は今そこにいるであろう真白の魂ではなく、あえて可奈に呼びかけた。頭が混乱している。状況が理解出来ぬ今、真白に対してかける言葉が思いつかなかったのだ。
「行け!可奈!家ん中戻れ!」
可奈の体が立ち上がって踵を返し、脱兎の如く駆けた。金治は後ろ足で不死彦の体を蹴り、
「はよ目ぇ覚ませ!」
と怒った。
「起きてます」
と不死彦が答えた。「なんや変な気分ですわ。私、今、一瞬気ぃ失のうてました?」
「ええから立て!」
「無理ですぅ」
「お前……ッ」
じりじりと老婆が近付いている。金治は手に持ったナイフを投げるべきか迷った。風呂から出てすぐに家の裏手に直行した為、有効性がありそうな刃物は今金治の手の中にあるこれ一本しかない。
「金治さん、私のズボンのポッケにあと一つだけ煙玉があります。それを」
金治は屈んで不死彦のズボンを探り、紙で出来た包帯のようなものでぐるぐる巻きにされたそれらしき玉を取り出した。それを握って老婆に投げつけようとした金治の目の前に、老婆の姿があった。両者の距離はすでに三メートルもない。このまま投げても、おそらく効果はあるのだろう。だが金治は投げられなかった。
老婆の目が、家の中を見ていた。
「ふん!」
金治は反射的に、腰高に構えたナイフを突き出し、老婆に襲い掛かった。今度は弾かれなかった。だが、ナイフの切っ先はやはり老婆の数ミリ手前で止まっている。
「グウ……!」
どれだけ力を込めても、金治の体はそれ以上前に進まなかった。しかし不思議なのは老婆の行動である。明確な殺意、仮にそれを攻撃性と置き換えても同じだが、それらを持って襲いかかる金治を前に、老婆はこれまでも一度として反撃してこなかった。その意志すら見せないのだ。確証はないにせよ三人の人間を呪い殺した鬼でありながら、この一貫性のなさは何だ……?
「……そうか」
不死彦が呟き、力を振り絞って重たい体を持ちあげた。意識を失って以降、全身が鉛のように重かった。震える腕で上体を起こし、膝をたてて勢いを付けた。
「鬼さんこちら」
不死彦は立ち上がり、老婆の視界に入るよう柊の葉を持ち上げて見せた。
ドン、と老婆が地面を蹴って後方へ飛び退いた。
「今です」
不死彦の合図を受け、金治は煙玉を老婆目掛けて投げた。途端に魚を焼いたような強烈な臭気が立ち上り、ニイィィ、という不快な鳴き声と共に老婆の姿がさらに後方、山の木々の中へと飛んだ。
「追い払えるのもこれで最後でっせ、金治さん」
不死彦が言う。
「分かってる」
金治は答え、可奈の待つ家の中へと急いだ。
息子である千尋には結局言えず終いであったが、金治は決して、妻と子を捨てたわけではなかった。縁あって昔からの知人である毒三郎=沢瀉末三の頼みで松林不死彦の面倒を見て来たというのは本当だし、それが理由で妻子のもとを離れたというのも間違いない。ひとつだけ周囲の認識と食い違うのは、そのこと自体は金治の望みではなかったし、別離にはそれなりの苦痛が伴った、ということである。だがそれもこれも、すでに三十年以上前の話だ。山で一人生きて来た金治にとっては、全てが終わった事の筈だった。
「可奈ちゃん、ひとつ聞いてええかな」
居間で向かい合って座り、不死彦が尋ねた。可奈はまるで現実逃避するがごとく、和水にもらったチョコレートを無心で頬張った。
「何?」
聞き返す目も真剣である。怖い話はせんとってや、とでも言いたげだ。
「可奈ちゃんはこれまで、自分の周りに、その、変わった人を見たことはない?」
「……」
可奈はもぐもぐと口を動かしながら不死彦を見つめ返した。質問の意味が理解出来ていない様子だった。
「あのー」
不死彦は言い淀み、「そのー、死んだ人が、現れることはないかなぁ、て、思って」
何を言うとる、と金治が言い返した。怒るというよりかは、何を素っ頓狂な、とでも言いたげな顔であった。
「可奈ちゃん。今この部屋に、私と金治さん以外に、ほんまは誰ぞおるのと違う?」
さらに問う不死彦にそれ以上言えず、金治は可奈の横顔を見つめた。
「……まさか」
いや、これまでにもそれらしき言動は確かにあった。縁側に座る可奈が室内を振り返り、真白のような口振りで金治をオトウハンと呼んだ。他にも千尋の死後、眠っている可奈を抱きかかえるような見えざる手の気配を感じた。母の職業を尋ねた時、可奈は誰かに耳打ちされたような様子で「司書」と難しい名称を口にした。初めてこの家で真白の幻覚を見た時も、庭で遊んでいた可奈は金治たちの方を真顔で見つめていた。先程もそうだった。失神した不死彦に取りつき、逃げろといった可奈の中にいたのは、真白だった。……見えていたのか、ずっと。
「可奈、お前」
「可奈ちゃんにとっては、別にそれが普通のことなんかもしれません」
と不死彦は言う。「もしかしたら、この世ならざる者、という感覚すらなかったのかもわかりませんね」
「だから」
だからか、という思いも金治にはあった。母を亡くし、すぐまた父を亡くした。それなのに数日後にはゆーちゅーぶが見たいと可奈は言い出した。千尋は我が子を強い子だと言った、だがそうではない。死んだ茜も千尋も、真白でさえも、ずっと可奈の側にいたのではないだろうか。だから、可奈は寂しくなかったのだ。
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