第24話 表と裏


 金治が家の裏手にしかけた狩猟罠にはいくつか種類があった。ひとつは別名「箱落とし」と言って、金属で出来たゲージに野生の小動物が入った瞬間重りを乗せた天板が落下してくる罠、そしてふたつ目は猪や熊など大物の獲物を捕獲するための箱罠である。金治は普段、狩猟目的ではなく身を守る為に家の近くに大型の箱罠を設置していた。だが今回罠が作動し、金治の家の木板を鳴らしたのはそのどちらでもなかった。

「相手に意識や知能があるようなバケモンの類なら、ここいらの動物がかかるような箱罠にはそもそも踏み入らんやろうと考えた」

 と金治は言う。「そやし、天板やのうて箱そのものをと落としたわけよ」

「え、でも、せやかて金治さん」

 不死彦にも金治の言わんとしたことはよく分かった。だが問題はその方法である。金治は罠にかかった獲物の上に天板を落とすのではく、獲物の上に直接箱罠を落とした、と言ったのだ。大型の、熊でも捕獲できる金属製のゲージを、である。

「なんぼ金治さんが元気や言うたかてそない」

「テコの原理を使えば誰でもいける。滑車とロープを使えば上に吊るし上げることくらいなんぼで……」

 唐突に金治の説明が止んだ。怖いものを見なくて済むよう下を向いたまま金治の後ろを付いて歩いた可奈は、突然立ち止まった金治の尻に顔からぶつかった。するとそこへ不死彦が前へと走り出て、眼鏡をクイと指で持ち上げた。

「……こいつぁ、たまげた」

 不死彦も、まさか、という思いを拭えなかった。

 鬼が、罠にかかるなどとは本気で想定していなかった。むろん金治に対して、実態を見たいと言った言葉自体は本心である。だが不死彦にとって金治の扱う狩猟罠とはそれこそ家の周囲をぐるりと囲んだ木板の鳴り物と同じで、相手の出現を報せてくれさえすれば良い、程度に考えていた。そもそも不死彦の推測通り相手が鬼かそれに近い幽玄の者ならば、人の手で捕縛するなど到底不可能である。だが、金治は捉えたのだ。

「老、婆」

 不死彦にもその者の年齢は読めなかった。枯れ枝のような手足を覆う白い着物、ほとんど色のない肌に刻まれた亀裂のような皺。爆発したように膨らんだ真白い頭髪。無感情な目でこちらを見ているその老婆が鬼であるかどうかは、しかし不死彦にも読み切れなかった。ただし人ではない……それだけは見た瞬間理解した。

「お前が和水の家の前で見たんも、あれで間違いないか」

 と金治が問うた。

 不死彦は金治のその声にすら驚きつつ、

「いや」

 と答えた。「実ははっきりとした姿は見てません。なんや針金がもじゃもじゃーと絡み合ったような、気色の悪い影が揺らめいてるのが見えただけで、煙玉が効いたことさえ私自身が驚いたくらいです」

「ああ」

 金治にも覚えがあった。金治が初めてその存在に気付いた時も、千尋と可奈の背後に不死彦が説明したような影を見たのだ。今こうして肉眼で捉えている老婆の姿としてではなく、気色の悪い気配として。

 あの老婆は本来、人の目には認識出来ぬ存在なのかもしれない、とも金治は思った。因果関係を持ってしまった千尋や可奈と接触することで、段々とその存在を眼で見るようになっていったのではないか、と。

「ほいでどうや」

 金治が問う。「実際に目で見てどう思う」

「どう、て」

 両者の距離は、二十メートル程離れている。夜の、家の、裏手である。人工的な明かりはなかったが、憎らしい程に月が綺麗な夜だった。不死彦はその老婆をじっと見据えるうち、ボロボロと涙を流し始めた。

「金治さん、あんたようあないな者と向かい合って無事でおりましたな」

「……鬼、か?」

「でしょうな」

 その瞬間、屈んだ姿勢であれば人でも入れる大型の罠の中で、老婆がニタリと嗤った。

「……ミツケタ」

 囁く老婆の声に、く、と呻いて不死彦は半歩後ろへ下がった。

「可奈ちゃん、もっと後ろへ行ってくれ、おっちゃんもう逃げ出したいわ」

「可奈ちゃん何も見てない。何も見てないから知らん」

「不死彦」

 金治が不死彦の襟首を掴んだ。「しゃんとせえ、お前だけが頼りなんじゃ」

「……」

 不死彦は無意識に閉じていた両の目蓋を、ゆっくりと開いた。

 山の頂上から降りて来た風が、ゲージの中に佇む小さな老婆を撫でた。

 老婆の膨らんだ頭髪が風になびき、隠れていたそれが金治たちの目の前に曝け出された。

「おわ」

 思わず不死彦はそう口走った。終わった、と、そう言いかけたのだ。

 老婆の額から三センチ程上に、角が生えていた。

 皮膚を突き破って天に向かう、頭蓋骨と同じ色をした一本角だった。

「あ、あきません金治さん」

「何じゃ」

「人由来とかそんなもんやないです。あれ、ほんまもんの鬼や」

「最初からそう言うてたやないか!」

「あ、あれは、あれあれは、あれ、あれがあれあれの、あれがあれがあれがあれあれ」

 おっちゃん?と可奈が目を開けて不死彦を見上げた。

「嫌ッ!」

 叫ぶ可奈の目の前で、不死彦の頭部が物凄い速度で揺れていた。それは最早、揺れるなどといった生易しい動きですらなかった。はっきりとその残像が見える程、不死彦の頭が超高速で前後に振動しているのだ。脳震盪を起こしても何ら不思議ではない。

「おっちゃん!」

「不死彦!」

 金治が両肩を掴んでやめさせようとした。不死彦が狂ってしまった、鬼の姿を見たがために、心に狂いが生じてしまったと金治は思った。

「あがが、あれれれ、あれあれあれ、あれはははははは」

「不死……!」

 前に頭を振る不死彦。

 後ろに頭を振る不死彦。

 前に頭を振る不死彦。

 後ろに頭を振る不死彦。

 前に頭を振る不死彦。

 後ろに頭を振る不死彦。

 前に頭を振る不死彦。

 後ろに頭を振る不死彦が次の瞬間、別の人間に見えた。

 前に頭を振る不死彦。

 後ろに頭を振る別の人間。

 前に頭を振る不死彦。

 後ろに頭を振る別の人間。

 前に頭を振る不死彦。

 後ろに頭を振る別の……。

「お前」

 金治はようやく気が付いた。不死彦の頭にダブって見える、その別の人間の顔を金治は知っているのだ。

「ど、毒三郎!」

 金治が叫んだ瞬間、目の前にいた不死彦が消えた。そしてそこには、同じく金治が良く知るもう一人の男が立っていた。その男の髪の毛は不死彦と違い、月光を映す程黒々としていた。男は名を、沢瀉末三と言った。



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