第19話 手紙


 特別恐ろしい形相をしているわけではない。

 そも、生きている人間でこれと同じ人相をしている者にお目にかかったことがなかった。どこかで見たことがあるような、それでいてどこにもいそうでない人の顔。年を食い、乾いた灰色の皮膚には数え切れぬ程の皺が刻まれ、溝同士がつながって幾何学的な紋様を描いている。だが、恨めしいだとか妬ましいだとかいった負の感情が浮かんでいるでもなく、金治の思う強いて言うなればという印象は、

「死相」

 であった。まるで生きている人間には思えなかった。むろん実在する人間だと思って見ているわけでもないが、まず受ける印象の一番手前に来るのは虚無、震えがくる程の死の香りであった。激烈な殺意を抱いた人間の生々しい生存本能を多く見て来た金治にとっては、この世に実在することに根拠を持たない幽玄の頼りなさには得も言われぬ不気味さを覚えるのだった。肉眼で死霊を捉えることの精神的なダメージは、露出した血肉の感触や匂いに慣れた金治であっても耐え難かった。

「よくも千尋をやってくれたのう」

 そう言う声もわずかにだが震えていた。これまで多くの人間を殺めて来た金治は今まさに、

 ―――見てるだけで命を削り取られる!

 死、そのものと向かいあっていた。

 

「な、なんしとんなんしとん、なんしとんな!」

 和水は突如走り出した可奈を追いかけた。玄関からリビングへ向かい、食卓の上に無造作に置いてあった新聞や郵便物の束を手当たり次第に物色し始めたのである。夜中に現れ、何の断りもなしに一体全体何なのだ。幼児とは言っても、物事の善悪くらいはぼんやりとでも掴み始めている頃だろう。それが一体、どうしてこんな……。

「あんたあんた、な、やめてて、ちょ、おばちゃんの大切な手紙も入ってるやもしれんねんから!」

 実際には、誰からも手紙など来ないことは和水自身よく分かっていた。どうせ公共料金やネットショッピングの請求書などが、手つかずで乱積みされているだけなのだ。まさか金治から指示をうけた可奈が、必死に不死彦からの手紙を探しているなど夢にも思うわけがなかった。

 可奈は金治からこう言い含められていた。

「手紙や、可奈。ええか、上等な紙や。手で触るとツルツルしてない。ザラザラしてる。封筒に入ってる。封筒分かるな?全体的に白かキナリの封筒や。キナリは白っぽい肌色や。多分分厚い。それ探せ。触った瞬間分かる」

 だが、可奈が見つけた紙束の中にはそれらしき封筒はなかった。

「どこ!?どこ!?」

 可奈は半泣きになって叫んだ。

「な、何がどこなん、何探してるんや!」

「手紙!封筒!ジョートーなやつ!」

「手紙?」

 ここで和水はピンときた。

 先日彼女は千尋から金治の手紙を預かった。手紙はその日のうちに街の郵便局に持ち込んだ。ということは、ここで言う可奈の手紙とは相手側からの返事なのではあるまいか。

「ほな」

 和水は言った。「そこにないならまだ玄関の郵便受けやわ。今日はワテ開けてないから。でも外には出ん方がええわ、さっきの気色悪い手、あれ何やのんな?」

 だがそんな和水の忠告を無視し、可奈は脱兎のごとく玄関に走った。

「ジイジ!手紙!郵便受け!」

 背中に可奈の声を受け、金治は少しだけ活を入れられた気がした。当てずっぽうで後退しながら郵便受けを手で探し、蓋の中に手を入れて掴んだものを抜き取った。

「……これじゃあ」

 確かに、可奈に説明した通りの封筒が届いていた。

 老婆は金治の前方十メートル程の位置に立ったまま何もせず、ただじっと金治を見ているだけである。金治は老婆を見据えたまま封筒を指で開け、中から手紙の束を取り出した。

「なんじゃ!?」

 老婆が動いた。

 顔を右下に向け、左足を後方へ引いたのだ。

 金治は右手に持った不死彦からの手紙に何らかの効果があったもの、と思った。だが折り畳まれたそれを目の前で開いた所で、老婆にそれ以上の動きはなかった。

「……あん?」

 その時、足元に何か落ちていることに気付いた。どうやら封筒に入っていたものを、手紙の束を抜き取る際に落としたらしい。

「なんや」

 それは緑の葉っぱであった。金治が指でつまんで拾い上げると、老婆が目を見開いてこちらを見ていた。真白い唇が開いて赤い口腔が覗けている。

「……」

 ―――効果は手紙やのうて、この葉っぱの方にあるんか?

 金治は謎の葉っぱを摘んだ指先を、グイと前に突き出して見た。

「……!」

 老婆が明らかに顔を背けて後退した。まるで人間のような動きをする。あれ程までに恐ろしかった悪霊がごとき存在が、金治の持つ緑の葉っぱの前では単なるしかめ面の老人となる。金治は右足を前に出して距離を詰めた。老婆は顎を引いてさらに後退し、枯れ葉のような両手で目を覆った。これを金治は勝機と取った。

「よくも千尋を!」

 金治は後ろへ引いた左足で地面を蹴り、一足飛びで老婆との距離を縮めた。だが、殴り掛かれば拳の届く至近距離までお互いの体が接近したその瞬間、老婆は顔前の両手をどけて、

「バハー!」

 と血煙を吐いた。金治は咄嗟に身を捻ってそれをかわしたが、少量の血飛沫を頬や首筋に浴びた。

「フン!」

 金治は着地と同時に固めた拳で老婆の喉を突いた。だが、突いた瞬間、バチーンと音がして金治の拳が弾かれた。完璧なタイミングだった。何十年かぶりに人の命を殺めた感触だった。だが予想に反し、返って来た本物の手応えは、打った拳を伝わり全身を後方へ下がらせたのである。老婆は身じろぎひとつしなかった。というより、金治の拳は老婆に当たりもしなかった。手前で見えない空気の膜に遮られたのだ。

「ぐうう!」

 だが金治の手にあった緑の葉っぱを見た瞬間、老婆は恐ろしいまでの速度で後方へ飛んで、闇夜にその姿を紛れ込ませて消えた。金治は一旦引いて、和水の家へと飛び込んだ。


『拝啓

 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。

 さて、こうして例年よりも早い段階で、貴殿らに取り急ぎお手紙をしたためるのにはいささか困った経緯があるからでございまして……』

 金治が出した手紙には、妻を失い、自分の首筋に浮かぶ謎の赤い痣を思い煩い、幼い孫を率いて訪ね来た息子、千尋との再会についてが書かれていた。と同時に、金治の目から見た千尋たち周辺に起きる此度の怪異、謎の老婆の気配、茜の症状(高熱、血を吐いて死ぬ等)の他、千尋自身に老婆が憑りついたかに見える現象までが事細かに書き連ねてあった。その後惜しくも千尋の命は取られたが、不死彦が寄越した返事には必ずや真相解明に繋がる情報が書き記されている……筈だった。

 ところが、その不死彦からの手紙に目を通した金治は愕然とする。手紙にはこう書かれてあったのだ。

『同封する緑の葉を持って怪異に立ち向かい、もしも一定量の効果が認められた場合、基本的にはその怪異から逃れる術はないと諦めるがよろしいかと……』

 なんでじゃ、と叫んで金治は近場にあった椅子を蹴り飛ばした。和水の家の椅子である。和水は唇に挟んだ煙草を取り落として震えあがった。

 可奈は金治が椅子を蹴ったことよりも、常に冷静でどっしりと構えていた祖父の動揺の方が怖かった。わざわざ夜中に山の家を出て移動して来たからには、きっと良い方向へ向かうための理由がある筈だった。可奈は金治を信じていたし、信じたかった。だが金治の顔には怒りが浮かんでいた。

「何でじゃ不死彦……」

 それは抗えない現実への、どうしようもない怒りだった。




 

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