第18話 不死彦


「金治さん、手紙届いてますか?」

 と、電話の向こうで不死彦が聞いた。

「知らん、多分来てない。ワシが書いた手紙のことか?」

「いえ、私が返事書いたんですよ、もう届いてると思うけどなぁ」

 穏やかな口調である。不死彦はすでに五十を超えた立派な初老だが、金治にしてみれば子どもでもおかしくはない年齢だった。柔らかな関西訛りで、夜中に電話をかけて来たわりに特別急いでいる様子でもなかった。あえて気取らせぬよう自制を利かせているだけかもしれないが、ただ、首を捻っているであろうことは何となく想像出来た。

「お前今どこや」

「そっち向かってますよ」

「ほ、ほんまか!」

「はい。夜明け前頃にはつくと思いますけど、どないですか、そっちの様子は」

「今の所はなんもない、この三日程は」

 先程のことはあえて伏せた。熱にうなされたようにいもしない人間に喋りかけた自分の醜態を、この不死彦に打ち明けてたくはなかったからだ。

「良かった。その、手紙で書いてはった御孫さんも側にいてます?」

「おる」

「目離さんように」

「離すもんか」

 すると不死彦は一拍間を開けて、

「……さいですか」

 と言った。金治の口振りに意外なものを感じ取ったのだ。

「何か分かったんか、あの婆の」

「それを手紙に書いたんやけどね」

「ほな毒三郎とは連絡ついたんか」

「もう、金治さん、呼び方に気をつけなはれや」

「今そんなこと気にしとる場合か!」

「ど、どないしたんですか。あんさんにしてはえらい焦ってはるやないですか。今は落ち着いてるんでしょ?」

「……手紙を書いた直後や。千尋が死んだ」

「……息子さんですか?」

「せや」

「い、急ぎます」

「頼む!」

「金治さんは手紙を探し出してください」

「分かった!」

 電話を切って金治が立ち上がると同時に、可奈も立ち上がった。

 金治がしたためて千尋に持たせ、麓の村の和水に手紙を預けたのはすでに四日も前のことである。翌日には配達されたとしてすぐに不死彦が開封し、中を確認して返事を書いた。仮にポストに投函したのがさらに翌日だとしても、確かに不死彦からの返事は今日にも届いている筈だ。だが、そもそもこの家に郵便受けはない。郵便物があればすべて和水が受け取り、電話をかけて来る手筈になっていた。和水がまだ気が付いていない、という可能性は十分にあった。

「……」

「ジイジどないしたん?」

「可奈」

「うん?」

「着替えよか」

「え?」

「ちょっと散歩行こ」

「今!?夜やで、いやや!」

「和水の家でなんぞ甘いもんでも食わしてもらお」

「明日でええやん、なあジイジ早よ寝よ!」

「ついでにゆーちゅーぶもパクリにいこや」

「……あんの?」

「あるやろう、こないだ若い息子夫婦来てたんお前も見たやろ。あれらがおってそのゆーちゅーぶがないなんておかしいがな」

 金治はゆーちゅーぶが何であるかをまだ理解してはいない。だがこの家に可奈一人を残していくわけにもいかず、夜中の非常識な時間に出かけるとなればそれなりの理由付けが必要だった。この時間に電話をかけた所で和水が起きて来るとも限らず、不死彦の手紙の内容が分からない以上あまり他人の手で探させるのも気が進まなかった。むろん幼児の手を引いて下山するとなればたっぷり二時間はかかるだろうし、効率を考えれば圧倒的に電話が早い、だが金治はいてもたってもいられなかったのだ。

「裏の物置に三輪あるやろ」

 と金治が言う。

「あの変な形の自転車か?」

「せや、後ろにでかい荷台のついてる黄色いやつ」

「うん」

「あれで行こか。準備するで」

 金治が冬を前に下山する際、荷物を積んで山道を下るのに使っている三輪運搬車がある。荷物はそこそこ乗るが、電動ではない為、山の上り下りには向いていない。毎年着替えや日用品を乗せて麓まで下り、和水に預けてそのまま村を出る。そして春になれば軽トラに積んでこの家まで帰って来るのが習わしになっていた。だが、今はそんな慣例などどうでも良かった。とにかく可奈を連れて一刻も早く和水の家に行き、不死彦からの手紙が届いていないか確認することが先決なのだ。 

 二人は風邪を引かぬよう厚着だけして家を飛び出した。可奈はパジャマのままで上着の上から毛布を被り、持って来た自分のリュックだけを引っ掴んだ。金治はそれさえ「いらん」と言ったが、可奈は「いる!」と怒って手放そうとしなかった。

 三輪に乗って家の敷地から出る時、金治は首から上だけ振り返らせて背後を見た。閉めて出た筈の雨戸が少しだけ開き、中からこっちを見ている老婆と目が合った。怒っているのか嗤っているのか分からぬ赤い目を歪ませ、じっと金治を見ていた。

「いる」

 ―――あの家にはずっとあの婆がおるんや。可奈を連れ出して正解やったわ!


 玄関戸を乱暴に叩いた。

 和水が一人で暮らす飯嶋家は山の麓の田園地帯にあって、隣家との距離が1.5キロある。よく晴れた日などは遠くの地平にその隣家のシルエットが小さく見える。が、むろんどれだけ叫んでも爆音で音楽を聴いても誰にも迷惑など掛からず、また気付いてさえもらえない。和水の息子が母の身を案じたのはこの寂しい立地も関係しているのである。

 金治は嵌め込みの窓硝子が割れる寸前まで玄関戸を叩いた。可奈が怯え、両耳を塞いでその場でしゃがみ込んだ。やがて屋内に明かりがともり、ゴホゴホと咳をしながら、顔中を皺に変えて和水が首を出した。

「今何時や思うてる?」

「すまん和水開けてくれ、中入れてくれ」

「金さん、あんたぁ」

「はよせい!可奈、立て!」

「え、ちょっとあんた、こんな時間に」

「和水どけ!」

 金治は手で押しのけるようにして無理やり飯嶋家の中に半身を滑り込ませた。右手で握った可奈の手を引き寄せ、玄関戸と自分の体の間に生じた僅かな隙間から小さな体を引っ張り込んだ。所が、

「痛い!」

 可奈の頭と左肩が玄関に入った所で、その細い首を掴んで来る何者かの手があった。

「何や!」

 和水が叫ぶ。

「クソッ!」

 金治が咄嗟に外へ出た。後ろ手で可奈の体を玄関に押し込み、一人だけ外に残った形である。

 金治と可奈は、下山途中から背後を追って来る老婆に気が付いていた。可奈は一人荷台に乗っているのが嫌で、金治の正面に回ってしがみついた。金治は金治でそこまで広いとは言えぬ山道の坂道を、三輪のブレーキに指をかけたまま必死になってペダルをこいだ。坂道と言えど未舗装のでこぼこ道である。スピードが乗った時などはカーブで曲がり損ねるのを恐れてブレーキを握らねばならず、そうなれば図体だけはデカい三輪の重量を前に推し進めるにはやはり必死でこがねば老婆に追いつかれてしまう。

 老婆はただひたすらに歩いて来た。走るでも飛ぶでもなく、裸足で山道を歩いて追って来た。全身が白い、髪の毛がボサボサの婆である。街灯もないのに姿がぼんやりと闇の中に浮いていた。

「見るな可奈!大丈夫や、もうすぐやからな!」

「見てない、可奈ちゃん何も見てない!」

「顔伏せとけ!」

「あのお婆ちゃん誰!?」

「見るなー!」

「見てない!見てない!」

「もうすぐや!もうすぐやから!」

 だがやはり老婆を振り切ることは出来なかった。

 金治は一人飯嶋家の玄関前に立ち、やたら頭髪の膨らんだ老婆と対峙した。火であぶったように縮れて大きく膨らんだ髪とは対照的に、手足は異様に細かった。八十を超えた老人である金治でもまだ筋肉は残っている。だが老婆の手足はそれこそ骨と皮だけのように見えた。ただ、目を引くのはやはりその顔だった。





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