第17話 電話

 

 千尋の様子が目に見えておかしくなり始めた時と同様、いやそれ以上に可奈は金治の側を離れなくなった。何をするにもまず金治の許可を取り、実行に移す間も側に金治の目がないと嫌がった。

「見ててや!」

 と怒ったように要求した。朝起きて服を着替える時も、

「どれ着たらいいの?持って来て」

 と言う。朝飯を食う時も、金治が並べた膳を前に、

「食べていい?」

 と聞く。便所に行く時は絶対に金治についてこさせ、金治が用を足す時も前を歩いて自分が先に到着しようとした。風呂も、寝る時も、可奈は金治と行動をともにするようになった。そして千尋が死んで、三日が経過した。

 ある時、

「ジイジ、この家おもんないわ」

 可奈が不意にそう切り出した。「暗いし。テレビもないしユーチューブもないやん。そやし怖いねん。とりあえずテレビくらい買お?」

 金治は呆気に取られた。目を丸くして、しばらく可奈の顔を見つめたまま返事が出来なかった。

「な、買お」

 と二度言われるまで開いた口が塞がらなかった。

「お前……」

 強いなー、と言いかけて金治は咳払いに逃げた。言った所でどうにも場の空気がおかしくなるだけだ。ただ、本心から強いと思った。母を亡くし、父を亡くした六歳の娘の心に、悲しみ以外の感情が入って来れるスペースなど本当にあるのだろうか、そうも思った。テレビが見たいというのはいかにも幼い発想であるように見えて、実際には現実を受け止めている証拠だといえる。日常を思い描くことが出きるからこそ、テレビが欲しいなどと言えるのだ。今日を生きる希望を失っていないのだ。

 その日の夜、風呂場で湯につかりながら、金治は思い出して尋ねた。

「……ゆーちゅーぶてなんや」

 可奈はびっくりして湯船で立ち上がった。

「ジイジ知らんの!?インターネットやん、ユーチューバーが動画出してるやん」

「それは何かして見るもんなんか、家で出来ることなんか」

「出来る。電気屋に売ってる」

「ほう。それをずっとお前は自分の家で見てたんか」

「うん。ちろぴの。おもろいで」

「ほな別にワシが買わいでも家で見たらええやんけ」

「でも、可奈ちゃんずっとジイジのこの家におらなあかんのやろ?」

「何でや」

「お父ちゃんもお母ちゃんもおらんねんやろ」

 見る間に可奈の顔が涙に歪む。「ほなここにおるしかないやなん」

「何でやねん」

 だが金治はそれでも、「和美ばあちゃんがおるがな」と口調を変えることなくそう答えた。

「おるけど……」

「別にどこでも好きなとこ行ったらええねん。そもそもワシ、もうすぐここ出ていくで」

「え?」

「冬場は山下りんねん。街まで出るし、もうちょっとマシな環境で春まで過ごせる。よう分からんけど、そっちの家行ったらゆーちゅーぶくらいあるんちゃう?」

「……可奈ちゃんも行ってええの?」

「当たり前やんけ。お前がおらんで誰がユーチューブすんねん」

 すると可奈は泣き顔を背けるように横を向いて、再び湯船につかった。

「……ほな、もうちょっとだけ我慢するわ」

「おう、そうしたって」


 同じ日の夜、遅く。

 僅かながらの希望と期待を胸に、可奈はそれまでよりも早い時間に寝息を立て始めた。金治はまだ起きていて、その時は考え事に没頭していた。

 ぐぐ、と布団の中で可奈の体が動いた。掛布団がずれぬよう、反射的に手をやった金治の目に、

「……」

 よく分からないものが映った。

 可奈が、大きく背中を反らせている。首から下は布団の中だが、まるで両手を使ってブリッジをしているかのように背中がしなり、胸が高く持ち上がっていた。目は閉じたままで、眠ってはいるようだ。別段苦し気な表情でもない。

「夢みとんのか?」

 ハラ、と可奈の前髪が横に流れた。風でもなく、重力で額を滑ったようにも見えなかった。まるで誰かが、瞼にかかる前髪を指先で払った、そんな風に見えたのだ。

「……」

 邪気は感じなかった。だが、不思議なことはまだ続いた。

 グン、グン。と可奈の体が上下したのだ。痙攣や寝返りではない。見れば可奈の後頭部がほんの少し枕から浮いている。金治が驚いて掛布団を払うと、下半身はまだ仰向けに寝そべったままである。

「お、おい」

 見えない何者かが可奈の上半身を抱き上げ、愛し気に揺さぶっている。ヨイヨイ、ヨイヨイ。金治は妄想を振り払うように、己のこめかみを手で叩いた。

「……千尋か?」

 思わず、といった勢いで金治が口に出すと、不自然な角度で起き上がっていた可奈の体が布団の上に落ちた。強い衝撃はなかったが、はずみで可奈の目蓋が開いた。

「ジイジ、寒い」

「お、おお、すまんすまん」

 金治が掛布団を直すと、すぐさま可奈は眠りに戻った。金治は立ち上がって周囲の空気の匂いを嗅いだ。

 ―――千尋か。真白か。茜さんか。

 誰でもいい、と思った。まだあの世へ行かずにこの世に留まり、可奈を見守ってくれているならどうか力を貸してくれ。

「ワシはただの人殺しや。人を守ったことなどないんや。頼む。力貸してくれ」

 金治は、子犬のように自分にまとわりつく可奈を受け入れた。だがそれは孫可愛さによるものではなく、言うなれば矜持に近い心境だった。自分を捨てた非道なる父親を探して千尋は訪ねて来た。だが、金治はその息子の命を救うことが出来なかった。金治は自分を許せなかったし、だからこそ託された孫を守ることで、自分の存在価値に誇りを持ち続けたかったのだ。

 だが、残酷なのは時間だった。老い先短い年齢という時間、この先可奈の人生に待ち受ける未来という名の時間。噛み合わない、僅かに今をすれ違うだけの金治には、この先可奈を守り続けることなど不可能に近いのだ。それが、ずっとずっと苦しかった。

「……ッ!?」

 金治は振り返った。

 隣の部屋から聞こえてくる。

 あれは、電話の音だ。

 壁の時計を見れば、十時前である。

「来たか」

 金治は独り言ち、掛布団ごと可奈を抱き上げた。

 隣室へ移動すると、古電話のけたたましい着信音にさしもの可奈も目を覚ました。目を擦り、布団に包まり金治の隣に正座する。金治は部屋の明かりをつけ、庭の方を睨みつけながら受話器を耳に当てた。

「山形」

「おお、良かった、もう出へえんか思いましたよ」

「お前!?」

「松林です」

「不死彦か!」

 電話をかけて来たのは男性で、名を、松林不死彦まつばやしふしひこといった。






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