第16話 月光


 金治は両腕を開き、千尋の後頭部に手を添え、自分の胸に抱き寄せた。千尋は抵抗こそしなかったものの、自分からもたれ掛かるようなこともなかった。

「もうちょっと感慨深いか思たけど、案外何もないな」

 と千尋が言った。

「そら、そやろな」

 金治は答え、どうして自分が息子を抱きしめているのかを考えた。死に際の、かつて捨てた筈の我が子を前に、罪滅ぼしの気持ちにでもなっているのだろうか。

 いや?と、金治は内心首を横に振った。そんな殊勝な人間ではない。どこまでも冷酷で薄情な人殺し、それが、山形金治の本性だった筈だ。それなのに……。

「何でやろか」

 と金治は呟いた。「何や知らん、お前の髪の毛からお日様の匂いするわ」

「何でやねん。加齢臭の間違いやろ」

「……これが、子どもの匂い、いうやつか」

 言った瞬間、金治の胸で千尋が血を吐いた。

「大丈夫か」

「また血ぃや。オトン、実はあの日ぃなぁ、俺、街でおんなじように血吐いて倒れてん」

「……スーパー銭湯わい」

「行ってへん。病院で点滴打ってもろてたんや。いうても俺知らんねんで、意識ないねんから、起きてびっくりして、慌てて病院抜けてきたんや」

「……ほうか」

「オトン」

「お?」

「もう行くわ」

 そう言って千尋が立ち上がった。金治は腕を解いて座り直し、縁側に向かって歩き出す千尋の背中を見上げた。

「千尋」

「可奈のこと頼むな」

「……おう」

「あ、せや」

 千尋は立ち止まり、左頬を金治に向けた。「昨日、オトン言うてたやろ」

「何」

「オカンはホンマに病気で死んだんか、て」

「おお」

「あれ、何でや?」

「いや……何でやったかな」

「実はな、そこに関しては俺もよう分からんとこあんねん」

「どういう意味や」

「オカン俺に言うてたんや。千尋ごめん、お母さん意気地なしやねん、て」

「意気地なし……?オカアハンがか」

「うん。意気地なしでごめん。よう立ち向かわれへん。でも、必ず守るから、死んでも守るからて、そうも言うてた」

「死んでも、守る?」

 ふ、と金治の脳裏を閃きが掠めた。偶然の一致だとは思う。しかし十年前にこの世を去った真白の言葉と、可奈の母親である茜の残した言葉が同じだったのだ。必ず、死んでも、守る。

「立ち向かわれへんて、何にや」

「病気、やと思う。癌やったから」

「そうか」

 金治はこの時、真白の死の原因が癌であったことを初めて知った。十年前、妻の死の報せを受けた時も金治はこの山のこの家にいて、訃報を伝えてくれたのは付き合いのあった和水だった。

「大変やったみたい」

 と和水に言われ、

「そうか」

 金治はひと言口にし、それ以上踏み込むことを避けた。病であることは知っていた、しかし、当の昔に家族を捨てた自分が今更首を突っ込んで根掘り葉掘り聞く資格もなかろう、との思いだった。ただし、

「呆気のう逝きやがって」

 と、一人で泣いた。「死なへん言うとったやないか」

 むろん、出会った時の真白の言葉を、金治とて真に受けたわけではない。だが金治はこれまで、真白と生きた短い時間の悉くを覚えていた。家族を捨てて山に入ってからは、極力忘れるように努めた筈が、和水からの報告を受けた途端、記憶が溢れたのだ。

 だが……とここへ来て金治は首を捻る。

 ―――真白はホンマに病気で死んだんか?

 ならば昨日縁側に現れた時、顔に赤痣が浮かんでいたのはどういうわけだ。真白には若い頃から未来を読む予言者としての力があった。そのせいで当時の大物政治家から命を狙われる羽目になったくらいである。だが、真白が死んだのは十年も前だ。まさかあの老婆と真白の死に何か関係がある、ということは考え難いが……果たして?

 気付けば千尋が障子戸を開けて、縁側に出ていた。

 雨戸は開いている。

 もうすぐそこは庭だった。

 千尋は裸足のままで敷石から庭に下り、振り返らずに庭の中程まで進んだ。金治は可奈の側に座ったまま、月明かりの下に出た千尋の背中をじっと見つめた。

「この子に残していく言葉はないか」

 と金治が尋ねた。

 千尋は真下に頽れるように両膝を着き、こう言った。

「誰よりも可奈の幸せを願ってる」

 金治は固く握った右こぶしを振上げ、ゴツ、と自分の膝を叩いた。

 ドバ、と千尋が血を吐いた。

 人間の体内にここまで夥しい量の水分が存在したのか、と思う程激しく血を吐いて、そのまま千尋は同化するが如く血の海に沈んだ。

 ター

 という声が聞こえた。

 金治は庭を睨みつけた。

 声は倒れている千尋の側から聞こえてくる。

  ター

  ……ケター

   ……ツケター

     ……ミ、ツケター

「ミツケター」

 声が、部屋の中から聞こえて来た。

「かかって来いやぁ」

 金治は唸った。「今すぐワシんとこへ来い。誰にも見つからん山ん中へ分け入って貴様もろ共首掻っ捌いて死んだろうやないけぇ。もうどこへも行かれんようになぁ」

 だがしかし、夜明けまでまんじりともせず可奈の側に座り続けた金治の前に、あの老婆が姿を見せることはなかった。


 朝早く、可奈が目覚める前に金治は庭を掘って千尋の亡骸を埋めた。本当はこんなことをすべきではないと分かっていた。警察に通報し、しかるべき手続きを経て可奈と共に三人で山を下りるのが人としての筋である。

「今だけや。辛坊せえ」

 そう言いながら金治は千尋の体に土をかけた。金治は何も警察を恐れているわけではなかった。殺人の容疑をかけられるかもしれぬ、という可能性を危惧したのではない。たった一つの理由を除けば、金治はいつでも山を下りる気でいる。ただし、今は無理なのだ。

「可奈。起きい」

 金治は孫の頬をぺしぺしと叩いた。可奈は頭をもたげて周囲を見渡し、黙ったまますっと立ち上がった。

「お父ちゃんは?」

「死んだ」

「……」

「可奈」

「お父ちゃんは?」

「死んだんや」

 可奈はじっと金治を見つめた。そしてゆっくりと右足を後ろへ引いた。二つ隣りの部屋へ、千尋の様子を見に行こうとしているのだ。

「見てみ、この服、血だらけやろ」

 自分の衣服を摘んで見せ、金治は言う。「可奈。言うといたる。ワシも危うい。そうなるとむろんお前も危うい。今ここで現実をしっかりと受け止めて、悪者に立ち向かうんや」

「……わるものて何?」

「お前のオトンを殺した奴や」

「お」

 お父ちゃーん!

 可奈は金治を見据えたまま叫んだ。

 向こうの部屋に眠っている筈の父親を呼んでいるのだ。しかし返事はない。可奈は何度も父親を呼んだ。昨晩同じように千尋は可奈を呼んでいた。だが可奈は返事をしなかった。会いにも行かなかった。だから今こうして可奈が呼んでも、父は答えてくれないのだろうか。

「お前のオトンはもうおらん!」

 金治が怒声をあげると、可奈は言葉にならぬ金切り声を上げて金治に殴りかかった。顔、首、胸をめちゃくちゃに叩いた。金治はそれなりに痛い孫の拳を受けながら、自分に残された最期の切り札について思いを巡らせていた。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る