第15話 夢
「千尋!」
金治が振り返ったと同時に、反射的に立ち上がった可奈が足を滑らせた。
「ジイジ!」
叫んだ可奈の声に金治が見やると、片足が便器の中に落ちていた。
「……ッ!」
左手で床に手をつき、落ちた足を引っ込めようとする可奈の足を掴む何者かの手が見えた。可奈を便器の中へと引き摺り込もうとしているのだ。
「嫌ぁぁッ!」
可奈が自分の足を見て泣き叫んだ。金治が飛んで、腰にさしていた短刀でその手を切りつけた。何の手ごたえもなく皺皺の手は消え、可奈は腰を抜かして金治に縋り付いた。
「嫌!嫌!嫌ぁやぁぁ!」
「大丈夫や可奈、うんこが引っ付いただけや、何でもない」
「手!手が!可奈ちゃんの足に!」
「違う違う、見てみい。汚いのう、うんこまみれやないか」
しかし可奈は決して自分の足を見ようとはしなかった。金治は自分の衣服が汚れるのも厭わず可奈を抱き上げ、ドアを足蹴にして便所から出た。
千尋が目を覚ましていた。
うつ伏せの姿勢に変わりはなかったが、両手の肘をついて上体を起こし、痛いのか、ブルブルと全身を震わせていた。
「千尋!」
金治は両目を見開いた。
「オトン……どういうこっちゃ」
「ち」
「分かるねん、自分でも」
言いながら、千尋の目は体を支える両手を見下ろしていた。「これ、あかんな、もう」
「千尋」
「……お父ちゃん?」
金治は可奈を自分の隣に降ろした。
「か、可奈」
千尋は呼ばれて初めて可奈が側にいる事に気が付いた。「オトン!」
金治は我に返ったように、再び可奈を抱き上げた。
「風呂いくぞ」
「え?」
「便所に落ちかけたんやぞ、臭ぁてかなわんわ」
金治は返事も聞かずに、可奈を抱えて風呂場へと走った。「くそが」という声が金治の口を突いて出た。六歳の可奈がどこまで正確に事態を把握しているかは分からない。だが金治も千尋も、一瞬にして理解した。
―――無理や!あの痣は何をやっても消せんのや!
千尋は上半身を包帯に巻かれて眠っていた。服は身に着けていなかった。その、包帯が巻かれていない、露出している肌の部分が全て赤く変色していたのである。赤痣は、もはや痣の域を超えて千尋の全身を染めていた。
風呂場で体を洗っている時も、湯から上がって着替える時も、夕飯を食べる時も、側にいない千尋の身を案じて可奈は涙を零し、
「お父ちゃんは?」
と言って金治を困らせた。
可奈は決して馬鹿ではない。恐ろしいことが起きている。何か怖い出来事が身の回りで連続して起こっている、その事実を感じ取ってはいるのだ。だがそれでも六歳である。母親をなくし、父親に縋るしかない可奈の側に今、千尋はいない。いるのは愛想もクソもない、もうすぐ死ぬと言ってのけた爺だけなのだ。
「飯食え」
俯いたまま泣いている可奈に金治は言う。
「いらん」
「食え」
「食べたない」
「食わんと元気ならんぞ」
「……可奈ちゃんもう元気いらん」
「何やと?」
「お父ちゃんに元気なってほしい」
「……」
「お父ちゃんは?」
「……」
「なあお父ちゃんは?」
「お前が泣いててオトンが元気になるんか?」
「……」
「飯食え」
―――可奈ーーーーーッ!
ふた部屋向こうの寝室から、突如千尋の声が聞こえて来た。可奈は驚きのあまり茶碗を落とし、金治は咄嗟に飛び上がって両足を開いて着地した。
「可奈ーーーー!」
千尋が可奈を呼んでいる。しかし、可奈は飛んで行こうとはしなかった。立ち上がりはしたものの、震え、千尋のいる寝室の方向と金治の顔を交互に見やった。繰り返し、何度も。
「可奈ーーーーー!」
「……お父ちゃん」
「行かんでええ」
「え?でも、お父ちゃん呼んでる。ジイジ見てきたら?」
「寝言や」
「可奈ーーーーー!」
「寝ごとちゃうやん、大声で呼んでる。冷たいお茶欲しいんかも!」
「可奈、行くな」
金治は可奈の手を掴んでその場で正座し、自分の膝の上に座らせた。「飯、食え。な」
可奈は泣いた。ボロボロと零れる涙が金治の両手一杯に落ちた。金治は可奈に代わって箸を握り、茶碗から米粒をすくって可奈の口に持っていった。可奈は泣きながら米を食べた。
「可奈ーーーーーー!」
千尋の声は止まなかった。寝言などであるはずがないと可奈にも分かっていた。だが行くのが怖かった。そして金治は行くなと言った。可奈は父親に会いたかった。しかし、怖くて金治の言葉に従った。その事が悲しくて、弱虫な自分が辛くて、可奈は疲れ果てて眠るまで泣き続けた。その間、千尋はずっと可奈の名前を呼んでいた。
金治は夜中に目を覚ました。
夕飯の後、居間に布団を敷いて、可奈と二人、並んで眠ったのが数時間前。青白い月光が障子戸を貫通し、室内を優しく照らしていた。縁側の雨戸を閉めるのを忘れていたようだ。
「さむ」
手洗いに行こうかと思い掛布団に手をかけ、ふと、右側に眠っている可奈に目をやり、ぎょっとした。可奈の向こう側に千尋が座っていた。綺麗に正座したまま、娘の寝姿を見下ろしている。
「千尋か」
金治が声をかけると、
「なんで起きんねん」
と千尋は囁き声で答えた。「泣き顔見せたらまたしばかれる思うて静かにしてたのに」
「体、どないや」
金治も身体を起こして布団の上に胡坐をかいた。
「痛みはないねん、不思議と。でも分かる」
「……あかんか」
「……あかんな」
千尋の全身は、月明かりしかない部屋の中でも赤く見えた。赤鬼というものが存在するなら丁度こんな具合だろう、と金治は思った。思いながら、現実逃避する自分の思考に腹を立て、太腿の肉を指でつねり上げた。
「すまんかったな」
と金治は言った。
「しゃーないわ。オトンに頼るにしても、来るのが遅すぎたんや」
「今になって、何か分かったこと、ないか」
「あの婆ぁのことか?」
「うん」
「……それが、何にも」
「そうか。ほんまにけったいな奴やの」
「オトンも気ぃつけえよ。俺の次はオトンかもしれんで」
「別にそれでかまわんけどな」
「オトン」
「何や」
「可奈、可愛いやろ」
「……」
「見てみい。この寝顔」
千尋は体を倒し、眠る可奈の額に口付けた。「可愛いなぁ。辛いなぁ」
泣くな、と言いかけて金治はやめた。今更息子を責めて何になる。ギリ、と奥歯を噛んだ。
「来年小学生やで。保育園の卒園式も見たかった。小学校の入学式も行きたかった。小学校の卒業式も、中学校の入園式も、卒業式も、高校も、大学も、成人式も、全部この子の隣におりたかった」
「それは、ワシも無理やなぁ」
「あはは。オトンならもしかしたらいけるんちゃうかて思えてくるわ」
「阿保抜かせ」
そう言う金治の声も小さかった。
「何でこんなことなってしもーたんやろ」
千尋の流す涙がぽつりと可奈の頬を濡らし、慌てて千尋は体を起こした。
「こっちこい」
と、金治が言った。
「……なんや?」
「抱いたろ」
千尋は一瞬ぽかんと口を開けた。
「……ええわ、悪いけど可奈のことで頭一杯や」
「ええから来い」
金治はそう言いつつ立ち上がり、自分の方から千尋の側に歩み寄った。金治は腰を下ろすと、真っ赤に腫れあがったような千尋の体をまじまじと見て、
「ごっついのお」
と嘆いた。
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