第14話 火


 昼過ぎに千尋が戻って来た。

 和水にすすめられ、彼女の家で早めの昼食を食べて来た、という。お節介者の和水がやりそうなことだ、と金治は鼻から溜息を逃がした。怒るに怒れぬ金治とは違い、可奈は「お父ちゃんだけずるい」と言って憤慨した。千尋は泣き笑いのような顔で娘を抱きしめて詫びた。

 隙を見て和水にお礼の電話を入れると、

「なんやのん息子」

 と、いきなりやられた。

「何や」

「大丈夫かいなあの子、死神みたいにフラフラやったで」

「……おう」

 あまりの憔悴振りに見ていられず、時間がないと言って固辞するのを無理やり引き留めて飯を食わせた、とのことだった。だが出した料理のほとんどに手をつけず、千尋はずっとボロボロと泣いていたそうだ。

「勝手しました。手紙は確かに受け取りましたさかいに、そっちは心配せんでええ。んでも異例続きやな。いつも受け取るあの手紙は金さんが村に戻って来る春頃と相場が決まったあるのに、まだ十一月やで?間違うてない?」

「ワシはまだ耄碌しとらんよ。それより和水、色々迷惑かけてすまんな」

「別に。野菜、余ってるさけまた取りに来て。あのかいらしいお嬢ちゃんと」

「おう、暇があればな」

 電話を切ると、金治は千尋を呼びつけ、玄関前に立たせて両手を縄で縛った。可奈は金治が麻縄を手にした瞬間から堰を切ったように大泣きし始めた。また千尋が痛い目に合う、辛い目にあうと分かって叫泣いているのだ。

「可奈。お前は優しいな」

 言いながら金治は無抵抗の千尋の手をきつく縛り上げた。「ワシを恨んでええぞ。ジイジ、ジイジ言うて周りをウロチョロされるより恨まれる方が気が楽でええわい」

「無理すな無理すな」

 と言って千尋が小さく笑った。

 金治は千尋の後頭部を叩き、

「気張れよ、千尋」

 と発破をかけた。「今回のは前みたいにチマチマした甘っちょろいやり方と違うぞ」

「生皮剥ぐんが甘っちょろいんかい」

「ワシが何の為にお前に油買いに行かした思う?天ぷらあげる為とちゃうぞ」

「……まじかぁ」

 千尋は察した。

 金治は息子の背中に油を塗りたくった。可奈はそれが何を意味しているのか分からぬ様子だったが、とにかく「やめて」と言って泣き叫んだ。金治は何度目かの溜息を吐き出し、

「さすがに見せるのはまずいか」

 とこぼした。

「十秒くらいか」

 と千尋が聞いた。背中の痣を焼いて消すまでどのくらいの時間がかかるのか、と聞いているのだ。

「結構広がったからのう。たっぷり二十秒はいるか」

「そのまま死んでしまわへん?」

「知らんがな」

「きついてえ」

 だがそれでも千尋は「やめてくれ」とは言わなかった。顔は青ざめ、唇は色を失い、そのくせ大量の汗をかいていた。とっくに健康的な人間の顔ではない。ただ、どれだけ怖くても痛くても可奈を思えばこそ、それが明日に繋がる苦しみならば耐えられる、と千尋自身が納得ずくであったのだ。金治は息子の頭をぽんぽんと叩いて、

「おい」

 と可奈に声をかけた。「お父ちゃんに冷たい茶飲ましたれ」

 可奈は視線を巡らせてお茶を探す。

「お茶どこ?」

「ないなら取って来いや。場所分かるやろ」

「何で可奈ちゃんがいかなあかんの!?」

「何でて」

 賢い子やな、と金治は感心した。可奈の口調や語彙力ではなく、今ここで父親の側を離れるのはまずい、と理解出来ているのが表情から読み取れたのだ。

「はよ行ってこいて。お父ちゃん脱水症状なってまうど?」

「いや!」

「可奈、頼むわ」

 千尋にもそう乞われ、可奈はぐずりながらも全力で走り出した。すぐに行ってすぐに戻って来るつもりなのだ。金治は可奈が玄関から屋内に飛び込んだ瞬間、千尋の背中に火をつけた。

「ッギ……!」

 仰け反る千尋の前に回って手で口を塞いだ。

 肉の焦げる匂いがした。

「五、六、七……」

「あかん」

 千尋がモゴモゴと口を動かす。「オトン、もうアカンわぁ」

「我慢せえ」

 お父ちゃーん!

 可奈が走って戻って来る。

 金治は用意してあった毛布を足で拾い上げ、十七秒で千尋の体を包んだ。あっと言う間に火は消えた。だが、千尋の全身からは煙が立ち上り、鼻がもげるかと思う程の悪臭があたり一帯に立ち込めた。

「お、おと」

 可奈は何が行われたのかを見てはいない。だがほんの数十秒前までとは明らかに状況が変わっている事には気が付いた。可奈は土間から玄関先には出て来ず、お茶の入ったコップを両手で握りしめたまま一歩二歩と後退した。

「もらうわ」

 と言って金治がお茶を受け取った。「飲め」

 千尋は小刻みに激しく震えながらひと口だけ茶を飲み、そして失神した。


 悲劇が起きたのは、その夜だった。

 千尋の焼けど自体は、即入院が必要な程の重症には至らなかった。もとより、表面の皮膚のみを焙って痣さえ消えれば目的は達せられる。十七秒が長いか短いかは分からぬが、とりあえずは煤けたような濃色で肌の赤身は覆われた。家にあった軟膏と、金治が己で調合して持っていたアロエ主成分の薬を背中一面に塗りたくり、包帯でぐるぐる巻きにした。むろん意識を取り戻せば激痛が襲うだろうが、今の所発熱などはなかった。包帯を巻きながら確認した折、一見すると痣は消えていた。だが焼けた皮膚の下がどうなっているかまでは、金治にも分からなかった。

「ジイジ」

「なんやさっきからもじもじして」

 千尋の横に行儀よく正座し、金治が施す処置を黙って見ていた可奈が、上半身を揺すりながら顔をしかめた。

「トイレ行きたい」

「行ってこい」

「ついて来て」

「なんでや」

「ついて来て!」

 金治は仕方なく立ち上がって可奈の後をついて歩いた。可奈は早歩きで便所に向かうと、ドアを開けたままズボンとパンツを下ろした。汲み取り式の和式便所である。躊躇なく尻を出した可奈に金治は慌てて背を向け、黙ってドアを閉めた。すると、

「開けといて!」

 と可奈が怒るように叫んだ。

 どないした、とは聞けなかった。聞かずとも分かる。恐ろしくてたまらないのだろう。まだ日の高い午後とは言っても家の中は薄暗い。洋式が和式がという話ではなく、単純に一人になるのが嫌なのだ。

「ジイジ臭いか?」

「臭ない。ええから早よせえ」

 これまで多くの獣を捌いて来た金治にとって、糞尿の匂いなど本当に臭くはない。ましてやここへ来てからの可奈は金治と同じものしか食べていない。六歳と言えど女の子だからだろうか、恥じらう気持ちも分かる。しかし気にする程のことでは決してなかった。

「もう終わるしな」

「おお、ちゃんとケツ拭けよ」

「拭いてるし!」

「いちいち怒るな」

「怒ってへんし!」

 と、その時だった。


 ―――うおおおおおおお!


 絶叫が轟いた。

 それは間違いなく、寝室で眠っている千尋の声だった。


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