第12話 疑惑


「何のつもりじゃい」

 と金治は問うた。

 しかし千尋は答えず、今度は両目を細くして嗤った。

「答えんかい!」

「……」

 意志があるのか、と金治は驚いた。姿形はどう見ても息子の千尋である。だが今千尋の体を動かしているのは本人の意志ではあるまい。となれば目の前で血を吐き、微笑むこの者は何だ。あるいは本当にあの老婆だというなら、奴にはこちらの問い掛けに反応するだけの意識が存在しているというのだろうか。金治はいまだかつて相対したことのない厄介な敵の気配に、背中の皮膚がぞぶぞぶと粟立つのを感じていた。

「ひ」

 千尋の口から声が出た。

 可奈がブルブルと全身を戦慄かせた。

「……ミツケター」

 千尋の声ではなかった。それは声と呼ぶには小さく、ほとんど声帯を用いず口腔内だけで発生した、囁くような風の音に近かった。だが、決して若い人間の話し声にも聞こえなかった。

「見つけた?何をや。なんでこんな山奥までやって来た。何が望みや」

 金治が問うと、千尋はつと視線を下げて、畳で丸く蹲る可奈を見た。金治はカッとなってナイフを振り上げた。

「あかん!」

 可奈が立ち上がって金治の腕に飛びついた。金治が千尋を刺す、つまり父親を殺すと錯覚したのである。

「可……ッ!」

 離せ、と思わず金治が手を振った、その反動で可奈の体が千尋の方へと流れた。千尋が、正座したまま両手を伸ばした。

「ジイジ」

 可奈と目があった。

「可奈!」

 赤い口をぱっくりと開けた千尋が膝立ちになって可奈に襲い掛かる。だが、金治が一瞬早く体当たりをぶちかました。千尋は後ろへ吹っ飛びながらも片手を伸ばし、可奈の左手の甲に指先で触れた。

 氷水の入った金たらいの上に千尋は引っ繰り返り、辺りが水浸しになった。金治は咄嗟に可奈を抱きかかえてその場から離れた。部屋の隅に寄って肩で息をしながら、起きあがらない千尋をじっと睨みつける。

「お父ちゃんは……?」

 可奈が問う。

「……」

「お父ちゃんはぁ?」

「黙ってい!」

 やがて千尋の手がぴくりと動いた。

「う……うお、つ、つべたい!」

 千尋が飛び起きた。お父ちゃん、と可奈が叫んで駆け寄ろうとする。千尋は頭を振って身の回りの惨状を見て取ると、不安気な顔を上げて、

「俺、暴れたんか?」

 と金治に尋ねた。「オトン、俺、失敗してしもたんか?なあ、なあオトンて!」


「早いとここの手紙を和水に渡して来い」

 翌日、縁側でぼーっと座っていた千尋に金治が差し出した。半紙に朱墨で書いたという手紙の入った厚手の封筒である。

「……ああ」

 千尋は答えるも封筒を受け取ることさえせず、立ち上がる気配も見せなかった。金治は手に持ったままの封筒で千尋の頭を叩いた。だが所詮は紙切れ、ペション、と情けない音を立てるのみで何ら衝撃などない。千尋は気づきもしない様子で前を向いたまま、

「可奈」

 庭で地面に絵を描いている娘の名を呟くだけ。

 金治はため息をついた。

 結局、生皮剥しは失敗に終わった。というよりあのまま続行することは出来なかったのだ。刃先で千尋の背中に歪な円を描いただけ、という何とも尻すぼみな結果で終わった。あの時千尋の中に入り込んだ何者かの襲来がなければ、少なくとも皮を剥ぐことくらいは出来ただろう。その結果何がどうなったのかはわからないが、老婆と思しきあの者の現れたタイミングを見る限り、無理やり痣を取り除く行為に何某かの効果はあったのではないか、と金治には思えた。ではなぜ最後までやり遂げなかったのかと言えば、可奈がその理由である。あれ以上可奈の心を壊すような場面を見せるべきではない、という金治による金治らしからぬ判断だった。

 それに、あの老婆が何者であれ、もし意志をもってこちらの動向を見ているのであれば、再び皮剥ぎに取り掛かった途端またもや現れる可能性が高い。単純にそれを避けた、という側面もあった。

「まあいい」

 金治は独り言ちた。「まだやれることはある」

 す、と千尋が立ち上がった。

 静かに振り返り、金治に向かって手を伸ばした。

「何じゃ」

「手紙。出してくるわ」

「お、おお。お前今回は寄り道すなよ」

「分かってる。もう、時間ないもんな」

 今朝確認した所、千尋の首の後ろにあった赤痣は、金治がナイフで切りつけた歪な円を遥に越えて大きくなっていた。もはや背中の半分程までその範囲を広げていたのである。念の為に可奈の右側臀部を確認した所、本人の言った通り虫刺されで赤くなっていた箇所は腫れが引いて小さな点になっていた。

「和水に渡すだけでええから」

「うん。分かってる。昼までには戻るわ。可奈のこと頼むで」

 そう言って千尋が金治に背を向けた、その時だった。

 縁側の下の敷石に人間の足が見えた。

 はっとなって顔を上げた金治の目に、死んだ筈の妻、真白の姿が映った。真白は金治と出会った頃のような、白一色の着物と白い鼻緒のついた履物を身に着けていた。晩年の真白がどうだったのか分からぬが、金治にとって思い出せる彼女の姿は、いつもそうだった。

「何で……オカアハン」

 どこから来た。

 どうやって現れた?

 はっとして見やると、庭で地面に絵をかいていた可奈が立ち上がってこちらを見ていた。

「オトン?」

「え?」

 千尋に呼ばれて視線を戻すと、息子の隣にいたはずの真白がいなくなっていた。

「……なんやねん」

「何やねんてなんや、今なんでオカアハンて言うたん。どないしてん」

「え?いや」

「オトンも顔色悪いで、大丈夫か」

「……千尋」

「何」

「聞いてええか」

「だから何」

「真白は……オカアハンは、ほんまに病気で死んだんか?」

「え」

 金治が真白の顔を見れたのはほんの一瞬だった。久しぶりに顔を見たせいで動揺したのもある。だが例え一瞬でも、見間違いでない自信が金治にはあった。真白の顔の右半分に、千尋のそれとよく似た赤痣が浮かんでいたのである。

 





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