第11話 剥離


 その昔、電気を引く前まで洗濯に使っていた金たらいに水を張り、千尋が買って来た大量の氷で満たした。上半身を脱いで裸になった千尋の手を後ろへ回してロープで縛り、口にも重ねた麻紐を噛ませた。されるがまま、

「拷問される気分や」

 と千尋は言った。

「変わらんかもな」

 と金治は答えた。「可奈、ここへ来い」

 あえて可奈にもありのままを見せた。子どもの繊細な心の機微を考慮すれば、隠し通すよりも直視させる方がいらぬ想像を働かせなくて済む、という金治の判断だった。

「お父ちゃん寒そうやで、どないすんの?」

 不安げな声と顔で、可奈が金治に問う。

「こうするんや」

 言いながら、金治は金たらいからすくった氷水を千尋の首筋にかけた。うひゃ、と千尋は背中を仰け反らせ、それを見た可奈が、

「あかん!」

 と金治の腕に飛びついた。「風邪ひくやん、お父ちゃん可哀想やろ!」

「可奈見てみ」

 金治は可奈の手を掴んで千尋の首の後ろへと近付けた。「これ分かるか。この赤い痣」

「何?」

「この赤い痣のせいでオトンの体が調子悪いんや」

「……そうなん?」

 説明する間も金治は千尋の首筋に氷水をかけまくった。手桶のようなものを用意し忘れたため、金治の手も見る間に赤く腫れあがった。

「こないしてな、氷ぶっかけてると冷たくて皮膚が麻痺してきよる。何も感じひんようになるんや。そこでな、その何も感じひん状態でこの痣の出来た皮膚を引っぺがしてやろうと思うんや」

「え!」

 金治の説明に可奈は顔を青くさせた。「ち、血ィでるやん!」

「おお、出るで。でも怪我はいつか放っておいたら治るやろ。この痣は放っておいたらオトンの命を奪うかもしれんのや」

「うばうて何?」

「オトンが死ぬかもしれんいうこっちゃ」

「……」

 可奈は絶句し、やがて静かに泣き始めた。金治は手を休めず千尋の首筋に氷水をかけた。千尋は冷たさと痛みに耐えながら麻縄を結った猿轡を噛み、血走った眼でガタガタと震えた。

 要するにこの氷水は麻酔代わりなのだ。むろん生皮を剥ぐわけだから、冷やした程度では痛みを消しきれない。常備してある鎮痛剤では慢性的な痛みを和らげることは出来ても瞬間的な激痛には対処しきれない。金治は千尋を説得し、千尋はこの方法を受け入れた。

 可奈は、金治が動く度に怯えて、

「嫌や」

 と泣き叫んだ。こうなることは金治にも分かっていたが、やめるわけにはいかなかった。

「一気に行くぞ」

 と金治は言った。

「ほんまにこれで解決してくれたらええなあ」

 唇を震わせながら千尋は苦笑した。

「結果なんぞ二の次じゃ。やれることは全部やる、これが初めの第一歩よ」

「その一歩がデカすぎるんよ」

「抜かせ。まずはナイフで痣の周りに切れ込みを入れる。これはそない痛ないやろ。その次にワシが指を差し込んで、銀面の下をスライドさせる」

「銀面て何や」

「皮膚の表側や。その下にナイフを潜らせて中程まで切る。あとは一気に引っぺがす」

「ナ、ナイフで最後まで行った方がええんちゃうか」

「ほなそうするか?おそらく肉まで削ぐぞ」

「う、ううう」

「痛いやろけど皮だけ引っ張る方がまだましちゃうけ、表面的な痛みだけや」

「ほんまか?」

「知らんわ。人間相手にやったことない」

「うううう」

「四の五の言うな、終わったら豚の皮張って縫い付けたるわい」

 金治が砥いだナイフを千尋の首筋にあてがうと、可奈は両耳を塞いで大泣きし、そのまま部屋の隅まで行ってしゃがみ込んだ。金治は最後まで可奈に見せるつもりでいたが、連れ戻す余裕はなかった。

 合図もなしに刃先で千尋の首筋を突いた。

「うぐ!」

 赤い痣は縦横二十センチの歪な円状に広がっていた。その周りをナイフの切っ先で切りつけ、血のサークルで囲った。氷水の冷たさが功を奏してか、千尋は特に音を上げなかった。だが金治の言う通り、ここからが本番だった。

「いくぞ」

 金治は指二本で皮の端を摘み、寝かせたナイフの刃を痣の下に差し入れた。が、その時だった。


 ガタガタガタガタ……!


 三人のいる居間の障子戸が揺れた。縁側の雨戸は閉じている筈だし、風が吹きつけた、ということもない。金治が手を止めてそちらを見やると、丁度部屋の隅で蹲る可奈の頭上あたりに、黒い人影が浮かんでいた。

「可奈!」

 金治が叫び、手にしていたナイフを障子戸の影に向かって投げた。ナイフは易々と障子を突き抜け、その向こうの雨戸に突き刺さった。破れた紙の隙間から、白っぽい衣服のようなものが見えた。

「か!」

 金治が飛んだ。千尋の首筋を上から押さえつけ、そのまま跳び箱を飛び越えるよにして可奈へと手を伸ばした。

 ズバ、と障子の向こうから手が出て来た。手は可奈の頭をむんずと掴もうとしたが、一瞬早く金治が可奈の体を後ろへ引っ張った。金治はそのまま勢いよく障子戸に体当たりし、縁側へと転げ出た。所が、そこにいるはずの白い衣装を着た何者かの姿は消えてなくなっていた。

 金治は素早く身を起こして辺りを睨んだ。

「気配はまだある」

 部屋の四隅に視線を飛ばす。雨戸に刺さっているナイフを回収し、投げやすいように持ち直した。そして腰を低く構えたまま茫然とする可奈の側まで行き、

「そのままにしとけ」

 と背中に手を置いた。「……は!?」

 千尋と目があった。

 千尋は正座したまま前傾姿勢で、首を曲げて金治に顔を向けていた。猿轡をしたままの血走った眼が金治を見ていた。だが、その目からは何の感情も読み取れなかった。

「おい」

 千尋、と呼びかけようとした金治に向かって、

「ニタ」

 と千尋は笑った。

「……」

 金治には分かった。……これは息子やない。

「あ。あ。あ。あ」

 千尋は笑顔のまま、ゆっくりと口を大きく開いた。

 ボタボタボタ、と粘度の高い血が唇から滴り落ちた。

 体を低くしていた可奈の目にも畳を濡らす血が映り、可奈は金治に背中を抑えられたまま「お父ちゃん」と泣き叫んだ。

「こんのォ」

 金治が忌々しげに怒気を吐いた。

 老婆だ、と直感していた。







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