第10話 親馬鹿


 翌日の昼前になっても千尋は帰らなかった。

 だが約束は約束である。

 金治は可奈を連れて家を出て、麓の村まで下りた。可奈は金治が千尋を探しに行ってくれると思い込んだが、実際には和水に頼まれた用事を済ませる為だった。

「ジイジ格好ええな」

 可奈はご機嫌で金治の服装を褒めた。他所の土地の人間に会うのだから、と気を使ってスーツを選んだのだが、それが良かったらしい。金治は答えず、可奈の右隣にピタリとついて山道を歩いた。

 途中何度も可奈に足を踏まれ、

「痛いて」

 と叱るのだが、

「近いねん、ジイジ近いねん」

 と逆に怒られてしまった。無意識だったが、金治は殆ど体が擦れあう程の距離で可奈の側を歩いていた。虫刺されだと信じてはいても、昨晩見た可奈の右尻の赤痣が今も忘れられないのだ。夜も九時を回ってから作った晩飯は、全く何の味もしなかった。戻らぬ千尋の安否と可奈の痣が気になり、朝まで一睡も出来なかった。こんなことは初めてだった。

 金治は、自分でも意外に思っていた。赤の他人にしか思えない筈の可奈のことを、今はこれ程までに心配している。切っ掛けが何だったのかは覚えていない、しかし歩きにくいと言って手を振りほどこうとする可奈の右手を、金治は決して離そうとしなかった。


 金治と可奈が和水の家に到着した時、すでに彼女の息子夫婦らは乗って来た車に荷物を積んで、帰り支度を初めていた。

「遅かったか」

 後ろから声をかけると、振り返った和水は涙を浮かべていた。普段ははっきりとした顔立ちに、苦虫を噛んだような深い皺を何本も刻んだ、鼻っ柱の強い女である。だが今は、泣き顔を見られた気恥ずかしさに、

「いや、ほんまに来てくれたん」

 と頬を緩ませて強がりを言った。

 和水の息子とあいさつを交わした。背が高くがっしりとした体つきの男で、突然現れた金治にも愛想のよい笑顔を見せた。その息子の妻は可奈よりも小さな子どもを抱っこしており、金治には会釈しただけで早々に家の中へと戻って行った。こちらは義母の知り合いになど興味はないらしい。

「あんた、ほんまに全部積んだか?」

 和水が心配そうに息子に言う。

「積んだて。ほんまにもうええから、うちにも米とか野菜はようけあるねんから。俺らだけでは消費しきれんほどあるんやから」

「そんなんいうて。今野菜なんか皆高っかい高っかいねんから、とりあえず持って帰るだけ持って帰ったらええねんや」

「オカンが自分で食べえな、友達らにも配りいよ」

「その友達らと一緒に作ったもんやんかいさ」

 息子は呆れた様子で頭を振って、金治に苦笑いを向けた。どうやら和水は必要以上の量の、米や野菜を息子たちに持ち帰らせようとしているらしい。彼らが乗って来た車は大きなステーションワゴンで、見た所彼らが生活に困っている様子でもなかった。

「それよりオカン、ほんまにウチこんのか?」

「行かへんて何べん言わせんねん」

「そない言うてもここ最近ずっと調子悪い言うとったやないか。昨日も電話で」

「そんなもんそん時だけや、見てみいなほれ、今はぴんぴんしとりまっさ!」

「何やねん、もう」

 妻を追って家の中に戻って行く息子の背を見つめながら、

「……ほんまに言うこときかんわ」

 和水はそんな愚痴をこぼした。だがその声には怒りなど微塵もなく、僅かに震えていた。

「甘やかしすぎやろ」

 と金治は言った。「少々貧乏するくらいの方がええんちゃうか」

 すると和水は前を向いたまま、はは、と笑った。

「甘えてんのはワテの方や。子どもはいつまでも子どもていうけど、あれほんまやな」

「ワシには分からん話や」

「知ってるねん」

「何」

「息子はワテのこと心配して一緒に住もうと言うてくれる。でも嫁さんは嫌なんや。口には出さんけど分かる、女同士やさかいな」

「そうか」

「別にそれは構わんねん、そらそうやろうと思うし。でもそういう息子の優しさを知ってるとな、どうにも自分の不甲斐なさばっかり思い出されて」

「……」

「若い頃なんか、どこをどうやってあの子に愛情を伝えてやったかまるで覚えてない。なんであんなにええ男に育ってくれたんやろか。ワテも年いったし、そら親馬鹿かもしれんとも思うわ。でも、機嫌の悪さや忙しさにかまけて幼いあの子の手を振り払ったことも一度や二度やない。情けない自分の姿ばっかり思い出されて、今ではあの子を見るだけで勝手に涙が込み上げて来よる」

 和水の話を受け、金治は俯き、微笑んだ。

「ええなあ、幸せやないか、和水は」

「金さん。ごめん」

「何で謝る。きっとあれよ、子ども子どもと思うてみても、最初っからひとりの人間やったんやで。ワシらが手をかけようがかけまいが、そいつが通る人生の中で勝手に大きいなっていくもんなんと違うか」

 和水は鼻をすすり、上着のポケットから出したくしゃくしゃのちり紙で盛大に鼻水を噛んだ。

「お」

 和水が振り返って可奈に気付いた。

 可奈は、この家の前で金治が立ち止まった時から不満を抱いていた。てっきり千尋を探しに行くものと思っていたのに、金治は見知らぬ老婆と話し込んだまま動こうとしない。

 足元の石を踏んで地面に埋め、爪先で掘り返してはまた踏んで埋める。なぜか頑なに手を離さない金治の横に立って、可奈は無意味にしか感じられない時間を過ごしていた。

「かいらしなあ。お名前は?」

 和水に問われ、可奈は金治を見上げた後、

「山形可奈です」

 と小さな声で答えた。

「すまんな」

 と金治は言った。「まだ戻らんやろ。軽トラ大丈夫か」

「ああ、ええよ」

 和水はちり紙を握った手を左右に振って答えた。「二週にいっぺんくらいしか使わんしな。旦那がのうなってからは自分が食べるもんも適当になったわ」

「野菜食え野菜」

「あはは、そらそうや」

 その時だった。

 あ、と可奈が叫んだ。

 ゆっくりと、和水の軽トラが敷地内に乗り入れて来た。運転席には千尋の顔があった。

「あいつ」

 金治は強めに言いつつも、内心ほっと胸を撫で下ろしていた。これでようやく可奈の手を離せる……そう思ったにもかかわらず、父親に向かって駆けていきたい可奈の右手を、だがしかし金治は不思議と離すことが出来なかった。


 ものはついでだから、と言う和水の厚意に甘えた。千尋が調達して来た物資を積んだまま、荷台に可奈と和水を乗せて軽トラで金治の家まで山道を登った。庭先の目の届く場所で可奈と和水を遊ばせ、金治と千尋は縁側で話をした。

「何があった」

 金治が問うと、ペットボトルの水を一息で飲み干し、

「遅なってすまん」

 と千尋は謝った。

「そんなんいらん、わけを聞いてるんや」

「……」

 空のペットボトルを握ったまま、千尋は答えを渋った。何かを言う前から、見開いた目には涙が浮かんでいるように見えた。

「可奈に、色々残してやりたいと思って……。オトンが書いたメモのやつはすぐに手に入ったんやけど、可奈の書いたチョコレートの文字見てるうちに色々考えてしもうてな。あれもこれも欲しなって、おかげで荷物がめちゃめちゃ増えたわ」

「異変はなかったんか。体調はどないもないんか」

「え?う、うん。それは大丈夫」

「買い物だけで一晩越したんかい」

「色々回ってるうちに、疲労が祟ったんかな、眠気がえぐなってな、悪いとは思うたけどこれ以上走ったら事故る思て。最近まともに寝れてなかったし」

「どこで寝てん」

「スーパー銭湯」

「なんじゃい!」

 金治が千尋の腕をバシンと叩くと、千尋は嬉しそうに、

「なんや、心配してくれてたんか、嬉しいな」

 と顔を綻ばせた。



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