第9話 連鎖


 麓の村から電話があって、首尾よく千尋を送り出したと報告を受けた。

「すまんな」

 金治が言うと、

「ええけど」

 酒焼けした年増の女の声が返って来た。山道を登っていく千尋と可奈の姿を目撃し、不審に思い金治に電話くれた女である。村の古株で、名を飯嶋和水いいじまなごみといった。

「よう似とんな」

 と和水は言う。受話器の向こうで煙草に火をつけるライターの音がした。

「そうか?」

 金治がとぼけると、

「本人は別に何も言うてないけどな」

 和水は、一応、という雰囲気で千尋をフォローした。「けど意外やったわ。金さんはずっと冬の間息子さんとこ行ってる思ってたから、まさかこの時期にわざわざこっちへ呼び寄せるなんてな」

「そんなん違う。ワシもあいつに何十年かぶりに会うたんや」

「へえ、そうなん」

「信じてへんな?」

「詮索はしんとこ、思うてまっさかい」

「賢いなぁ、和水は」

「おー、こわ」

「阿保抜かせ。ひとまず助かった、また礼はする」

「期待せんとあてにしとくわ。あ、そや」

「何や」

「ほな、急やけどひとつ頼まれてくれんやろか」

「何」

「今、うっとこの息子夫婦も家に来とるんや。ワテも年やさかい早いとここの家潰して、一緒に住もういうてしつこいねん」

「ええやんか」

「ええことあるかいや、嫌やわ。ほいでな、前々からずっと息子らにも言うてるねん。超高齢化社会やもん、年寄り同士助けおうてしっかり生活でけとる、てな」

「実際そうやん」

「んでも自分の目で見て確かめんことにはそうそう信じんわけだ。隣近所言うたかて、都会もんには理解出来んよな距離にポツーンポツーンやんか。その、助け合うとる筈の老人仲間役が簡単に用意でけんのだわ」

「皆まで言うな、分かった分かった」

「ほんまか、えらいあっさりなや」

「何時に行ったらええ」

「明日、十二時前でええわ」

「息子と孫も連れてってええか」

「渡りに船がやな」

「ほなそういうことで」

 金治が電話で話している間、可奈がずっと金治の左足の甲にマジックペンで落書きをしていた。あまりのこそばゆさに金治は耐えかね、今にも笑い出しそうになるのを堪えながら早々に電話を切り上げた。


 ひとつ問題が起きた。

 千尋がなかなか帰って来ないのだ。その日の夕刻になって和水に電話をかけてみたが、やはりまだ軽トラは戻っていないという。予定があるわけでもないので返却は急がないと和水は言ってくれたが、金治が気にしているのはそこではなかった。

 金治が千尋に手渡したメモには、街まで出ればどこでだって揃う品物ばかりが書かれてあった。朱墨だけは店を選ぶかもしれないが、隣街には大型のホームセンターがあって、そこでなら容易く手に入ることは金治自身の経験から知っている。

 何かが千尋の身に起きたのかもしれない。茜の首に広がった痣とは比較できない為何とも言えぬが、千尋の口振りからして本当にタイムリミットが近いのかもしれなかった。

「お父ちゃん遅いな」

 縁側に立って庭を見つめる金治の横で、可奈が不安げな声を出した。「山ん中で迷子になったんやろか」

「大丈夫や。登ってこれたんやし下りるのなんか屁でもない」

「それ朝の話やん。もう暗いねんで?」

「大人はこれくらい大丈夫や」

「……迎えに行く?」

「行かへん」

「……ジイジ、何で今日はずっと外出えへんかったん?」

「……」

「ジイジ?」

「腰痛いからや」

「……ふーん」

 実際にはまたあの老婆の顔を視界の端に捉えるのが嫌で、野山で走り回りたがった可奈を押し留め、一日中を家の中で過ごした。

 未就学児だというのにかなりの語彙力と豊かな感性を持っている子だ、というのが金治の抱いた感想だった。可奈の尽きない好奇心は後期高齢者の金治には辛い部分もあったが、話をしていて飽きないという利点もあった。自由気ままで一風変わった大人を相手しているのと大差なく、こちらの言う言葉はそのほとんどを理解して返事を口にすることが出来た。ただし、だからこそこちらから発する言葉には注意が必要だった。

 千尋の帰りを待てず、晩飯を前に風呂に入った時のことだった。

「お父ちゃんも病気なん?」

 金治が湯舟に浸かり、この時可奈は洗い場で体を泡まみれにしていた。金治は天井の黒ずみを見上げたまま、一瞬息をするのを忘れた。真剣な眼差しで足元の流れゆく泡を見つめる可奈の姿に、どう答えてよいのか分からなかった。

「……なんでそう思う」

「ジイジ言うてたやん。お前が死ぬ前に教えといたった方がええ思て、って」

「……聞いてたんか」

 金治がしたためたメモの最後に「ちょこれーと」と書き足したのはやはり可奈だった。ちょっと厠へ行った隙を突かれた単なるイタズラだと思っていたが、考えてみればあのメモに落書きが出来たということは、かなり早い段階から可奈は目を覚ましていたということになる。ずっと、大人たちの声に耳をそばだてていたのである。

「何の話をしてたんかは可奈ちゃんは分からへんかったけど、ジイジあん時お父ちゃんと話してたやろ。お父ちゃんにお前って言うたやん。そしたら、お父ちゃんが死ぬ、いう話になるやんか」

「……」

「ジイジ」

「いつまで洗てんねん。はよ入れ、風邪ひく」

 金治は手桶で可奈の体に湯をかけ、何度も何度も湯をかけ、そして両手で脇の下に手を差し込んで湯舟に入れた。可奈はこそばゆがってキャキャと笑い、激しく体を捻った。

「可奈」

「んー?」

「人間はみんないつか死ぬもんや」

「……ジイジも?」

「当たり前やん。ワシなんかすぐ死ぬわ」

「可奈ちゃんより先死ぬん?」

「おお」

「……嫌やなぁ」

 檜の浴槽の縁に両手をかけ、天井を向いて浸かっていた可奈の口から、悲しみを多く含んだ声がもれた。

「嫌やけどしゃーない。でも可奈はまだまだ生きるんや。美味いもん食うて、金稼いで、好きなことして生きろや」

「……」

 考えたこともない未来の話など実感が湧かぬのだろう。可奈は答えず、右手で何度も両目を擦った。金治はまともに可奈を見ることが出来ず、湯舟の湯で顔を洗い、天井の黒ずみを睨んだ。

「お母ちゃん」

「あ?」

「お母ちゃんも言うてた」

「……何を」

「好きに生きなさいって。お母ちゃんがいつもそばで見守ってるからって」

「そうか」

「いつでも側におるって。側におるって言うたんやもん」

「……そうか」

「絶対に、死んでも守ってみせるからって」

「死んでも守る、な。そら心強いわい」

 金治は呟き、ゆっくりと湯船に顔を沈めた。「……おばッ!」

 金治はあわや溺れ死ぬ所であった。

 自分が見たものが信じられず、湯に顔を沈めたまま息を吸い込もうとした。大慌てて立ち上がった金治を見上げ、可奈はジイジが遊んでいると勘違いして、少し笑った。だが金治は遊んでいるわけではなかった。ふざけているわけでもなかった。

「可奈」

 金治は震え、可奈を見下ろした。「後ろ向いてみい」

「え?」

 可奈は急に怯え始めた。「なんで、いやや」

「ええから、虫ついてるかもしれん、取ったるから後ろ向け」

「虫!?何の虫!?」

 勢いよく振り向いた可奈の側でしゃがみ込み、金治は小さな体を持ち上げ、見た。

「……」

 可奈の右側の臀部に、小さな赤い痣があった。「お前、これ」

「あー、お尻?こないだな、蚊に噛まれてん、痒いわー」

「蚊?こんな時期にか」

「公園行ったらまだおってん」

「……そ、そうか」

 

 この日、千尋は戻って来なかった。





 

 

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