第7話 認知
呼び名は分からない。だが人間は点が三つ、逆三角形に並んでいると人の顔に見えて来るという、それ自体は金治も経験から知っていた。いわゆるシミュラクラ現象というやつである。だが、金治が見ているのはそれとはまた別のものだった。
顔ではある。そう見えるとかではなく確かに顔なのだ。だが人にしてはやや高い位置にあった。庭として使っている敷地と、山の斜面の境に立つ木と木と間、二メートル程の高さに黒と白が入り混じって出来た線画のような顔が浮かんでいる。
老婆に見えた。じっと見つめるとその顔は斜め上を向いており、金治の方を見ていないのが分かる。だが恐ろしい気配は確かに、その顔から発せられているに違いなかった。
「誰じゃ」
そう声に出そうとした瞬間、
「ジイジ?」
右手を可奈に掴まれた。
「お、お前はオトンのとこ行っとれ」
そう言って可奈の手を振り払い、右下に視線を落とした金治はそこに可奈がいないことにゾッとした。
「は!?」
慌てて木々の間に視線を戻した金治の目の前に、自分を見つめる老婆の顔があった。距離にして三十センチもなかった。こうもあっさりと接近を許すなど、山の獣たち相手にさえ一度として経験がない。
……このワシとしたことが。
捨てた筈の殺し屋としての誇りが僅かにメラと燃えた。
見覚えのない顔だった。皺皺である。人の事を言えた義理はないが、恐らく八十二の自分と同じくらいの年齢ではないか、と金治は読んだ。目は黒く落ち窪み、頬骨周辺の肉がやたらと膨らんで下瞼を押し上げ、やや笑っているように見せている。団子鼻の下に刻まれた皺は痩せた唇と一体化し、まるで髭が生えているようだった。髪は全白で、名前の分からぬ花の匂いがした。
見つめ合うこと数秒、突如金治の背後から雄叫びが聞こえた。
「うおおおおおお!」
振り向く暇もなく後方から千尋が突っ込んで来た。金治の右側を掠め、千尋は手に持っていた木の棒を老婆の顔に向かって振り下ろしたのである。だが、一瞬目を離した隙に老婆の顔は消え去っていた。金治は目を瞬かせ、何が起きたのかを必死に考えた。心臓が激しく脈動していた。
―――あの婆はどこへ……いや、ほうでも……
一秒、二秒と経つにつれ、本当に老婆の顔があったのかさえ記憶が怪しくなっていく。三十年間一人きりで生きて来た自分の家の庭に、木々の間に突如老婆の顔が現れ、しかも二メートルの高さから、一瞬で間合いを詰めて来た?
「ありえんやろ」
金治は呟いた。だが目の前では千尋が棒切れを握ったまま肩で息をしていた。今見たものが現実であると証明するかのような、青ざめた顔で。
「オトン、見たんか」
その千尋が言う。
「……何を」
「顔。見たか」
「ああ、見た」
はう、と嘆いて千尋は膝を落とした。手から棒きれが落ちた。「あああ、すまん、すまん、オトン。あれは俺が連れて来てしもたんや」
「お前が追われてると言うてたのはあのけったいな婆か?」
「……うん」
金治はその場でぐるり一回転し、辺りを見渡した。「今はもう何の気配もせん。ここにあれがおったっちゅう痕跡すらない。あれは……お?」
見れば可奈が一人、縁側に座って俯いている。
金治は歩いて可奈の側にいき、
「大丈夫か」
と声をかけた。
だが可奈は小さく頭を上下させたまま金治の問いには答えなかった。金治がしゃがんで顔を覗き込むと、可奈は目を閉じて小声で何かの歌を歌っていた。おい、と肩を掴んで許すと、可奈はびっくりした顔で金治を見上げた。
「もう、終わった?」
「あ?」
「もう終わった?」
「何がや」
「お父ちゃんな、怖いことあった時は目閉じて歌うたってたらええ言うてん。歌ってるうちに怖いことなんてすぐ終わるー言うて」
「ああ」
金治は振り返って千尋を見た。息子はいまだ庭で両膝をついている。「そやな、それがええわ」
「もう終わったん?」
「おお、終わったんちゃうか。別に最初から何も怖いことなんか起きてへんけど」
「そうなん?でも」
「お父ちゃんあれ相当疲れとんな」
同情するよな素振りで金治が言うと、可奈は幾分ほっとした顔で、
「そやねんなー」
と大袈裟に両肩を下げた。
「晩飯の準備するから手伝え」
言うと、可奈は縁側から勢いよく飛び降りた。
「うん!何食べる!?」
「けんちん汁しよか」
「ええー!」
可奈ちゃんは葱食べれへん、野菜好きやけどお肉の方が好きや、こないだの猪肉がいい、と必死に訴える孫の声を、この時金治は殆ど聞いていなかった。
「千尋。お前ワシに何か隠してへんか?」
二日前、そう尋ねた途端息子の目の色が変わったのを金治は見て取った。睨むような目付きではあったものの、浮かんでいたのは明らかに恐怖の色だった。正直者やな、と金治は思った。だが都合よく千尋の口から事の真相を聞くことは出来なかった。千尋自身混乱しているのだ。何故妻が死に、自分の首にも同じ痣があるのをはっきりとは理解していない。ただ、
「異変が起きる少し前あたりから、婆の顔を見るようになった」
と千尋は打ち明けた。
先程金治が自分の庭で見た、あの老婆がそうなのだろう。自分が連れて来てしまったと言った千尋の言葉は気になるが、
「ワシが二人の後ろに見た厭な気配も、あのぐじゃぐじゃした線みたいなもんも、全部あの婆やったわけか」
と、そこは腑に落ちた。だがそうなると、金治が若い頃から気配を感じていた「不思議なもの」と、木々の間に現れた件の老婆が結びついてしまう。それはつまり、この世に存在しないもの……という受け入れがたい真実に辿り着いてしまうのである。
この日の夜、けんちん汁をたらふく食べた可奈が眠った後、金治は、どうにも茫然自失から抜け出せない千尋の頭を引っ叩いて話を聞いた。
「あの婆を最初に見たのはいつや」
「……春、や」
「春ていつや。四月か、五月か」
千尋は視線を彷徨わせて記憶を手繰った。
「四月や」
「ほんまか」
「月末近くやった。連休前でまだ病院開いてて良かったって、なんかそんな話したん覚えてるわ」
「お前のカミさんが熱を出したいう話か?」
「せや。その辺りからやと思う」
「何者なんや、あれは」
「分からんよ」
「全く知らん顔か。お前らが怨み買うとって、なんや生霊みたいなもんに憑りつかれてるいう話はないんか」
「オトン、自分が今まで何をして来たか思い出してみいよ。生霊に憑かれるなら俺らやのうてオトンの方やろ」
「やかまし」
金治は千尋の頭を叩いて、言う。「ほいでもお前、カミさんが血吐いて死んだ原因があの婆にあると踏んでるわけやろ。だから次は俺や、追われてるーいうてほざいとんのやろ。ほな何かしら因縁感じとるんと違うのか」
「そら、そのちょっと前からあの顔を見始めたもんやから、怖ぁなってってのもあるよ。でも因果関係があるかて言われても分からんのや。ただ」
「なんや」
「カミさんがああいう死に方したもんやから、すぐに部屋引き払って他所へ移ったんや。でも、あの顔はついて来た」
「お前を追っかけて来たんか」
「うん、そう思うわ」
「何でや……」
金治の口からも溜息が出た。意味が分からない。「どないせえ言うんじゃ」
自分があの老婆の顔を、この世のものではい、という前提で話しているのも驚きだった。だがそれ以上に、実際に金治が見たあの老婆が人間の命を奪い去る程禍々しい何かなら、まずは信じてみる以外に対処のしようがない、とも思うのだ。
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