第6話 顔
子どもというものは実に敏感である。自分がどこにいれば安全か、それを本能で感じ取る力が備わっているのかもしれない。この時の可奈がまさしくそうで、金治の家に辿り着いて以降、初日に父親の膝で眠った時以外は、不思議なくらい金治の側に張り付いて離れようとしなくなった。
金治は一見かくしゃくとしていても、特別偉丈夫というわけでもない。それなりに皺皺で、動きもそんなには早くない。溌剌とした可奈に対して金治はやはり、八十を超えた年相応の爺様ある。それでも、可奈は父親よりも金治の側にいることを好んでいる様子だった。
だが、金治はこの状況を好ましく思わなかった。子ども特有の、壊れたバネのように無軌道な動きがとにかく危なっかしく、薪割の斧や動物を捌く大型の刃物も、扱う者が金治のみであったが故に子どもでも手の届く位置に置いてあったのだ。刃物が危険であることくらいは理解しているだろうが、距離感がまだつかめていないように金治の目には映った。例えばちょっと転んで前のめりになればざっくり頭がかち割れる、といった近距離にまで可奈は全力で走っていく。側に鎌や鉈が置いてあっても、大きな身振り手振りで話をする。何度も腕がそれらに触れて、その度に金治は怒った。
だが、しゅんとするのは一瞬である。無尽蔵な体力と瞬発力に加えて、可奈の好奇心がこれまた凄まじかった。朝メシを食うなり金治の手を引いて外に飛び出し、
「あれなに、これなに」
と質問責め。
「石や。花や」
「あれ何するやつ。可奈ちゃんもやっていい?」
「木切るねん。あかん」
なるべく言葉少なに答える金治はそれでもすぐに疲労し、「お前いつまで喋ってんねん」とまたもや怒り出す始末。それでも可奈は泣く所か癇癪を起し、
「可奈ちゃんは子どもやから色んなことに興味があんの!分かって!それくらい!」
と驚くべき語彙力で我を貫いてくる。孫の相手などしたことのない金治は目を丸くし、へとへとになるまで野山を連れ回された。だが次第に、金治にもそんな可奈の姿に見えてくるものがあった。
……家にいたくないんやな。
振り返ると、縁側に座ってどこを見ているか分からない千尋の姿。
……父親があんなんじゃあ、そら居心地悪いわな。
もちろんそれが理由の全てではあるまい。可奈による気遣いなのかはたまた本能なのか、それも分からない。だが今は、頼りない父よりも金治の側にいる方が良いという判断を下していることは間違いなさそうだった。
「かしこいな」
と、金治は可奈を見て思った。
ただ、可奈は決して千尋を放ってはおかなかった。野山で花を摘んでは、
「見て―!めちゃめちゃきれーやでー!」
と父親の元へ駆け、鬱蒼と積み上がった枯葉の中から美しい形を探し出しては、
「これあげる!」
と父に届けた。そしてまた、金治のもとへ走って戻って来る。
金治は不思議な感覚を覚えた。目の前にあるのはきっと平凡で当たり前の親子の光景なのだろうが、自分と千尋の間にはなかった関係性である。それなのに、千尋と可奈の間には育まれた温もりがあって、自分と可奈の間には当然なにもない。目の前のふたつは確かに自分を通ってこの世に生まれて来た命であるのに、まるで突然変異のようも見えるのだ。全くの他人にしか思えぬ無垢な幼子の命の輝きは、金治には少々眩しく映った。
「お父ちゃん疲れてんねんて」
と可奈が側へ来て言った。
「ああ、そうなん」
「うん、毎日腰痛い痛いて言うてるしな」
「そうなんか」
「うん、ギッシリ腰やで」
「ギッシリ」
「知ってる?ギッシリ腰」
「知らん」
「ジイジはコシイタとかないか?」
「痛い」
「ジイジも!?」
「おん」
「ほな、もうちょっとだけ走ろか!」
「何でやねん」
「可奈ちゃんまだ走りたらんわ」
可奈は聞いてもないのに自分が保育園の年長さんで、来月に控えた音楽発表会に向けて猛特訓中であることを教えてくれた。可奈が受け持つパートは小太鼓で、実は年中の時から狙っていたらしい。去年はカスタネットだったそうで、今年は絶対に小太鼓をやりたかったから、とても張り切っているという。
「でも」
「……なんや」
急にしょんぼりした声で足元の石ころを蹴る可奈に、金治は尋ねた。「へたくそなんか」
「ちゃうわ!めっちゃうまいで!?」
「ほなええやん」
「お父ちゃんとお母ちゃん、一緒に見に来る筈やってん」
「ああ……」
そうか、死んだものな、とは言わない。だが金治にとっては可奈に寄り添えるだけの悲しみも喪失感もなかった。そもそも会ったことも顔を見たこともない相手だ。息子が選んだ相手といっても、その息子の顔さえ忘れていた。
「つまらんな」
妥当な言葉を探して金治が言うと、
「ジイジ来てもええで。二人までは親見に来てええねん」
と可奈は呟くように言った。来て欲しい、という感情はそこまで含まれていない気がした。だが、
「暇やったらな」
何の気なしに金治が返事を口にした途端、
「ほんま!?」
可奈が金治の足に取りついた。見上げる顔には必死さが浮かんでいる。丸くて白い頬に赤みが差していた。金治は「しまった」と思った。来月であれば、計画通りに行けばとっくに山を下りている筈だから……と軽く考えていた。だが、可奈の期待は予想以上だった。軽々しく交わしてよい約束ではなかったのだ。
「ほんまに見に来る!?腰痛くても来る!?」
「……」
どうする。どう答える。
子どもに噓やごまかしがきかないことは、可奈の敏感さを見る限りその通りだと思う。だがだからと言って行きたくもないのに「行く」と言ってこの子は喜ぶだろうか。そこで金治ははたと我に返る。
―――何んでワシはこのガキが喜ぶかどうかを考えてるんや、どうでもええやないか。
「暇やったらな」
金治がそう答えると、可奈は目を輝かせたまま千尋の元へと走り出した。
「おとーちゃーん!ジイジ音楽発表会見に来るってー!」
「おい!」
ワシは約束したわけやないぞ!小さな可奈の背中に手を伸ばしたその瞬間、金治の背中に強烈な怖気が襲い掛かって来た。
「なんじゃ!?」
驚いてその場から跳び退いた。
怖気は背後から感じられた。
「は!」
視界の端に何かが見えた気がした。だがツとそちらを見やるも人影はない。木々の葉が風に揺れているだけである。しかし、
「……まだある」
気配は今だこの場に留まり続けていた。
目を細め、息を殺し、意識をじわじわと広げていくとその先に……顔が、見えた。
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