第5話 靄


 家の裏の離れにある貯蔵庫に行き、冷凍庫から今年最後の猪肉を出して来て野菜と一緒に鍋に入れ、残しておいた一部を直火で焙った。ぐつぐつと煮立った牡丹鍋と猪の焼肉を卓袱台に並べると、可奈は膝立ちになって目を輝かせた。だが、どれも初めて見る料理なのだろう、右手で箸を握ったままどう突いていいか分からない様子だった。

「はよ食えや」

 金治が言うと、

「これ何?」

 と不安げな顔で可奈が聞いた。

「猪肉や」

「ししにく?」

「猪や、知らんのけ」

「猪は知ってる。食べれるん。どんな味?」

「食え」

 可奈はさらに不安を募らせた顔で隣の千尋を見た。千尋は鍋の中心をじっと見たまま、可奈の視線に気付かぬ様子。見兼ねた金治が自分の箸で椀に装い、可奈の眼前に突き出した。

「固い?」

「あ?」

「肉、固い?可奈ちゃんな、今前歯グラグラで噛んだら痛いねん」

 知らんがな、と金治は言いかけ、ぐっと言葉を飲み込んだ。

 可奈は黙ってお椀を受け取り、鼻先を近づけて匂いを嗅いだ。そして猪鍋の肉を不器用に箸で掴み、左側の犬歯でかぶりついた。その様はまさに犬さながらで、それを見た金治は片頬を上げて微笑んだ。

「どや」

「……」

 小さく噛み切った肉を租借すると、可奈はじわりと眉根を寄せて金治を見つめ返した。少し癖のある、独特の匂いに困惑しているのだろう。

「……」

 金治があえて黙って見つめると、可奈は無言のまま「うえ」と餌付いて涙を浮かべた。吐き出しはしなかったが、そのまま飲み込むことも出来なさそうだった。金治はじっと可奈を睨み、

「食え」

 と言った。猪肉は大人でも好き嫌いが分かれる。初めて食べた子どもならば先入観も何もなかろうが、可奈には不評だったと見える。実際金治はひとつも怒ってなどいなかったが、何となく半べその可奈が面白くてそのままにしておいた。

 だが、焼いた方の肉は美味い美味いと言って食べた。醤油ベースのタレが功を奏したのかもしれない。金治は少し気を良くして、自分の分を可奈のお椀に入れてやった。

「これジイジが獲ったん?」

「せや」

「どやって?」

「鉄砲で撃った」

「……これ?」

「おお」

「これ可奈ちゃん好きやで」

「……ほお、そうけ」

「おかわりまだある?」

「いや、もうない」

「ええー、ないのん?……ほな、可奈ちゃん明日買うてきてろか?」

 金治は危うく笑い声をあげそうになり、必死に堪えながら首を横に振った。しょんぼりする可奈を見ながら、それでも明るく振舞えない自分に、一体何故だろうと金治自身が疑問を抱いていた。

 何故だか、明るく孫とじゃれ合う気になれなかった。目の前の千尋と可奈が自分の息子と孫である、という実感も今一つ湧かない。いや、正直な所千尋に関して言えば、口調といい目元といい、自分と似ている部分がある分、受け入れることも可能だった。短い時間ではあったが、真白と三人共に暮らした経験が、本能で千尋を我が子と認めかけてもいた。だが、可奈という名の六歳の孫に関しては全くの他人にしか見えない。むろん、他人であるからこそ気負いなく笑顔で接することが出来る筈だ、という考え方もある。実際愛想はよくないかもしれないが、麓の村の住人とはそうして接してこれた。

 心のどこかでは、ずっと一人きりで生きて来た自分だけの日常を、騒がしい他者に浸食されたくないとの思いもあるにはあったが、やはりそれだけではない気もするのだ。

「……」

 千尋の顔を見る。

 死んだような目をして鍋を見ている。

 こんな息子の前で、無邪気な可奈と戯れる心境にはなれなかった。


「なあオトン、何か、心当たりはないか?」

 昨晩千尋にそう尋ねられた金治は、

「ない」

 と即答した。実際、記憶を手繰り寄せた所でそんなけったいな殺人者など会ったことも話を聞いたこともなかった。何より金治の経験則が、茜の死に第三者、この場合でいう殺人者の気配をどこにも感じ取っていなかった。もし本当に、死の直前に広がる赤い痣が他者の手によるものならば、そいつは全く気配を感じさせずに人を殺したことになる。

 ―――いつ、どうやって。

 もしそれを実行に移せる人間がいるとすれば、それは山形金治でさえ舌を巻く程の人殺しのプロである、と言わざるを得ないだろう。

「お前、追われてる、言うたな」

 今度は金治が千尋に尋ねた。

「……ああ」

「何でそう思う。訳は知らんがカミさんがおかしな死に方をして、次にお前の体にもその兆候が出た。そやけど普通に考えたらこれは何らかの病気やないのか?お前ら夫婦は何らかの奇病にかかり、発症した。普通はそう思う。実際お前の話を聞いたワシもそう思うた。せやのに何でそれが追われてる、殺される、なんていう突拍子もない話に繋がるんや」

 だが、千尋は再び顔を伏せ、金治の質問には答えなかった。その代わり、

「ホンマに心当たりはないんやな?」

 と同じ質問を口にした。

「ない」

 金治は答えた。

「そうか、ほな、ここへ来た意味はなかったな」

 千尋は溜息をついて顔を上げた。「少しの間ここで休んで行ってええか。ちょっと疲れたわ」

 金治は目を細めた。千尋の右肩の上で、何か黒いモヤのようなものが炎のように揺らめいたのが見えた……ような気がした。

「……おお。もうすぐ山降りるさけえ、それまでなら」

「そうなん、いつ?」

「今月一杯や」

「ほなまだ一週間あるな。助かるわ」

「……おお」

 ―――あれはなんや。

 金治はさらに目を細めて見た。

 若い頃から視力には自信があった。五十代でこの山に入った時も、狩猟に際して目の良さは大きな武器となった。だが同時に、何となく、見たくないような物まで目の端に捉えることがままあった。だがそれはおそらく殺し屋時代に磨き過ぎた、砥ぎ澄まされた察知能力の過剰な暴走だろう、と思い込むよう努めて来た。人ではないものが見えたからと言っても、これまで自分の歩んで来た道が道である。見たままを受け入れあちらの世界に引っ張られると、ろくでもないことになる……そうやって人間的な理性で本能に蓋をしてきた。だが今更ここへ来て、息子の背後にその見たくないものを見る羽目にはなってしまった。

「千尋」

「うん?」

「お前ワシにまだ何か隠してへんか?」

 問うと、千尋は目を見開いて金治を睨んだ。







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