第4話 異恐


 身の周りでおかしな気配を感じ始めたのは今年の春頃だった、と千尋は言う。普段病気ひとつしない千尋の妻、茜が急な発熱により床に臥せった。昨今巷を賑わせる流行病かと思い安静にさせたが、三十八度後半を維持したまま熱は一向に下がらず、起き上がることも出来なかった。発熱は十日以上続き、その間病院で検査もしたが原因は知れず。これはいよいよ普通の病ではない、と思い始めた所で、ある晩ケロっとした顔で茜が部屋から出て来た。

「戻った」

 とひと言、そう言ったそうだ。

 治った、でも、熱が引いた、でもない。

 戻った……と茜は言ったのだという。

「それから二日か三日して、茜の首の後ろに痣が出た。最初は小さぁてはっきとりとは分からんかったし、熱の後遺症や思うて気にもせんかった。でも次第に痣が大きいなってって、その内今度は体の節々が痛いと言い始めた。顔色の悪い茜に気ぃつこて可奈は俺にべったりやし、せやかて俺も仕事せないかん、保育園の送り迎えもあるし、この子は延長を嫌がるから義理の母親に頼んで見てもろたりとかで色々忙しいしてた。そしたら……」

 ある晩急に、茜が大量の血を吐いたという。

「アカン、思た」

 なにか重大に病気に蝕まれている、と思った。しかし、その足で大学病院へ駈け込んだにも関わらず、検査の結果は異常なし。大量に血を吐いた原因は分からないが、若干胃が荒れているので粘膜が傷ついていたのではないか、などと適当なことを言われて憤慨して帰って来たそうだ。もし血を吐く程に胃が傷ついているなら検査で分からぬ筈がないではないか。

「そらそうや」

 金治は頷き、「文句言うて別の医者行ったらええやんけ」

 既に終わった話にそう苦言を呈した。千尋は頷いたが、

「でも」

 金治を見ずに声を低くして言った。「そもそも俺もあいつも、重要なことを医者に黙ってたんや」

「なんや」

「家で茜が吐いた時、あいつ、血と一緒に、長い髪の毛を吐いたんや」

「髪の毛?」

「ああ」

「誰のや」

「知るかいや。少なくとも茜のやない、あいつは長いこと髪形をショートにしてた。けど、あいつの口から出て来た髪の毛はどこまでも長かったんや」

「どこまでもて何や」

「一本や。一本の長い髪の毛が絡み合って大量に見えてたんや」

「……ワシをからこうてるんやないやろな?」

 阿保言うな、と千尋は怒鳴った。だが声は寝ている可奈を気にして尻すぼみになって消えた。

「ほなら、その長い髪の毛とやらが身体ん中にあったせいで、お前のカミさんは血を吐いたいう事と違うのか。理由は知らんが」

 という金治に問いにも、

「ありえんやろそんなこと」

 と千尋は即答した。「どこでそない長い髪の毛飲み込むんや。ファミレスで頼んだハンバーグにちょこんと毛がついてましたとかそんなレベルやない、洗面台一杯に血と髪の毛がドバっと出たんや」

「本人に心当たりもない」

「ない。なんなら血を吐いた直後は本人も放心状態やったけど、医者行って異常なし言われてからはあっけらかんとしとったわ。節々の痛みも取れた言うて喜んどったくらいや。それでも……」

「なんや」

「そっから数日で背中一面に赤い痣が広がった。死んだのはその直後や」

「死因は」

「分からん」

「あ?」

「朝起きたら死んでた。大口開けて、おそらく血を吐いたんやろなぁ、仰向けで、顔中が真っ赤で枕まで染まってた。下の布団にも、マットレスにも血が染込んでた」

「そうか……」

 決して金治が自ら言うことはないが、人の死に顔なら嫌という程見て来た。見過ぎて感覚が麻痺し、恐ろしいとも思わなくなった。千尋の妻茜の死に様は確かに不可解だが、だからと言って死は死だ。それ以上でもそれ以下でもない、と金治は煙草の煙を吐きながら思った。

「警察はなんて?」

 金治の問いに、

「別に」

 千尋は可奈の寝顔に視線を落として呟いた。

「別に?」

「不審死ではあるけど俺がカミさん殺す動機なんてないし物的証拠もない。高熱にうなされた後血を吐いて死んだ。その事実をお互いが確認しただけや」

「髪の毛の話は」

「言えるかいや。言うた所でそんな話警察は取り合ってくれんよ、現物が残ってるわけでもないし」

「そうか。ほいで、カミさんの次は自分かもしれんと、お前はそれを恐れとるわけやな?」

「当たり前やろ」

 と千尋は声を震わせた。「死ぬかもしれんのやぞ、この子を残して」

「ええ年したおっさんが泣くな」

「オトンには分からんのやろなぁ……親の気持ちが」

「……」

 金治は答えなかった。言い返したいような気持にさえならなかった。すると千尋は手の甲で涙を拭って顔を上げ、

「すまん」

 と詫びた。「言い過ぎた。オトンを頼りにこんなところまで来て、今さら責めんと言うときながら、今のは俺が悪かった」

「かまわん。事実は事実や」

「けど……」

「もうええて」

「違うんや」

「何がじゃ」

 初めはオトンのせいか、と思ったそうだ。

「ワシの?」

「あまりにも訳が分からん過ぎて、色々考えたんや」

 千尋は母である真白が亡くなる前、自分たちを捨てた金治の過去について話を聞いていた。むろん真白としても言えることと言えぬことはあったようだが、千尋の父親が日本史上まれにみる犯罪者であったことは包み隠さず教えてくれた。だから、今さらとは思ったものの、そういった業の深い父親の血を引く自分だからこそ起きた此度の悲劇なのではないか、という疑いの念がふつふつと湧き上がってくるようになった。だが、辻褄が合わなかった。

「もしもオトンに関係してる話なら茜が死ぬのはおかしいし、真っ先にオトン自身に何かが起きてんと筋が通らんやろ」

「そらそやろな」

「それを確かめる意味もあった。直接ここへやった来た理由の一つや」

「そうか。で、どうや」

 金治は煙草をくわえ、両手を広げて見せた。

「腹立つくらいにぴんぴんしとるな」

「ワシのせいやと思うたならなんでワシに助けを求める。こんな老いぼれに何が出来ると思うんや」

「知らんよ」

 疲れ果てたような声で千尋は嘆いた。「藁にもすがる思いや。ナニモンか知らんけどもし相手があってのことなら、オトンが何とかしてくれるんちゃうかて思うただけや。オトン自身は年で体にガタが来とっても、昔の縁故で人を紹介してくれるんちゃうか、とか。でも、どう考えてもこれはおかしい。首の後ろに赤痣つけて、やがて殺しにやって来る、そない死神みたいなやつが存在するとしてや、そいつはホンマにただの人間か?」

「……死神」

「それをオトンに聞いてみたいというのもあった。なあオトン、何か、心当たりはないか?」




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