第3話 追手
金治は横を向いたまま新たな煙草に火を付けて、煙を吐き出した。
吐いた煙が可奈の寝顔にかからぬよう無意識に横を向いた、そのおかげで、思わぬタイミングで自分の過去を掘り返した千尋の顔を見返さずに済んだ。
「オカアハンは……真白は、若い頃からどえらい感の鋭い人間やった」
金治が言うと、心当たりがあるらしく、千尋は黙って頷いた。
「ワシが唯一仕事をしくじった相手がオカアハンで、その後一緒になったのも、その一件があったからや」
「なんとなしに聞いたことあるわ。普通の出会い方やなかったて」
「普通か。普通な。確かにな。普通ではないな」
「もしかしてオトン、オカンのこと殺すつもりやったんか」
「……五十年近い前の話や」
千尋は答えなかった。だが怒って口を閉ざしたわけではない。父の口振りからは、とっくの昔に時効だ、などという言い訳がましさを感じなかったのだ。むしろそれほど大昔であるにも関わらず、忘れていない、今でも昨日のように話が出来ると言い出しかねない程、至極当然といった口調に聞こえたのである。
まだ金治が三十代、真白が二十代だった頃の話だ。名うての殺し屋として暗躍していた金治は当時、政財界の黒幕と呼ばれたある男の筋から依頼を受け、真白を亡き者にする手筈で動いていた。真白は一般家庭の生まれながら今でいう予言者で、未来を予見することが出来たそうだ。地下に潜る生活で世俗に疎い金治にとって事の真意は重要ではなかった、が、真白の力が本物であれ偽物であれ、政界の大物から疎まれる存在であることだけは間違いなかったのだ。
金治はすでに、この時点で三桁に登る数の暗殺依頼をこなしていた。今更血も涙もなく、真白に対してもこれまで同様、寝込みを襲い、まともに顔を見る暇さえなく首を掻っ切って終わる予定だった。同業者を相手取る事も多い金治にとってみれば、就寝中の素人など赤子の手を捻るよりも遥に楽な仕事の筈だった。だが、真白は金治が来るのを待ち構えていた。
さるお屋敷の、大きな日本庭園に面した一室であった。屋根から板張りの縁側に降り立ったその瞬間、金治は障子一枚隔てた向こうの部屋に人の気配を感じたのである。それは、意識と言い換えてよいものだった。
「こちらを見ている」
と、すぐに分かったそうだ。時刻は午前三時。とっくに就寝中の筈が、偶然にも真白は起きて庭の方を向いていたのだ。むろん姿形は見えていない。だがその程度の気配を把握することなど金治には造作もなかった。
「改めるか」
と思い一歩足を引いた所へ、
「お入りください」
部屋の中から声がした。気付かれた、ならば、今ここでやるしかない。金治は決心し、障子をさっと開いた。
「……」
白装束に身を包んだ名前の通り真白い女が、布団の上で正座して金治を見ていた。美しく髪の長い女だった。金治の背後には月が出ていて、やや視線を上向きにさせたその女の顔がよく見えた。
「なんや、涼しい顔して。ワシが怖わないんか」
「怖くはありませんねぇ」
「何故」
「何故でしょうねぇ」
「余裕やな。今ここで死ぬかもしれんのんど?」
「死にません。私は」
「何を?」
「死にませんよ、私は。それに私、あなたが来るのことをずっと前から知っていましたから」
彼女の力は本物だったのだ。後の伴侶となる真白との、それが初めての出会いだった。あの夜から、気が遠くなる程長い年月が過ぎた。
「お前、いくつになった」
金治が問う。
「四十三や」
千尋は答える。
「ほう」
「オトンももう、八十超えてるやろ。ほいでも元気そやな」
「ワシのことはええ。ほな、その子も年行ってからでけたんか」
「年言うほど年でもないけど、今年で六歳や。来年小学校やで、ほんまに早い」
「そうか」
「……興味なさそうやな」
「お前の顔さえ忘れとったからな」
「孫のことなんかどうでもええってか。ほな、オトンがころ……」
―――オトンが殺した人間の顔なんかもすぐに忘れ去るんやろうな……さすがに千尋は口を噤み、言葉を飲み込んだ。金治は大体察しがついた表情を浮かべたが、追及はしなかった。
「足洗ろたんか?」
「ああ。だからというてワシの罪が消え去ることはないけどな」
「……俺は、人殺しで稼いだ銭で、大きいしてもろたんか」
「オカアハンがそう言うたんなら、そうやろ」
「オカンはオトンの悪口を一切言わなんだ」
「……」
「ただ、強い人やった、とだけ」
は、と金治は煙を強く吐き出した。
「何が強いもんか。強いと言うならその身一つでワシを堅気の世界へ引き摺り込んだオカアハンの方や。見て分かるやろが、今のワシが単なる世捨て人やということくらい」
「世捨て人でもなんでもええんじゃ」
「……」
「八十越えてもまだ山で一人暮らし出来るくらいの体力残っとるなら頼む!助けてくれ!」
「せやかてお前」
金治は返答に困った。一人暮らしが出来るとは言っても、そこには慣れ親しんだ生活サイクルが大きく影響している。全くの新天地で同じ水準の暮らしが送れるかと問われれば否としか答えようがなく、足腰も随分衰えたと実感している。もちろんのこと、その昔暗殺稼業で鍛えた技などこの三十年間一度も誰にも使用していない。今更助けを乞われた所で、自分に出来るのはせいぜい猟銃をぶっ放す事くらいしかないのである。
「警察には言わんのか」
「言うても無駄や」
「何で」
「……無駄やからじゃ」
「わけを言わな分からんやろが」
金治が言うと、千尋は黙ったまま上着を脱いで、次いで着ていたニットのセーターを脱ぎ始めた。しかし膝には可奈が頭を乗せて眠っている。千尋は満足に動くこと叶わず、
「俺の後ろへ回ってくれ」
と金治に言った。
「何や」
「見れば分かる」
「見る?何を」
「首の後ろ」
金治は立ち上がって千尋の背後へと回った。
「……何やこれ」
赤かった。
千尋の首の後ろ、付け根辺りに大きな赤い痣が広がっている。
「湿疹か?」
「よう見てくれ。何の形に見える」
「形て」
言われた通り良く見れば、千尋のその赤痣は人間の手の形に見えた。人間の手が今まさに、千尋の首根をがしりと掴んでいる……ように見える。
「こりゃぁ……」
「俺のカミさんの首にも同じ痣があった」
「お」
「ヤバいもんに目を付けられたんかもしれん」
「お前、まさかこの痣が原因でカミさんが死んだとか、そういう話をしとんのか」
「ああ、そや」
「阿保言え!」
例えそうでも、いや、仮にそうだと言い張るならば、お前らが来るべき場所はワシの家やない、病院じゃ。
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