第2話 過去
金治の住む家は木造の平屋建である。もともと狩猟小屋として古くから山にあったものを一人で修繕・増築を繰り返し、広く造り変えて住居にした。手先が器用だった金治は不便に耐えながら生活と同時進行であれこれ手を加え、申し訳程度だった手洗い場に浴槽を持ち込み、屋根付きの脱衣所を作って風呂場にした。たったそれだけで生活環境は大分と様になり、次に大きめの炊事場と家の裏手に動物の解体場、洗い場、発電機、大型の冷凍庫などを順々に増やしていった。その後は、麓の村までは電線が来ていたこともあり、近隣の工務店に依頼して電柱を立てて電気を引き込んだ。人の手を借りずに静かな生活を送りたかった金治にとって、発電機駆動に伴う森の騒音が何よりのストレスだったのだ。
移住当初は獲物を捌いて切り分けた肉を貯蔵しておく冷凍庫の為だけに発電機を動かしていた。しかし年がら年中狩猟が行えるわけではないし、食料の備蓄の為にはどうしたって永続的な電力が必要だった。そう考えると自家発電で使用するガソリン代や、山道での往復運搬などで消費する時間と体力は無駄にしか思えなくなった。金治は孤独を求めていたが、原始に還ったような生活を送りたいわけではなかった。
居間へと足を踏み入れ、ぱっと明かりが点いた途端、可奈の表情が幾分和らいだ。山道には電柱こそ立っているものの街灯を置いていない。夕刻とは言えどこを見ても樹と枯れ葉しかない山を、親子はせっせと登って来たのだ。物事の道理が分かりかけている可奈にとって、今いる場所がどれ程不便で心細い立地であるのかは、それこそ肌身に感じる恐怖そのものだったに違いない。
金治は部屋の隅に積んであった座布団を千尋に放りなげ、
「使え」
と言った。横になるならそれを使え、という意味だった。
「ありがとう」
千尋は溜息混じりにそう答え、並べた座布団に娘の体を横たえた。可奈は初め、見知らぬ人間の前で無防備な態勢をとることに嫌そうな顔をした。だが千尋が可奈の頭を自分の膝に乗せてお腹の上に手を置くと、そのまま目を閉じてすぐに眠り始めた。
「ずっとここに住んでるんか?」
古めかしい部屋の雰囲気を確かめながら小声で千尋が問うと、
「何で来た」
息子の質問には答えず金治はそう尋ね返した。
「……」
千尋が視線を落とすと、
「追われてるて、誰にや」
とさらに金治は聞いた。
「……分からん」
千尋の返答に今度は金治が溜息をついた。
「けど、追われてることだけは間違いない」
「何の話や」
「カミさんが死んだ」
「……」
金治は目を細め、千尋を見据えた。卓袱台から煙草を取って側にあったマッチで火をつけた。「カミさんて」
「可奈の母親や、もちろん」
「病気か」
「殺されたんや」
「……なんでまた」
「分からん」
「……通り魔的ななんかか」
「違う」
「ほな何じゃ」
「とんでもなく、禍々しい何か」
「……」
それでか、と金治は音もなく呟いた。
金治は千尋が山を登って来た時から、男を自分の息子だと認識する前から、違和感のようなものを抱いていた。目で何かが見えたわけではない。だが、何か良くないモノの匂いを嗅ぎ取っていた。それは言い換えれば気配であり、息子と孫のそれとはまた違った異質なモノが二人の背後にうようよと漂っている、そんな気配だった。金治は昔からわけあって、他人の気配を読む術に長けていた。
「面倒やのぉ」
そう思ったものの、声に出すのはやめておいた。
「オカンから聞いてたんや」
「……何を」
「オトンがその」
「……」
「そういう世界で名のある、めちゃくちゃ力のある人間やったっちゅう話を」
「やめろ」
金治はそう言って、火をつけたばかりの煙草をもみ消した。「その話はするな。過去はとうの昔に捨てた」
「そやけどオトンが俺やオカンを捨てたのもそれが理由なんやろ?」
「やめえ言うとるやろ」
「……」
八十二とは思えぬ金治の気魄に千尋は黙った。だが、千尋にもまた引き下がれぬ理由があった。
「今更オトンのこと責めに来たわけやない。そんなことのために可奈連れてこんなクソ山奥まで来るわけないやろ」
「クソで悪かったな。三十年間ワシを生かしてくれた山やぞ」
「知るか」
千尋は気を吐き、きっと鋭い目で金治を睨んだ。「過去のこと問い詰めに来たわけやない。この際何で俺らを捨てたんかもどうでもええ。でももし、俺がオカンから聞いた話がホンマなら、助けてくれ。金が要る言うんやったら用意する。頼む。この通りや」
金治は答えず、じっと千尋の目を見た。よく見れば目元が若い頃の自分とよく似ている―――そう思った。
千尋は、金治が四十代半ばで出来た子であった。別れた女房である真白(ましろ)も当時三十代後半で、今でこそ珍しくもないが、当時はまだ高齢出産にはリスクが伴うと言われた時代だった。その分、無事に生まれて来た子供のことを心から愛そうと決めた……薄っすらとモヤのかかった記憶が、遠くの海でゆらゆら漂うのを金治は離れた場所から眺めている、そんな心境だった。
この山に移住を決めた時、金治は過去との決別を心に誓った。真白との別れも辛かったが、その辛さが揺るぎない決心へと姿を変えたと言ってもいい。金治にとって、家族との別れはただの別離とは違った意味を持っていた。だが、そこに秘められた真実を今ここで千尋に打ち明けた所で失われた時間は戻ってこない。十年前、金治はこの山の中で真白の他界を知った。もはや過去を振り返った所で、何ひとつ元通りには戻せないのだ。
「お前がここへ来れた理由は何や。オカアハンから聞いたわけやないやろ。あ……あいつもワシがここにおることは知らなんだはずや」
言った瞬間、金治の胸が震えた。真白のことをオカアハンと呼んだのは一体いつぶりだろうか。心を押し殺して生きて来たこの三十年の生活で、ただ一度だけ涙を流したのはその真白の死を知った時だけだった。だがその時でさえ、金治は声に出して「オカアハン」と呼ぶことをしなかった。
「オカンは知ってたよ」
「……何を」
「ずっと知ってたよ。俺も、せやから知ってた。そやけど」
「……」
「オトンは俺らを捨てたんや。その事実は変わらんし、居場所を知ってたから言うて会いに来たいとも思わんかった。だってオトンは、かつて『三界貫く矛』と呼ばれた戦前戦後最強の、殺し屋やったんやろ?」
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