爺-ジイジ-

沢瀉末三

第1話 再会


 京都盆地の西側、兵庫との県境にある山の奥深くにその男の家は存在する。終の棲家と決めて移り住んで来たのは三十年も前であるから、すでに地元の人間と言い張った所で誰も異論を差し挟んでこない。五十代で狩猟免許を獲って山に入り、シーズン中は猪と鹿を撃っている。罠の扱いにも長けているが、その代わり自分が食べる分以外に生き物を殺すことはせず、これまでも麓の村から駆除要請があった時だけ鉄砲を担ぐというスタイルを貫いて来た。そうすると、生き物の減る季節は食料が不足するため当然山から下りることを余儀なくされるのだが、下山後、冬から春にかけてその男がどこで何をしているのかは地元住民であっても誰も知らないそうだ。

 男の名前は山形金治、今年で八十二歳になる。地元民からは金爺と呼ばれ鉄砲の腕前を重宝がられているが、金治自身は決して愛想のいい男ではなく、普段から決まった付き合いがあるわけでもなかった。過疎化の進む山麓の村においては若手の流出も後を絶たず、金治がいかようにしてこの村に辿り着いたのかという経緯も、ほとんどの人間が忘れてしまったか、知っていた者も皆死ぬか出て行くかしてしまった。

 金治は馴れ合いを拒み、孤独を好んだ。偶然道端で人とすれ違っても頷くのみで声すら発さず、立ち話もしない。それでも村の古参連中から無頼扱いされずに済んでいるのは、ひとえに金治が山のてっぺんから降りて来ようとしないからで、これまで人様に厄介をかけたことは一度もなかった。連れ合いがいるわけでもない老齢の独り者が、それでも身なりを清潔にして人に不快感を与えずにいられることもまた、一部の人間から好まれる理由でもあった。

 ただ、顔色は常によくなかった。病を患っているということもないのだが、土気色というのか、決して発色のいい明るい顔ではないのも特徴といえば特徴であった。昔から金治に良くしてくれる村のご婦人方の間では、人付き合いが苦手で不器用な、それでいて母性本能をくすぐる影のある男、というどこかで聞いたような設定が早くから出来上がっていた。むろん金治には知る由もなく、実際には土イジリや山で撃って来た獲物の解体などでついた汚れや油が身体に染み付いただけなのだが、顔色の悪ささえ色気として捉えられていたのだから不思議なものである。つまるところ、付き合いは悪いが決して嫌われるような男ではない、というのがこの山形金治の人となりを表すのに最も適した表現であろう。

 そんな金治に問題が起きたのは、その年の十一月下旬のことだった。秋も深まり、今年もそろそろ下山の準備を、と考え始めた矢先だった。

 この時期はまだ山にも実りが多くあり、本来今頃からきちんと計画を立てれば越冬もさして難しくはなかった。そもそもフラフラ歩いて下山しても村まで二時間はかからない。すでに三十年過ごした山を下りるのに苦労はなく、例え厳しい冬の寒さに少々計画が狂った所で、麓に下りてしまえば何とでもなると分かっていた。だがこれまで、金治は一度もこの山で冬を越したことがなかった。

 所がだ。うなじにくっきりとした冷たさを感じたある日の夕刻、一人の男と小さな女の子が二人連れで山を登って来た。山というのは金治が住まう家へと続く山道であり、日の暮れかかるその時間帯に登ってくるのは急用を抱えた村の住人以外にはありえなかった。しかもこの頃村には、二十歳以下の男女は残っていなかった。

 村に住む旧知の女が偶然、親子のような二人組が山へ入っていくのを見かけ、不審に思って金治の家に電話をかけてきた。金治は報せを受けて感謝の意を述べたが、特段驚く様子でもなかった。

「知り合いけ?」

 と女が問うと、

「さあ、知らん」

 と金治は短く答えた。否定でも肯定でもなかったが、従来からこのような、感情にあまり起伏のない性格ではあった。やがて女の忠告通り、余所者の男と未就学児のような年齢の女の子が金治の家まで辿り着いた。金治が外に出て二人を待ち構えた時、手には猟銃を持っていた。

 男は両腕で女の子を抱きかかえており、激しく息を切らしていた。知らない二人組だった。

「なんじゃお前ら」

 金治が問うと、男は金治を見開いた目でじっと見据えたまま女の子を地面に降ろし、こう告げた。

「助けてくれ、追われてる」

「……」

 金治は目を細め、男の真意を推し量ろうとした。男の顔に見覚えはない。むろん男の太腿に縋り付く、疲れ切った様子の女の子も記憶にはない。金治がこの村の山へと入ってからというもの、正確な所は分からないが、おそらく四十代より下の世代とは顔見知りになってこなかった。男は丁度その世代に見えるが、最後に子供の姿を見たのでさえ記憶の遥か彼方であった。

「信じてくれ」

 尚も男は言う。出身までは分からぬが、口調にはこの辺り特有の訛りが含まれていた。

「どないしてここへ来た」

 金治は手の中の猟銃を左手で撫でながらそう尋ねた。「下の村を通ってきたやろ、ここの人間やないもんが偶然迷い込んで登って来れる場所やないぞ。助けを乞うなら下で言え」

「分かってる」

 と男は答えた。

「……誰ぞの紹介か?」

「いや、違う」

「ほななんや」

 金治は女の子を見やった。寒さと疲労から来るのだろう、哀れな程に青ざめ、震えている。しかし金治は緊張も警戒も解かなった。

「し、信じてくれ」

「阿保のひとつ覚えか。ここへ来た理由を言え」

「追われてるんや」

 男はやや語気を強めて右足を前に出した。

「動くな」

 金治は銃を構えた。「この距離で外す程耄碌しとらんぞ。そこのガキを盾にしたところでお前の頭を一発で吹っ飛ばせる」

「やめてくれ」

「ほな早よわけを言え」

「覚えてないのも無理ないわ」

 男はそう言った。「でも俺は覚えてる。あんたの顔を見た瞬間、情けない話やけど一瞬泣きそうになったわ」

「何を言うとるんじゃ」

「助けてくれ」

「……」

「頼む、助けてくれ、オトン」

 金治は猟銃を下ろして男を睨んだ。今一度足元の女の子を見つめ、そして男に視線を戻した。

「お前」

「俺はあんたの息子や。名前、覚えてるか?」

 金治は男の顔に見覚えがなかった。声にも聞き覚えはなかった。だが、記憶の海を泳いで近付いて来る、その子の名前だけは簡単に手繰り寄せることが出来た。

「お前、チヒロか?」

「ああ、オトン、久しぶりやな」

 突如現れたその男は、名を山形千尋と言った。金治が三十年前に捨てた息子が、今目の前に立っているのである。

「ほなお前、そのガキは?」

「俺の子や。オトンの孫や」

「ま」

「名前は可奈や。可奈、ジイジやぞ、挨拶せえ」

 千尋が子の背中に手を添えてそっと押した。しかし可奈は余程疲れがたまっているのだろう、利発そうなその顔に深い皺を刻んで涙を浮かべた。不安と、心細さもあっただろう。

「嫌や」

 可奈は泣いて父親の足に縋り付いた。


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