第45話 ~父と子~

「こうやってここで釣りをやるのも久しぶりだな、お前が中学の時以来か?」

「……あぁ」

「あの時はビックリしたなぁ、しょうもない仕掛けでデカい鯉が引っ掛かったんだからなぁ」

「……あぁ」


 昔と一切変わらない田んぼにほど近い川のそばで、俺はリールも付いてない簡素な仕掛けの竿をぼんやりと握り、微かな気配を感じては勢いよく上げて嘆息するを繰り返す。

 

 釣果は悪い。 人間のそれより鋭敏化した感覚は、間違いなく魚が食い付いたタイミングを知らせてくれるが、どうもアワセの瞬間に魚の口が引き千切られているようで、俺の周りには魚のパーツだけが散らばっていく。


「おいおいあまり乱暴にするなよ、魚が可哀想だろ」

「俺だって好きでやってるわけじゃない」


 あっちが脆すぎるんだと自分にとってはもっともすぎる理由を言おうとするが、寸での所で思いとどまった。 親父のみならず他の家族にも、俺の身体に起こった異変は一切知らせていない。


 ほんの最近まで死に瀕していたらしい親父と入れ替わるように、今度は俺が体内を蝕まれていると知ればまた面倒なことになるだろう。


「そんなことより、どうして俺を誘ったんだ? 本気で釣りに興じるつもりでもないだろ?」


 自分の話に手が及ぶよりも早く、俺が親父の真意へ踏み込むべく話を振ると、当の親父は嫌がる素振りを見せず、暫しの沈黙の後にボソボソと口を開いた。


「本当だったらこの川も、あの時の再開発に巻き込まれて様変わりするはずだった。 人生何が幸いになるか分からんものだ」

「……親父はあの時捕まった連中のことを知ってたか? 貴賓席でふんぞり返っていたカス共のことを」


 自分から率先して後ろ暗すぎる過去を語り始めたことを奇妙に感じながらも、俺はその話に乗ってやる。 何の思惑があるかは知れないが、この機会を逃せば二度と掘り返される事の無い話題であることを察し、ウキに向けていた視線を動かす。


 親の七光りのクソ野郎が安売りしてきた喧嘩を買い、たった一人でお偉方の遊び場を滅茶苦茶にしたことから芋づる式に発覚した、公僕や企業役員による大規模な人身及び薬物売買関与の事実。


 あまりに非現実的な内容に当初は陰謀論とも呼ばわれた事件は、一週間程度で大衆の記憶から消えた挙げ句、あらゆる証拠が現場となったビルごと根こそぎ無くなった。


 最初からそんなもの存在していなかったと、事件を知るものを暗に脅すように。


 当然親父にもいい覚えが無いようで、苦み走った笑みを浮かべたまま頭を振る。


「いいや、所詮私はただのしがない建設業従事者だ。 仮に私も主犯共の一人だったならば、少なくとも今ここにいないだろう。 あの時引っ立てられたまま消えた連中同様にな」

「あぁまぁ、言われてみれば確かにそうだ」


 実家から飛び出したあの日、俺が現場で見てきたものと全くそぐわない言い草で責められたことを思い出しながら、俺は餌を付け直した仕掛けを再び川に投ずる。 同類の身体がズタズタにされていることにも気付かず、餌に群がる雑魚共の元へ。


「強情だな、釣れないなら釣れないなりにのんびりやればいいだろう」

「俺は諦めないよ。 このまま成果ゼロで帰ったら、リーリアはともかくみひろから散々に煽られるだろうからな」

「そうか」


 何が何でもボウズだけは避けようとトライを繰り返す俺とは対照的に、親父は仕掛けをピクリとも動かなさない。 既に餌など取られているであろうにも関わらず。


「親父?」


 何か様子がおかしい。 そう思った俺は咄嗟に首だけを親父の方へ向け、俯き加減だった顔を覗き込もうとするが、逆に相手の方から手を出され反射的に首を引っ込めた。


「どうしたんだよ黙り込んで」

「良い機会だと思ったんだが、いざ切り出すとなるとビビっちまってな。 ……なさけない」

「いいよ、待たされるのには慣れてるから」


 らしくもなく額から汗を零し、怖々と表情を強張らせる親父を別に急かすことなく、俺は微かに動くウキを睨みながらただ待った。 忌まわしい過去の檻から踏み出そうとする親父の決断を。


 実際には数十分であるにも関わらず、感覚的には数時間流れたと誤認するほどに重苦しい沈黙の中、親父は何度もみっともなく手汗を拭う。


「……」


 家を飛び出したあの日、暴虐の限りを尽くした俺に今向けられている感情は恐怖か?それとも屈辱か? あの日のあの瞬間に限っては加害者だった俺に、親父の気持ちはまったく分からない。


 確実に分かるのはただ一つ。 親父があの日の後悔を清算しようと、勇気を振り絞っていることだけ。


 やがて、親父は今まで放置しっぱなしだった竿を川縁にそっと置くと、ポツリポツリと零し始めた。


「……私は病に伏せるまでずっと、周りの目が恐ろしくて仕方がなかった。 いつ誰が私を蹴落として恥をかかせようとするのか、気が気でなかったんだ。 自分という存在を意識してから、社会人として身を立て、お前がお偉方の身代わりにされた時もずっとそう考えていた」


 静かに語る小さな背中の向こう側にかつての強い父の面影は無く、俺は言葉を遮って責めるような気も起きない。


「どうすれば誰にも馬鹿にされないのか、足掻いて藻掻いて当たり散らし続けて、気が付いたら私の周りには誰もいなかった。 己の血を分けた子供らすらも。 なぁレイジ、何故こんなことになってしまったんだろうな私は」

「そんなこと俺に言われたって分かんねぇよ。 ……でも今は、また取り戻せたんだからいいじゃないか。 俺と顔を合わせるため、疎遠だった兄貴に頼み込んで間に立たせたのは、他ならぬ親父自身なんだろ? 周りの目じゃなく、自分の意志でみっともなく必死になってさ」

「……!」


 俺が何気なく返した言葉にハッと顔を上げ、またゆっくりと俯く親父。 だがその表情は先ほどまでのマイナス感情の坩堝ではなく、重い荷物から解き放たれたように清々しく和やかなものだった。


「ほら、まだまだ日は長いんだからさっさと仕掛け投げなよ。 ボウズで帰ったらそれこそ母さんにも笑われるぞ」

「……そうだな。 お前より一匹でも多く釣ってリーリアさんにお前の親父だってことを見せてやる」

「なんだよそりゃ」


 何故そこであの子のことを引っ張り出されなければならないのかと、思わず俺は顔を顰めてウキの辺りを再び睨み付ける。


 子供の頃に聞いて以来ずっと忘れていた、親父の控えめな笑い声を聞きながら。

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