第10話 ~神の囁き~
「やだ……寝ちゃってたのね……」
レイジの帰宅を見届けた瞬間、気絶するように眠っていた朗らかな乙女は数時間後、何事も無かったかのようにむくりと身体を起こした。 命のやり取りを日々繰り返しているせいか、彼女の意識は微睡みから一瞬で澄み切ったように明瞭になる。
そして目覚めて早々、いつのまにか暗くなっていたレイジの部屋へ視線を向けると、囁くような声で呼びかけた。
「レイジ君? そこにいるの?」
せっかく顔を合わせたのにまた居なくなってしまったのかと、リーリアは少し寂しげに顔を俯かせるが、暗がりの中から微かに聞こえてきた寝息を聞いて胸を撫で下ろす。
仄かに赤い常夜灯の輝きのもと、幾日にも渡る尋問で疲れ果てたレイジが胎児のように丸まって眠っている。 四肢を投げ打って豪快に眠っていたリーリアとは対照的に、その無愛想な男が立てる寝息は、何かに怯えるようにとても小さい。
「…………」
ただ、眠るにしてはあまりに弱々しく見える姿に、リーリアは思わず強い不安感を覚える。 もしレイジが起きていて直に言葉を伝えられたのなら、間違いなく苦笑と共に問題ないと告げられただろうが、彼女の意識に刻まれた常識で照らしてみれば、決して楽観視することは出来なかった。
男が完全な大人になる前に死に絶えることが常な世界で生きている彼女に取って、レイジが突然不在になっていた事実は、無意識のうちに強い不安として彼女の心にのしかかっていた。
「レイジ君、本当に大丈夫?」
お節介なことかもしれない。 でも少なくとも自分はこのままでは納得出来ないと、リーリアは境界を超えることも厭わず手を伸ばす。
「あっち側を荒らし回るわけじゃない。 ちょっとだけ、ちょっとだけだから……」
だから神様、ここを通ることを許して欲しいと、リーリアは見たこともないとても偉い存在へ思わず祈った。
……その瞬間、今度はリーリアの意識が真っ白な空間へと飛ばされた。 レイジを拒絶した圧倒的存在が潜んでいた、無限に続く謎の空間へと。
だが、そこで彼女が相対したのはレイジを拒絶した巨木では無く、途方も無く巨大な蒼い星。
レイジが住まう世界の住人が、地球と称する物体を模した謎の存在。
「綺麗……、これが神様なの?」
訳の分からない空間に引き込まれたことも忘れ、リーリアは眼前で揺蕩う巨大な青玉にしばし見惚れる。
しかし、その美しい存在の内側より発せられた無感情な声が、彼女の意識を脅すように揺らがす。
――全てお前が選択しろ、賤しく咲いた血染めの百合よ。
「……っ!」
背筋を震わすほどに冷徹で無感情な言葉。 それから逃げ出すようにリーリアは意識を取り戻すと、思わず息を呑んで咄嗟に体勢を低く構えた。
「ここは……どこ……?」
周囲に存在して当然である魔力の流れを一切感じられず戸惑いを抱くも束の間、足下に散らばっていた物や風景が門越しに見慣れたものであることに気が付くと、リーリアは無意識のうちにアッと声を漏らす。
「ここはレイジ君が住んでいる部屋。 ということは私、今違う世界にいるのね?」
誰に見られているのかも分からぬ為、リーリアは念のために全てのカーテンを音も無く閉めると、獲物の死角に回り込む時のように歩を進め、微かな寝息が聞こえるベッドの付近に腰を据えた。
彼女の目の前には、何も知らず平和に眠りこけているレイジの姿がある。
「本当にこの世界の人は無防備なのね、それで問題無く生きていけるくらいに。 ……羨ましいな」
もし自分の世界にやって来てしまったら長くは持たないだろうと、呆れ半分羨望半分に呟きながら、リーリアは慈しむかのようにレイジの寝顔を眺め続けた。
だが、成人を迎えながらも未だ誰も殺そうとせず、知性と理性を保ったままの男がすぐそばにいる事実は、彼女の無意識下に封じ込められていた記憶を本人の知らぬ間に解きほぐし始める。
「お父さん……」
思わず呟いたリーリアの脳裏で連鎖的に甦ったのは、まだ孤独では無かった幼く幸せだったころの記憶。 脳を食む寄生植物に身を蝕まれる以前の父と、怪物と化した父に撲殺された母の仲睦まじい後ろ姿。
決して拭い去ることの出来ない記憶の楔が、過去の痛みから逃れようとする彼女の心を酷く膿ませ、爛れさせた。
「お父さん……お母さん……、……うぅ」
「あぁ誰だ? ひとんちに勝手に上がり込んでなに泣いているんだ?」
「!!!」
堪えきれず悶えるように洩れたリーリアの言葉。
それを聞きつけてレイジが目を覚まそうとしてしまう。
「あ……あ……」
勝手に何者かのテリトリーに飛び込むことは宣戦布告に他ならない。
長い間猟師として生きて来たリーリアに取ってそれは本能として染みついており、レイジが完全に覚醒してしまう前の逃亡するという形になって現れた。
「あああううう!」
窓越しに何か訊ねられることを恐れて、リーリアは自宅の扉を蹴り開けると勢いそのままに闇の中を疾走する。
何故こんなことをやってしまったのかは彼女自身も分からない。 しかし、心の中でふつふつと煮え始めた感情の渦が、完全にリーリアの平静さを奪い突き動かしていた。
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