第3話 讃岐
この男の名前は『コニシ』という。大学在学中に家庭教師のアルバイトをしたことがきっかけで、卒業後は学習塾の講師となった。子供たちに勉強を教えるのが大好きな26歳だ。コニシの働く塾は小学生を対象としている。初めは、彼は教えることが楽しかった。生徒たちに恵まれていたのだろう。みんな、明るくて素直で、真面目に勉強をしてくれていた。授業の内容は、学校の勉強の復習の手伝いをするようなものだったので、クラスの雰囲気はゆったりとしていて、おっとりとした性格のコニシには合っていた。
しかし、昨今のお受験ブームにより、コニシの働く塾は方向転換を迫られた。生徒を確保するために、有名私立中学に進学することを念頭に置いたクラスを大幅に増やすことになったのである。受験を手助けするだけならば、彼にとって何の問題もなかった。厄介だったのは、熱心すぎる親御さんたち。何とかして、自分の子供を最難関校に入れようと躍起になっている。勉強時間を増やせば、塾に毎日通えば、絶対に合格する筈だと信じている。コニシが「最難関校にこだわらず、子供さんの性格に合った校風の学校を選んだ方が良いのでは…」と提案してみても、聞く耳を持たない。それでも、子供たち自身にやる気があるのならまだマシだ。もっと困るのは、親の言うことに納得出来ないまま、何とか期待に応えたいとフラフラになってまで無理をする子供たちが少なくないことだ。塾としては、授業料が払われるので、生徒たちがいくつかの講義を掛け持ちすることは喜ばしいことだ。でも、心優しいコニシにとって、追い詰められている子供たちを見るのはとても辛いことだった。塾と生徒たちとその親御さんにどう接するべきかわからなくなり、コニシの心は沈んでいった。
そんな時、コニシは狐の面を手に入れたのだ。もともとお面に興味があった訳ではなかった。ある日、散歩をしていたら、たまたま通りかかった古道具屋に、その狐の面が飾られていた。何気なく店の中を覗いた時、狐と目が合った。すると、彼はその狐から視線を外すことが出来なくなった。狐も射るように彼の瞳を見つめてくる。彼は、引き寄せられるように店に入り、その面を購入した。高価なものではなかったが、精巧に彫られていた。まるで生きているよう。
帰り際に店主がこう言った。
「あなた、お面をそんなに見つめてはいけませんよ。これと一緒に暮らすなら、用心なさった方が良い。これは、古くて良い物ですからね」
この言葉を、コニシはあまり聞いていなかった。
その日から、コニシは毎日、狐の面を被った。この面を着けると、心が強くなるような気がした。面を着けている時間も日に日に長くなり、とうとう、家にいる時は常に面を着けていなければ気が済まなくなった。食事の時も外さない。上にずらすだけ。お風呂の時も外さない。どういう訳か、湯気にあたっても、お湯に濡れても傷んだりしなかったのだ。眠る時も外さなかった。
家で狐の面を被るようになってから、コニシは性格が変わった。穏やかに話す優しい青年だったのに、目つきが鋭くなり、語気が荒くなった。子供たちのことなんてどうでも良くなっていた。狐の面を被ると、心が強くなるような気がした。
「このコニシという男は、今、危険な状況に置かれているのだ」
父上が重々しく言った。
「コニシの弱った心に付け入るように、あの面はやって来たのだ。あれには魔が宿っている。そんな物を毎日身に着けていたらどうなると思う?彼の人間性は、魔に乗っ取られてしまう。それは避けなければならない。今なら間に合うのだ。緋呂狐、お前に、あの狐の面を破壊して欲しい。コニシが面を外している時に、彼の目の前でそれを割るのだ。お前なら出来る」
責任重大…。私には無事にやり通せる自信がない。父上は絶大なる力をお持ちなのだから、父上が破壊するのが1番確実なのではないかと思うのだが。
「緋呂狐、父の魔力で壊しても意味がないのだよ。コニシの留守中に忍び込んで破壊しても同じことだ。そんなことをしたって、コニシはまた新たな面を手に入れるに違いない。魔を宿した面は、喜んで彼の目の前に現れるだろう」
「でも、コニシは家にいる時はいつも面を着けているのでしょう。被っている時に、面だけ破壊するというやり方ではいけないのですか?」
「そんなことをしたら、彼の心まで壊れてしまう。いいかい、緋呂狐。外した面を彼の目の前で粉々にすることが肝腎なのだ。彼自身が、面を失うことに納得出来ているか否かが重要なのだよ。大丈夫。あの男に面を外させる手段は考えてある。我ながら、惚れ惚れするようなエレガントな作戦だよ」
さっきまでの重苦しい雰囲気はどこへやら…。父上は何だか楽しそう。父上、あなたは、一体どんな秘策を私に授けて下さるのでしょうか?
「うどんだ!」
はっ…?父上が誇らし気にのたまう。うどんって…。私にはおっしゃる意味がわかりません。
「コニシはね、うどんが大好きなのだ。中でも、キツネうどんには目がないのだよ。緋呂狐、人間界の食べ物に詳しいだろう?お前がうどんを作って、コニシに届ける。そして、彼がそれを食している隙に、面を葬る。どうだい。洒落たやり方だと思わんかね?」
「でも、コニシは食事の時も面を外さないのでしょう?」
「大好物のキツネうどんなら、きっと外すさ。緋呂狐、とびっきり美味しいうどんに仕上げておくれよ」
そんな…。私、料理なんてあまりしたことがないし。面に取り憑かれているコニシが、それを外したくなるようなキツネうどんなんて、作れるはずが…作れるはずがありませ…ありま……。
その時、自分でも信じられないような自信が、心の奥底から湧いてきた。ものすごい勢いで、その自信は確信に変わり、私はこう宣言していた。
「お任せ下さい、父上!コニシのほっぺが落ちてしまうような、最高に美味なキツネうどんを調理してみせましょう」
そう言うや否や、私は、厨房に向かった。父上、母上、狐太郎、そしてコンちゃんまでが、私の後を追って来た。
まずは、麺から取り掛かります。今回は、強力粉と薄力粉を半々の分量で混ぜて使いましょう。お粉をふるいにかけて、食塩水を入れて混ぜます。粉と水分をよ〜く馴染ませて生地をまとめます。そしたら、こねて、こねて、こねて。まとめて、こねて、こねて、こねて。コニシの好みは讃岐だから(彼の好物がうどんと聞いた瞬間にわかりました)生地を踏みます。それっ!
「緋呂狐、何をしているの!!食べ物を踏みつけるなんて!!」
母上が仰天している。無理もない。彼女は、筋金入りの箱入り娘だったのだから、人間界のうどんという食べ物には馴染みがないのだろう。
「母上、これは正当な作法なのですよ。讃岐のうどん職人たちもやっています。麺にコシを出すための作業です。なかなか力のいる工程ですよ」
「僕もお手伝いしたいよ〜」 ありがとう、コンちゃん。
「僕も踏みたいな」 よろしく、狐太。
「父もやってやろうじゃないか」 楽しんでますね、父上。
「私も仲間に入れて」 あのおしとやかな母上までも…。
では、麺は皆さんにお任せして、私はお出汁を取りましょう。お鍋に水と昆布を入れて、30分ほど放っておきます。
皆さん、踏み作業はもうそのくらいで大丈夫ですよ。ありがとうございました。生地をまとめて休ませますね。
昆布と水の入った鍋を加熱します。沸騰しないように気を付けて弱火でゆっくり10分間。沸騰直前に昆布を取り出し、弱火のまま加熱して1度沸騰させたら、差し水をして、かつお節を加えます。沸騰しないように中火で1分、それから弱火にして、アクを取り除いて火を止めます。かつお節が沈んだら、ザルで濾して、上品な出汁の完成。そこに、ちょっぴりお醤油を加えたら、うどんのおつゆが出来ましたよ。そのおつゆで、厚めの美味しそうな油揚げを煮ます。たっぷりとつゆを含ませふっくらと仕上げますよ。
それからうどん生地を伸ばして、たたんで、切ります。細すぎないように、讃岐らしい太さになるように。なかなか上手くいってるわ。そして、沸騰したお湯に入れて麺を茹でる!湯切りをしてどんぶりに入れたら、おつゆをかけてお揚げを載せて、キツネうどんの出来上がり。
さあ、コニシ、召し上がれ!
いつの間にか、私はお盆を持ってコニシの部屋にいた。お盆の上には、出来立て熱々のキツネうどんの入ったどんぶりが載っている。彼の部屋は空気がぴりぴりと張り詰めて、殺気立って居心地が悪い。でも、彼がうどんの匂いに気が付くと、少しづつ雰囲気が和らいできた。どんぶりを彼の目の前に置く私。それをじっと見つめるコニシ。
コニシはうどんの匂いを確かめるように、鼻から深く息を吸い込んだ。そして、おもむろに面を外すと、それを自分の右側に置いた。あれ、この人、うっすらと笑っている。小さくいただきますの合掌をするコニシ。お行儀が良いのね。それから、どんぶりを両手に持ち、おつゆを少し飲んだ。次に、お箸を手に持ち、麺をすすり始めた。私のおうどんは、どう?美味しいですか?
コニシは黙々とうどんを食べている。おつゆを飲み、お揚げをつまむ。そして、私は、狐の面を引き寄せた。狐の眉間に
えいっ!
パン!!と乾いた音をたてて面は真っ二つに割れた。その時、コニシの両目が赤く光って私を見据えた。一瞬、怯んだが、私も負けずにコニシを睨みつけてやった。しばし視線をぶつけ合うコニシと私。すると、次の瞬間、ふたつに割れた狐の面は粉々に崩れていき、フッと消えた。それと同時に、彼の目から赤い光が消え、優しそうな青年の顔になった。彼は、実に美味しそうに、楽しそうにキツネうどんを食べ続けた。
ふと気が付くと、私は庭に立っていた。父上が満足気に私を見つめている。
「緋呂狐、よくやった。コニシは元の善良な青年に戻ったね」
「でも、父上、コニシの問題が全て解決した訳ではないのでしょう?生徒さんの両親の意識が変わらない限り、彼の元にはまた魔が忍び寄ってくるのではないかしら」
「心配いらないよ、緋呂狐。今回のことで、コニシは学んだのだから。心が疲れた時にはキツネうどんを食べること。そうしたら元気が出ると。それに、生徒たちの親御さんも、もう彼に無理難題を押し付けることはないだろう。彼の言う事に耳を傾けるようになるさ」
そんなに上手くいくかしら。私は、コニシが責め立てられている様子を想像して胸を痛めた。
「大丈夫さ!これまで、彼の言動が軽んじられてきた理由がわかるかい、緋呂狐。それはね、彼が若くて優し過ぎたからなのだ。要するに、頼りなさそうな先生と思われがちだったんだよ。でも、今回、魔に取り憑かれたために、彼の立ち振る舞いに重厚感が増した。だから、この先生の仰ることはもっともだ…と感じてもらえるようになるだろう。みんな以前よりも丁寧な態度で接してくるに違いない。ぬはははは」
父上が高らかに笑う。何故かコンちゃんまでもが、ぬはははは!と笑っている。それにつられて私も前向きな気分になってきた。そうね、きっと大丈夫ね、コニシ。
「さあ、私たちも緋呂狐の作ったキツネうどんを頂きましょう」
母上がワゴンを押しながら庭に現れた。その上には、キツネうどんが盛られた5つのどんぶりが載っている。自分で言うのも何だけど、とっても良い匂いがしている。美味しそう!大好きな美しい庭で、大好きな人たちと一緒に食べると、きっともっと美味しく感じるね。
※「手打ちうどんの作り方」と「出汁の取り方は、レシピサイト「クラシル」を参考にしました。
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