第2話 庭

 扉の向こうには、仄暗い道が続いていた。幼稚園に通っていた頃、コタロー君と一緒に歩いたこの通路。私はとうとう見つけられなかったけれど、ずっとここに存在していたのだ。10年の時を経て、私は今、狐のコンちゃんと共にここを歩いている。

「ヒロコちゃん、暗いから足下に気を付けてね。もうすぐ庭に着くからね」

 わかってる。小さい頃に散々通った道だもの。だんだん灯りが近づいて来た。庭が近づいて来ている証拠だ。狐の姿をしていたコンちゃんは、いつの間にかヒト型に変身していた。狐の姿のままだと魔力が溢れ出てきちゃって疲れるからね。だから、普段はみんなヒト型で過ごして、力を制御しているんだもんね…って、どうして私はそんなことを知っているのだろう?

「ヒロコちゃん、着いたよ。ここに来るのは久しぶりでしょ」

 先を歩いていたコンちゃんが、振り向いて私にそう言った。わぁ、すごい。庭には一面にツツジが咲き誇っていた。赤、白、ピンクに赤紫…色とりどりで美しい。そうだ。この花はこんなにも甘く強い香りを放つのだ。私は、その事を知っている。

 ツツジを背にして誰かが立っていた。あれは…あれは、白銀しろがねに輝く狐の棟梁、魔界のキツネ族の頂点に君臨するお方。そして、棟梁の左隣におられるのは奥方さま。

「ツツジの時期はまだ少し先ですよ、父上」

「良いではないか、ヒロコ。いや、緋呂狐ヒロコ。お前の好きな花だろう。元気そうで何よりだ」

「会いたかったわ、緋呂狐。背が高くなったのね」

「父上も母上も、相変わらず輝いておられて嬉しいです」

 そうだ。私は、狐の棟梁の娘、緋呂狐ヒロコだ。人間の暮らしや考え方を知って欲しい、という両親の方針で人間界に留学しているのだった。そして、棟梁の右隣に立っているのはコタロー、いや狐太郎コタロー。私の双子の兄だ。

緋呂ヒロ、久しぶりやな。皆さんお変わりないやろか」

狐太コタ、元気そうやね。うん、早瀬家も滝川家もみんな平和に暮らしとるよ」


 私は、今再びこの庭に辿り着くまで、自分が魔界キツネ族の一員であること、棟梁の娘であること、狐太郎とは双子の兄妹であることを全て忘れ去っていた。幼稚園の頃は、そのことをきちんと覚えていたのだろう。狐太郎と一緒に定期的に庭に戻って、父上と母上に会っていたのだから。私の記憶が失われたのは一体なぜなのだろうか。

「悪かったね、緋呂狐。それは、まぁ、手違いがあってね」

「父上、手違いってどういう事ですか?私、誰も存在を知らないコタローのことを聞いて回って、ちょっと白い目で見られた時期があったのですよ」

「狐太郎が人間界を去る時、人間界における狐太郎の記録、記憶の類を全て消す必要があったのだ。ただ、それは人間の記憶だけ失くせば良かった。緋呂狐の記憶はそのまま残しておく予定だったのだがね…」

 父上は、頭を掻きながら苦笑いを浮かべて狐太郎の方を見やった。狐太郎も、決まり悪そうにモジモジしている。一体、何なの?はっきりして下さい。重い口を開いたのは狐太郎だった。

「父上がね、僕に許可して下さったんだ。人間の記憶を消す魔力を自分で試してみなさいって。もう、嬉しくなっちゃってさ。張り切って力を振り絞ったんだよ。そしたら、人間界の記録や記憶は綺麗に消せた。完璧だった。でもね、ちょっと加減を間違えたらしくて。緋呂の記憶がまだらになってしまった。ごめんっ」

「だったら、どうして、父上が手直しして下さらなかったの?」

 父上が、うつむいて小石を蹴っている。ちょっと、キツネ族のボスなんですから、もっと堂々として下さいよ。

「むむむ…。緋呂狐の記憶が根こそぎ消されたのならば、手直ししなければと思うよ。お前が留学を終えてこちらに戻って来る時にややこしいことになるだろうからね。でも、今回はコタローのことや庭で遊んだことは覚えていたから…。狐太郎が初めて挑戦した大きな魔力だったから、そのままにしておきたかったんだよ。親心だよ。ぬはははは」

 父上は、笑って誤魔化そうとしている。いつもそうだ。『白銀しろがねに輝く狐の棟梁』と魔界で一目置かれる存在でありながら、普段の振る舞いはとってもお茶目で軽いのである。もちろん、いざという時には、皆の者を震え上がらせるおキツネ様となられるのだが。深い深いため息を吐かずにはいられない私であった。


「もう、それくらいにしておあげなさいな、緋呂狐。そんなことより、このを紹介しなければね。会うのは初めてでしょう?」

 母上は、ニコニコと可愛く微笑むコンちゃんと一緒に、私の目の前にやって来た。

「初めてだけど、名前はもう知ってますよ。ここまで連れて来てくれましたから。でも、どちらのなんですか?」

 すると、父上がとろけるような笑みを浮かべて答えた。

「このはね、このコンちゃんはね、お前のお…」

 その瞬間、コンちゃんは父上の足を思いっきり踏んづけた。あぉぅ…!と父上が顔をしかめて飛び上がる。これには私も驚いた。さすがに父上の雷を喰らうのではと心配になったが、そんなことにはならなかった。コンちゃんは父上を睨みつけ、父上は涙目で足をさすり、母上と狐太はニヤニヤしている。何だこの状況?お咎めなしですか!?

「いててて…。コンちゃんは、お前のぉ…母上の遠縁の狐だよ。今、行儀見習いとして、我が家で預かっているのだ。いてて…。緋呂狐も仲良くしてやっておくれ」

「改めてよろしくね、ヒロコちゃん。会うのをとっても楽しみにしてたの」

 クスクス笑いながら、コンちゃんはそう言った。こちらこそよろしく…と言いながら、家族がこの狐にとっても甘い理由がわかる気がした。元気で朗らかで愛嬌たっぷりで、何だかとっても可愛い。この狐がいてくれると、家の中が明るくなるんだろうなぁ。


「ところで、緋呂狐。今回お前を迎えにやったのには訳がある」

 父上が、改まった調子で切り出した。何だろう。ひょっとして、留学を終了させてこちらに戻って来い…ということなのだろうか。

「いやいや、そういうことではない。予定通り、大学を卒業するまで『早瀬ヒロコ』として人間界で暮らせば良い。実は、困った事が起こってな。緋呂狐、お前の力を貸して欲しいのだ」

 私の力?私は、まだらの記憶で人間界に留学中の平凡なキツネ族。今の私には、父上を助けられるような魔力は備わっていないはず。それなのにどうして?一体、私に何が出来るというの?

「お前にしか出来ないことなんだよ、緋呂狐。まずは、これを見てくれ」

 父上はそう言って、庭の泉に1人の人物を映し出した。それは20代と思われる若い人間の男で、顔に狐の面を着けていた。

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