第2話 パートナー

「ミホ、パンクでもしたの? それ、何? かごの……」

 自転車を押しながら学園へ向かう途中、偶然出会ったヒカコがいぶかしげに聞く。

 それはしかたがない。だって、自転車のカゴから今にもこぼれ落ちそうな大きいポリ袋を載せ、そのポリ袋の中には水を入れ、黒い塊が袋の中でプカプカ浮かぶ。

「バランスを取るのが難しいから自転車を押してんの」

「ああ、そういいうことね。そのゴミ袋の中にいるのがミホの怪物ちゃん? 」

 ヒカコはポリ袋に顔を近づけ、首をかしげながらいう。

「ポリ袋! ゴミじゃない。オタマが入っているのはポリ袋」

「オタマ?」

 ヒカコは目を丸くしながらいった。「なんか文句でもあるの?」私が丸くなった目に向かって勢いよくいう。

「え、オタマ? オタマジャクシ……だから? 金魚すくいでもしてきのかと思った。おたまじゃくしの金魚すくいは大ハズレね」

「大当たり! ね、オタマ」と何故かムキになる自分に驚きなら、手足に力を込めて自転車を押す。

「ミホ、ミホ。ごめんって。ね」

「オタマに聞いて。オタマ大激怒してるから」そういいながら私は決して自転車の押す速度を緩めることもなければ止めることもしない。

「ごめんね。オタマ。馬鹿にして。ごめん」とポリ袋にヒカコが歩きなが呟く姿を見た私は許してやってもいいかもと思い始めたが、ヒカコはポリ袋の正面で笑みをこぼす。それを私は見逃さなかった。

 ブレーキを握り締め、自転車を止める。

 「ちょっと待ってよ。だ、だって。オタマが――」そいうとヒカコは口に手をあてて、また笑う。理事長の孫娘ということを一瞬思い出させるような上品なしぐさ。品の良さは怒りに油を注がれるようだった。

 そんなにポリ袋に入ったオタマが面白いのだろうか。お嬢様の笑いのツボに戸惑いつつも、笑いものにされたオタマの様子を覗き込む。

 オタマは袋の中から真ん丸の白い眼を開き、人間のような白い歯と血行の良さそうな歯茎を剥き出し、自慢するように見せつけていた。

「こ、これ、これはね、オタマ、相当怒ってるからね」なんとか私は笑いの波を堪え、オタマの威厳を保とうとする。

「あ、ご、ごめん。水の中でしかこの子は生きていけないの?」

「違う。手で持って通学しようと思ったけど……オタマの体……なんか、ヌメヌメして……無理だった」

 一瞬、ヒカコの口角がヒクヒクと動いたように見えたが、目は真剣なもので、笑ったかどうかを確認する空気ではない。

「え……と、見つかった? 逃げた兎は見つかった?」

「……兎だから大丈夫よきっと」

「そんな、自分のパートナーが問題を起こせば自分の評価にも影響するのに……」

「ウサギだから大丈夫よきっと」

 これがお嬢様の余裕か。

「それより、今日はどうしたの?」私はヒカコの質問の意味が分からなかった。

「どうしたって? 今日は普通に授業があるでしょ……」

「ミホ、メールみてる?」

「見てないよ。だって注意事項や生活態度についてのメールが沢山来るからさ……」

「休校よ……今日……」

「え。今日も、休校? 2日続けて……異常じゃない」

「そうね。でも仕方がないわ。決まったことだから。私は図書館に勉強をしにきたの。図書館は使用可能なのよ。ミホも勉強かと思ったけどね……」

「まだ勉強は……授業が始まってから……じゃ、帰るね、勉強頑張って」

「気を付けてね」そういってヒカコは笑顔で私に手を振る。何故か爽やかな気持ちになってきてしまう。

 怪物に逃げられているヒカコの余裕を少しは見習いたい。

 突然の休みに何をしようか考えながらしばらく自転車を押し、学園の姿が遠くになる。

「もう、喋ってもいいよ」

「私はオタマ……オタマなのか」第一声が名前の不満を漏らすオタマ。

「そう。もうあきらめて、あなたはオタマ。昨日の夜決めたでしょ」

「ああ。私はオタマ。人前では喋らない」諦めたようにオタマはいう。

「うん。他の連中は全員ライバルだから、こちらの情報はなるべく与えないようにしないと」

「私は君に従う」

「ええ。そうして。あと、体のヌメヌメはなんとかならいの?」

「ヌメヌメはしていない」

「してる。手に付いたヌメヌメは三回洗わないと取れないくらいしてる」

「……」

 

 

 掲示板の書き込みを思い出す。ひとの言葉を理解する怪物とは仲が深まると互いの記憶を見ることができる、と書き込みがあった。

 

 もしも、私の願いが知られたら。


 

 お爺さんが浴槽でオタマジャクシを飼っている。そのオタマジャクシは近所の川が増水したときに、陸地に飛び出した不幸なものだった。

 今にも死にそうなオタマジャクシを散歩の途中に拾い上げ、浴槽で飼い始めたお爺さん。


 継ぎはぎされたような映像が頭に流れる。まるでお爺さんとオタマジャクシの記憶が混ざったような。


 ある日、お爺さんがシャワーを浴びている。お爺さんの体は痩せ、皮膚には張のひとつもない。

 骨と僅かな筋肉がその体を動かしているように見えた。シャワーを浴び終えたお爺さんが「旨いか」とオタマジャクシに聞きながらパンの耳を与えていたが、その途中で目をぎゅっと閉じ、胸を押さえて、頭から上半身を叩きつけるように浴槽に浸かる。

 お爺さんが口から幾つかの泡が出すとそれっきり、動かない。


 オタマジャクシは。

 数日は最後にくれた、ふやけたパンを食べた。

 お爺さんが起き上がるのを待ちながら。

 オタマジャクシは。

 それから数日は浴槽の中のパンの残りかすを探した。

 お爺さんは動かない。

 オタマジャクシは。

 その日はお爺さんの髪をかんだ。噛み切れない。

 オタマジャクシは。

 その日は、お爺さんの耳たぶを食べた。少し硬い。水が濁る。

 オタマジャクシは。

 もっと柔らかい場所を探す。唇。歯茎。すぐになくなる。

 

 怪物は。

 お爺さんの目を食べた。固い。眼球の周りの肉は柔らかい。

 さらに奥、奥へと向かう。柔らかい場所を求め、脳みそにたどり着いた。

 怪物は脳みそを食いつくすと、噛めない頭がい骨の中で彷徨う。

 幾日、ようやく外に出た。頭蓋骨を噛み砕いて。

 体はサッカーボールくらいに膨れ、人のような歯が生えていた。満足したかのように歯と歯茎を剥き出す。


 赤茶色に染まった浴槽。記憶の最後。



 

 月の灯りが部屋を照らす。どうやら悪質な夢だったらしい。背中には汗をかいてTシャツが張りつく。のどの渇きは感じるが、今は何も口にできる気がしない。

 ベッドの脇には場違いの木製の桶が存在感を放つ。その桶には水に浮かぶオタマが居る。それはみて少し安心した。

「オタマ……もしかして、私の願い……私が見えたとしたら……オタマも……私のこと……」横になった私はオタマに聞こえなくても構わない気持ちで微かに呟く。

「なんだ?」

「えっ起きてたの……いや……あのね、私が……パートナーでよかった?」

「ああ」

「そっか。よかった……」

「卒業したら君はどうするんだ? 学園生活はあっという間だからな」

「卒業……したら……進路……何も浮かばないな……」

「私を客寄せにして金魚すくいでも始めるか?」

「いいね、でも。誰かにオタマがすくわれるのはやだ」

「その時は網を食い破るさ」

 オタマはそういうと歯と歯茎を剥き出しにする。

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