私達は出逢う
私は、宇佐美夏海。二十五歳で県立病院内で精神科医をしている。
まだまだ新米だけど、院内での評判は悪くはないらしい。
「はい、内山君。この患者さんは今日から貴方にお願いするわ。」
私は手に持っていたカルテを看護師の内山慎二君に手渡す。
「わかりました、きちんと引き継ぎます。」
不平不満を微塵も言わずに、内山君は素直に頷きカルテを受け取ってくれた。
仕事の引き継ぎをするのは何時も緊張してしまう。宇佐美さんは、物怖じしないですねって職場の皆は言うけれども、遠回しに突っぱねられやしないかと内心ドキドキなのだ。
(職場の人達、皆優しくて、居心地最高!みんなに感謝しながら、今日も仕事ちゃんとやってくぞ!)
とはいえ、ここは精神科なので、心が弱ってしまった患者さん達をケアしてゆくのがお仕事だ。
私は新米ながら、中でも精神が弱りきった患者さんを徐々に担当していっている。
薬を出しても、『根底にある問題を解決しなければならない』患者さんもいる。
でもそれは、他人である私は立ち入れない。話を聞き届けて、患者さんと周囲の人達で解決してゆくのだ。
私は私に出来ることを、「患者さんに快方に向かってもらう」事に、勤めるしかない。
(私に出来ることは全てではないけれども、確かに、力にはなれてる筈。)
患者さんからの感謝の言葉、ちょっとしたことでも、私は嬉しく思うのだ。
私は、院内の隅々まで清掃の行き届いている清潔な廊下を歩きながら、ストレッチ気味の伸びをして、お仕事スイッチを入れる。
今日は、新しく診察に来られる患者さんがいるらしく、私がその患者さんの担当となった。
名前は「瀬戸昴」さん。らしい。
彼は、前もって入念に予約をいれてるらしく、私は木山篤郎院長の指示で指定の診察室で彼を待つこととなった。
「宇佐美君、彼の気を荒立てない様に、とても優しく対応を頼むよ。」
木山院長の言葉から、瀬戸昴さんが、本当に疲労困憊してるだろうのがわかる。
事前予約には「仕事による過労の為、診察予約」と明記されている。
診察室のデスクで椅子に深々と座りながら、私は憶測を立てる。
サラリーマンの方だろうか?ブラックな環境から逃げ出すしか快方に向かわないのでは?
私で力になれるだろうか。もっとベテランの先生じゃなくていいのかな。
でも、ケアするしか。
予約の時間が刻々と迫ってきて、緊張が走る。
カチカチとペンを弄りながら、どうケアしてゆくか前もって仮説で考えてみる。
あっ、ちゃんとリップクリーム塗っておこ。
唇がカサついているのに気づいて、化粧ポーチからリップクリームを取り出して、口紅を落としてからリップクリームを塗る。
また、口紅着けなきゃ。
コーラルピンクの口紅を取り出して、唇に塗ってーーー………。
ガララっ。
「お待たせて申し訳ありません。瀬戸昴です。」
「…噂どおりに、可愛いな…。」
低くて響きのよい青年の声がした。
普段聞き慣れない美声なので、独身女の私は椅子から跳ねあがってしまった。
「ごめんなさいっ!恥ずかしいところ御見せして。」
口紅を化粧ポーチへ即座に入れて、診察の姿勢を整える。
瀬戸さんの背は高い。百八十センチはあるのではなかろうか。
大男の瀬戸さんは、紺色のポロシャツにベージュのズボンという出で立ちで、品がいい。
カルテの事前情報を見ると、瀬戸さんは二十八歳。瀬戸さんと同い年であろう他男性より、彼は繊細な雰囲気がある。
でも、サラリーマンにしては髪型が自由すぎる。黒髪のウルフカットなのだ。元々跳ねてる髪型なのかもしれないけれども、寝癖がついたままで、オフィス勤務している社会人とは何かが違う。服装からして、お洒落さんなのだとは、思うのだけど。
診察用の椅子に座った瀬戸さんは、いきなり身体を前に曲げて、大きく溜め息をついた。
落ち込んでるような姿勢になった瀬戸さんからは、疲れてどんよりしたオーラが漂っている。
「ごめん、疲れが極限状態なんで…。」
また、お腹の底からの溜め息を吐いて、診察のための体力を整えようとしている瀬戸さん。
「…大丈夫ですか?」
大丈夫じゃないから診療に来ていると分かっていても、私は疲労しきっている瀬戸さんを見て、ついつい聞いてしまう。
余計なお世話だ、早く診てくれと、言われるだろう。
私の声を聞いた瀬戸さんは、ムクリと顔を私の方に向ける。彼の顔が少しだけ華やかに明るくなる。
「わぁ…。噂の宇佐美先生に優しくされると、俺、徐々に元気になりそ。」
瀬戸さんは、糸目の笑顔になって、少年みたいに照れ照れしている。
そこから、瀬戸さんはモデルみたいな長い腕の肘を太ももの上に置いて、手の上に顎を置いて前屈みになる。彼は座っている椅子の車輪を足で動かして、私の方に近寄ってきた。
「ちょっ。瀬戸さん、近いですよ?!」
瀬戸さんを至近距離で拝むと、とても端正な顔立ちである。
所謂、私好みの顔立ちなのだ。
瀬戸さんは、私の瞳に視線を合わせる。
彼の瞳は、黒々としていて夜空の様に小さな光が散りばめられてるかのように深みがあった。疲れている為か、彼の瞳は潤んでいて、大人の男性がもつセクシーさと相まって、色っぽい雰囲気があった。私の心を見透かそうとしているような探る眼差しは思考を射止めようとしてるのか。
私は、仕事の時間であることを忘れて、瀬戸さんに魅せられてしまった。
瀬戸さんも、じっとしていて動かない。そのまま私を見つめている。
彼の唇が動いて、ポツリと言葉を漏らす。
「宇佐美先生って、彼氏とかいるの?」
「…ぁ、いないです。嘘じゃないです。」
「なら、俺の彼女になって。」
突然もすぎる告白。初対面の患者さんからの告白。
でも、否定できなかった。私は直感で瀬戸さんに、とてつもない引き寄せる力ーーー。引力みたいに抗えない力を感じたのだ。自然と、瀬戸さんに落ちてゆく、ゆきたい。
トドメと言わんばかりに、瀬戸さんは柔和な笑顔で儚く微笑んできて、私は落ちきった。
「ふつつか者の、私でよければ。」
よくわからない枕詞を添えてしまったけれども、私は瀬戸さんの告白に承諾した。
患者さんと深い関係になることは、絶対にダメなのだけども、私はプライベートでも、瀬戸さんに会ってみたいなと思ったし、なによりこの瀬戸さんに惹かれる気持ちは、私のごくごく個人的な恋心なのである。両想いならば、大丈夫。
瀬戸さんを意識して、ぎこちなくなってしまった私とは正反対に、告白を承諾された瀬戸さんはグニャリと身体が解れたみたいで、力が抜けたのか、彼は私に抱きついてきた。
「絶対に、幸せにするからな。」
いきなり、男性の本気のトーンで愛の言葉を囁かれて、私は顔から火が出そうだった。
私は、まだ全く瀬戸さんの診察が出来ていない事に気がついて、診察を開始しようとする。
「瀬戸さん。診察してください!」
「何か心身の疲労に影響するような、悩みはありますか?」
私は、瀬戸さんに抱きつかれたまま、診察を開始する。
「…いや、疲労の原因の半分くらいは、さっき解決したから、どうにかなるかも…。」
瀬戸さんは、柔らかく私を抱きしめながら答える。
「残る原因の仕事疲れは、このまま宇佐美先生を抱きしめてたら、多少は回復できるよ。」
「う、嬉しいけれども、ちゃんと診察させてください。今は、患者さんなんですから。」
「今は、って事は、仕事が終わったら、宇佐美先生は俺の彼女ということ…!?」
瀬戸さんは、よくもまあ気恥ずかしい台詞を沢山口に出来るなと。
「人恋しい気持ちを悩みを抱えながら、孤独で多忙な執筆仕事するのは、ホントに心身に堪えた…。」
お腹から吐き出しきる声で瀬戸さんは訴えている。本当にしんどかったのだろう。私はわかりやすくも同情した。
「もしかして、ライターの仕事をなさってるんですか?」
「もう恋人なんだし、敬語はいいよ。昴って呼んでよ。」
いきなり呼び捨てはハードルが高くないかな?
「昴君は、ライターの仕事をしてるの?」
「君呼びか…。ま、いいか。」
「ライター惜しいけど、俺は小説家をしてるんだ。」
『小説家』という職業を聞いて、私の瞳が爛々と輝く。
「小説家なの!?素敵…!!」
私が彼に惹かれたのは、作家オーラがあふれでたせいかもと、一人納得する。
「いやぁ、大したもん書いてないけどね。」
そう言いつつも、昴君は頭をかきながら得意気にしている。実際は心底嬉しいのだろう。
「ところで…、宇佐美先生の名前はなんていうの。」
突拍子もないけれども、事の展開を考えれば当たり前である質問に、私はやや照れ隠ししつつも答えた。
「季節の夏に、海水の海と書いて、夏海っていうの。」
「なるほど、爽やかで眩しい情景が浮かぶいい名前だ。似合ってる。」
「夏海。」
早速、おぼえたての私の名前を嬉しそうに言う昴君。疲れ気味でも絞り出す笑顔が星みたいに眩しかった。
「やだなぁー。いきなり、名前呼びなんて、くすぐったいですよぉ。」
恋人なんて長らく居なかった私は、男前に響きの良い声で名前を呼ばれて、心までもがくすぐったい。
「本当だって、良い名前さ。」
診療室に入ってきた時は疲れきっていたのに、今は冗談をいう余裕があるくらいなのだから、本当に『心配事の一つである独身』がとりあえず解決しかかって、元気が出てきたのだろう。
(無邪気な昴君をみてると、私まで元気が出てくるなあ。)
「んー、じゃあ、昴君にとって、夏の海みたいに輝いてる存在になれたらいいなって、思います。」
「俺も、夏海の一等星になってみせるよ。」
お互いに最高の恋人となる宣言をして、微笑み合う。
初対面なのに、ロマンチスト同士なのか、恥ずかしい台詞を言い合って意気投合してる。
やっぱり私の直感は正しかったんだなって。目の前に居る、長年の心配事がなくなって、にこやかな昴君をみてると、そう思えるのだ。
昴君の診察が済んで、彼は薬を貰うために待合室で待機する。
私は、残りの診察予約の患者さんを診察し、適切に診断していった。
先程の昴君とのやり取りを思い返して診察中にドキドキしてしまい、お婆ちゃん患者さんに、「もしかして、恋人出来たのかい?」と、当てられたりした。
私にも恋人が出来るなんて、夢にも思わなかったなあ。先日、「私も出会えるのかな、運命の人に」なんて、考えていたのに。
はにかむ昴君、可愛いなって。
既に、気持ちが初めての恋人・昴君に向かう。
(何時かは昴君とデートするのかな。手を繋いだら、どんな感じに話描けてくれるんだろ?)そんなことを思い浮かべながら、刻一刻と時間が過ぎて、日は傾いてゆくーーー。
時刻は夕方になり、今日の仕事を終わることができた。日が暮れた院内は、蛍光灯が点っているけれども少し影が射す。職員達は口々に「つかれたー。」「お疲れ様ー。」と、今日の仕事を労う。
仕事が終わるのを待ちかねていた私は、そそくさとカルテや書類をまとめ束にし、整える。ペンケースや化粧ポーチを鞄に仕舞い仕事を納める。
「もう、診察は終わりなんだけど、貴方帰らないのかい。」
院内の待合ロビーから、先輩看護師の叱咤する声がする。声のする方を見ると、昴君が叱られて居るではないか。手をヒラヒラと私に向けて振っている場合ではないのよ昴君。
「夏海先生、お仕事お疲れ様~。」
私を待っていてくれたことはとてつもなく可愛いなと思うよ、でももう診療は終わりなんだから気にしなさすぎるよ。
「すば…、瀬戸さん、こんなところで油売ってないで、帰らないと駄目ですよ!」
「わかってるよ。一緒に帰ろ。」
小さい頃から知ってる幼馴染みの恋人を呼ぶかのように、当たり前だという声のトーンで、昴君は私を呼ぶ。朗らかな昴君の声に気持ちがすっとする。
「…うん。一緒に帰る。」
昴君の無邪気さの前に、私は素直に答えた。先輩看護師さんは、珍しいものを見る目で私達を見てたけども、そんなことは気にしない。
白衣を脱いで私服姿になっている私を見た昴君は口元を緩めて微笑んでいる。
「夏海は、やっぱり少女趣味っぽい服装だった。当たってるのも似合ってるのも嬉しさ倍増だよ。」
私への惚気を言いながらもスッと立ち上がる昴君。やっぱり背が高くて、私は彼を見上げるしかなくて。
「さ、行こっか。」
「あっ…。」
当たり前のように、昴君は私の腰に手を回して、私と一緒に広い玄関口の方へとゆったり歩き始める。私はショルダーバッグを小脇に抱え縮こまりながら、昴君に寄り添って歩くしかなかった。院内に残っている職員さん達は何も言わずに面白がって私達を見ている。
「お幸せにね♪バイバイ。」清掃のおば様に祝福されつつ、静かに院内を去る。
昴君は何のサービスなのか、職員さん達の方へ向かって手を振り別れる。私も何か言った方が良いのかな?
「…幸せになってみせます…!」
私が彼との交際を宣言したのが嬉しかったのか、昴君がもっと抱き寄せてきた。高鳴っていた鼓動が更に早くなる。
あぁ。早くなれ!私の歩み!気恥ずかしくてその場をそそくさと去りたくなって…、
でも、そんな素直じゃない私に昴君が愛おしむ眼差しを向けてくれていて、私は幸福を理解した気がした。
「俺の部屋においで。今晩の食事代も出すからさ。」「大人だったら、直ぐ決定出来るでしょ。」
病院を少し離れて、私が何時も買い物をしているスーパーへと差し掛かる頃に、昴君が咄嗟に言う。私は拍子抜けてしまって、彼に絡めていた腕を少しだけ離した。
「それは…、友達の所に泊まると言えば、泊まれないこともないけれども…。」
今日彼氏が出来たから今夜は彼の所に泊まります。では、両親を心配させる上に驚かせてしまう。
でも、今夜は。いや、これから直ぐに昴君の事をもっともっと知りたいと思っている私である。自分の住んでる所に連れていってくれるって、本当に私の事気に入ってるんだろうな。
私が暫く沈黙を通しているので、昴君は沈んだようだ。
「…ごめん、性急過ぎたね。また、会えたらいいかな…?」
「いやっ!私、今夜これから昴君の所に行きたい!って、私も思ってたから…。」
この機会を逃したら、なかなか距離は縮まらない気がしてしまった。昴君が心を開いてくれているのだから、彼からの提案取り消されたくなかった。
「…そっか。それなら。いいの?」
「うん。」
離していた腕をまた、昴君に絡める。
昴君は彼の鞄の中身を確認してから財布を取り出す。上品な革製折り畳み財布からカードを摘まんで見て、次いでにお札も確認をしていた。
「さっきの診察で使ったけども、今晩のご飯代はありそうだラッキー。ねぇ夏海、何処か食べに行きたい店ある?」
昴君は嬉々として、クレジットカードを私に見せびらかす。
「そんな!いいよいいよ!そこにスーパーあるから私ご飯作るから!」
泊めて貰う上に、病に伏せていた昴君にレストラン代を払わせるなんて、申し訳が無さすぎる。何より行きつけのスーパーは他の店舗よりも食材が安いのだから、彼にもオススメをしたいし。
「今日はあのスーパー、玉ねぎとか特売だった筈だから行くよ?」
私は有無を言わさずに昴君を引き連れて、スーパーの駐車場を抜けて自動扉へと進んでゆく。引き連れられながらも昴君はついて来れている。
自動扉が開くと、スーパーの中の実に空調らしい少し冷えた空気が身体に浴びせられる。「スーパーで夕飯の買い物なんて久しぶりだ。」と、昴君が呟き中へと入ってゆく。オレンジが企業カラーの地域密着型スーパーで、天井や床の色もオレンジで明るい。広めの店内には、様々な商品が品よく並んでいて目移りする。昴君は自動扉のすぐ近くに置いてあったカゴを取って、野菜売場の方を目指して歩く。
「玉ねぎ売場はね昴君、こっちだよ。」
「そうなんだ。さすがはココの常連さんなんだね、はは。」
玉ねぎ売場に人集りが出来てるので急いだ。私は主婦と老人達の間を揉みくちゃになりながらも、玉ねぎ三個入り袋を掴んで無事に買えた。人集りから離れて、昴君に袋を手渡す。
「ありがとう、夏海。」昴君は玉ねぎの袋をカゴへと入れる。「今日のレシピは何にするのかい?」そう言えば決めてない。
野菜売場やお豆腐等の売場を眺めながら、私はレシピを考える。どうしようかな、昴君が喜ぶ美味しいレシピ…。
「カレーにしようよ。沢山食べたいし。」
「えっ?そんな簡単なのでいいの?」
「簡単だなんて、カレーは奥深い料理だよ?」
そう言いつつ昴君は、人参やジャガイモ…次々とカレーの食材をカゴ入れてゆく。カレールーは【グリーンカレー】がいいらしい。お米は昴君の所には残りがもう無いみたいだから、少量の米袋を買うことにした。
「家にピューラーあるし皮剥きするよ。カレー俺も手伝うから。」
「ありがとう、お願いね。」
誰かと一緒にカレー作るなんて、学生時代の家庭科の授業みたいだななんて。昴君は買い物してても急かさずにのんびりとしてて、私は彼と一緒に過ごしやすかった。
昴君がレジでお会計を済ませてくれて、私達は昴君の住む場所を目指す。昴君の今の住まいは駅近くのマンションで、独り暮らしをしてるらしい。「そのマンションの五階に住んでるんだけど、時々ベランダに遊びに来る雀が、これまた可愛いんだよな。エサ頂戴ってチチチチチって鳴くんだよ。」という話を聞いて、彼の部屋へ行くのがもっとワクワクしてきた。
商業区域にビルやお店が建ち並んでいる。広い表通り狭い裏通りを抜けて、街の駅の反対側に住宅地域がある。駅の反対側まで来れば、のんびりと気を抜いて歩ける。住宅地に入ると、テレビのコマーシャルか新聞の折り込みチラシかで見たことある気のするマンションが聳えていた。
【ハイド・ハイン・マンション】普通よりグレードの高そうなマンション。黒い鉄格子の洋風ゲートが入り口前にある。敷いてある石畳を歩いて、入り口へ。昴君は鍵を開ける。白い大理石のロビーは光が反射していて、もう夕方なのに明るかった。
ロビーの奥に黒いエレベーター扉がある。昴君は無言で上行きのスイッチを押す。暫くして扉が開く。
「まあまあなマンションでしょ?」
昴君は笑いを噛み潰しながら自虐気味に言った。私は無言で頷いて、エレベーターは昇ってゆく。
昴君の部屋の前に着く。昴君はお土産もの系のキーホルダーが付いている鍵を取り出して扉を開いてくれた。扉を開くと大木なベランダ窓が目に入る。日が暮れて、空はもう夜になりかけていた。
キッチンは玄関を入って直ぐのところにあった。私はビニール袋の中の食品を冷蔵庫の中に入れる。そして、残り物が何かないか確認する。冷蔵庫の中にはビールや牛乳等の飲料くらいしかない。手際よく食品を詰める。
「ハンガー借りるね、おじゃまします。」
私は昴君の部屋の奥に入った。ベッドの上にはハンガーが幾つか掛かっている。
春物カーディガンを脱いで鞄を置く。早速、料理の支度をしようかな。
私がテキパキ料理支度に入ろうとして、昴君も荷物を置いてキッチンへと寄ってくる。
「俺これやるから、コッチお願いね。」
昴君は宣言通りに皮剥きをする。私は鍋に水を入れてルーの準備をする。お米も磨がないと。
「二人で料理してると、学生っぽくて楽しいね。」
「そうだな、カレーなんて特に学生感があるし。」
ピューラーでジャガイモの皮を剥きながら昴君はあどけなく微笑む。彼が自然体な姿を私の前に晒してくれて、私は彼の生活の一部に入れたのがとてつもなく嬉しかった。
私達の共同作業でカレーは完成した。
大皿に盛ったカレーをテーブルに運ぶ。少しシーズンの早い麦茶をコップに入れて、食事の準備は完成した。
「薫りがやっぱりいいな。」
「美味しそう…!」
二人で食べるご飯が待ち遠しい!
『頂きます!』
息ぴったりに言う私達。カレーを一口食べる。うーん、美味しい!
私がカレーを食べているのを眺めて、にんまりする昴君は、何故だろうかやっぱり格好いい。
「夏海、俺が何を書いてるか興味ある?」
私が気になっていた事を、昴君の方から聞いてくれた。
「気になるよ!よくぞ聞いてくれました!」
「ふふっ、じゃあね…。」
昴君は立ち上がって、本棚から緑色のプラスチック籠を取り出す。中には幾つもの本が詰められていた。大きいのも小さいのもある。昴君がテーブルの上に並べた本達を眺めると、黒っぽい色の本が多いと思った。なんだか描いてある絵も複雑でホラーみたいな厳かな雰囲気があるという。
「これらが俺が書いた小説達。…小説というかライトノベルというか。なんというか。」
格調高い小説らしい小説というよりも、映画とか漫画っぽい砕けた感じで手に取りやすい作品作りをしてるから、さ。と、中でも堅めそうなタイトルの本を手に取りながら昴君は答える。
私は並べてある中の一冊を手にとって中身を読む。表紙の絵が漫画絵でキャラクターが目立つヤツにした。主人公らしき男キャラのキリッとした感じが好きだなって。
「あっ…、台詞の言い回しが楽しい…!」
男主人公が敵役を決闘へと囃し立てている場面を読んだ。敵役を追い立てて、皮肉めいたキレがあって気持ちがスカッとする。
「これって、アウトローものかな?表紙の絵の感じ妹ちゃん好きそう。」
私の妹は絵を仕事にして描いているが、この表紙絵の人の作品も妹の本棚にあった気がする。昴君の顔が幸せそうに緩む。
「妹さん、いいセンスしてるね。この先生に描いて欲しくて、直々に頼んだんだ。受けてくれたときは嬉しかったーっ!」
「このシリーズは、読者にも人気でね…、」
立て続けに自作について熱弁する昴君は、燦然とした光を纏う一等星です。一般市民の私には眩しすぎる。でも、目映い彼を私は眺めていたい。昴君の自作トークを聞いている内に、私は昴君の作品に詳しくなっていた。
中でも、【銃は繚乱する、夕闇を】は、アニメ化してたから知ってたという。
瀬戸昴君は、ライトノベル作家の「煌理仁(コウリヒト)」だったのだ。
「昴君、煌理仁先生なんだね。…凄いよ!スゴい!」
私は興奮しながら確認しまった。何も動いていないのに息が弾んで顔が紅くなる。昴君は私が小さい頃目指してたエンターテイメント業界の人なんだなって。私はピアニストか絵本作家になりたかったんだけど。
「いや、まあ、お陰さまでボチボチ業界に居られてます。ありがと。」
照れながら頬が紅くなる昴君は謙虚にお礼を述べる。自作語りはしきったし満足したのか、小説達をまた緑色のプラスチック籠へと戻した。
今度は、本棚から大きいし分厚い本を取り出す。綺麗な絵本作品集だった。
優しくてどこか懐かしさを誘う絵が、絵具や色鉛筆で描かれていて、夢そのままがそこにあった。
「…私もこういう絵の葉書集めてるの、文房具屋さんとか雑貨屋さんに売ってたら買ってるの。」
大きな本をテーブルの上に置いて、私はゆっくりと頁を捲る。
「やっぱり好きそうだなと思った。好きそうだから夏海に見せたかったんだ。」
「わかるんだ…。」
私の絵の趣味を言い当てて昴君はにっこり笑う。私は頬を膨らませつつも、昴君を見る。私達は暫く見つめ合う。
「今日来てくれて嬉しかった、ありがとう夏海。」
昴君が私を抱き寄せる。
「…私こそ、ありがとう。」
「…優しい昴君が好き。」
「?そうなの?」
昴君はケラケラと笑いながらも、私を抱いたままで放さない。昴君が耳元で楽しそうに笑うから、私までつられて笑ってしまう。
「うん、そうだよ。昴君の健康のためにも、認めなさい。」
私は悪戯っぽく茶化しながら言う。でも、昴君には素直にポジティブに肯定的になって欲しいのは本心。
「夏海が言うなら、素直に認められる。」
「俺は夏海の彼氏なんだから、素敵にいないとな。」
アンニュイな眼差しで昴君は大人の色気を振り撒く。顔を合わせて昴君と私は抱き合ったままで見つめ合う。こんなに長いと穴が空いちゃわないかな。…と、考えたので。
「昴君に、私のファーストキスあげちゃうね。」
私から昴君の唇を奪った。
時が止まって、甘い余韻が唇を痺れさす。
私と昴君はそっと唇を離す。
「…時が止まってしまえばいいのに。」
「あったな、そんなドイツの古典。昔の人も最高の瞬間は名残惜しかったんだろうな。」
私の漏らした一言に、颯爽と文学蘊蓄を添えてくれる昴君は、本がつくづく好きなんだなと解りやすい。
昴君と抱き合ったから、私は少し汗ばんでしまった。みかねた昴君が、
「俺の所はユニットバスなんだけど、よかったら風呂入る?流石に一緒には入らんから。」
「………。入ります。」
明日も仕事だから、お風呂には入るしかない。
お風呂場でシャンプーもボディソープも借りた。男の人が使う洗剤はミントの薫りが強かった。
お風呂から出た私は、自分がすっかり昴君の薫りに包まれている事に気がついて、顔も身体も全体が火照ってしまった。
「俺の薫り付けが出来たな。」
そういうところにも気がついて昴君は策士顔する。
もう!っと、既に私服に着直した私はバスタオルを昴君に投げた。避けずに昴君は受け止めて、ただ可笑しくて転げ回る。
たった二人だけの部屋なのに、満ち足りて楽しい楽しい夜はふける。
初対面なのに、意気投合出来るなんて素敵だなって。元々、昴君の方が対人コミュニケーション能力が高いのかもしれない。…他人の思考を察知しやすいから、精神が疲れ果ててしまうくらいになって、病気してしまうのかも…。
そんな悲しいことを考えてしまった私だけど、無邪気な笑顔を向けてくる昴君の事を、私の人生をかけて護りたいなと思えた。
…出会って直ぐ様、結婚を意識した事を考えるとなんて、今までの私にあったかな?…そんなこと、なかった。男性との出会いは、避けてしまいたいような出会いくらいしかなかった。
だけど、昴君はすうっと私の心に入ってきた。突然現れた彗星みたいな人なのだ。
「夏海?…夏海ちゃん?どうしたの?」
昴君の顔が私の目の前にある。私は目を見開いて、あっと驚いた。
「…ごめんごめん!考え事してた…。」
私は何でもないよ。と、誤魔化しながら笑う。一人で勝手に結婚の事まで妄想していたのがとてつもなく恥ずかしくて、床に転がっていたクッションを抱き寄せて顔を隠した。
いたたまれない気持ちになったので、ふと目を部屋の棚の上にあるデジタル時計にやる。
「…?!もう、夜中の十一時なの!?」
確かに大きな文字で11:14と書いてある。
「意外と長く語っちゃったみたいだな…。夏海、やっぱり俺のとこに泊まりな。」
昴君は、ポンポンとベッドを叩いて示す。
「俺はソファーで寝るからさ。」
私の顔の熱はヒートアップして、判っていたとはいえ初めての【恋人の部屋にお泊まり】なので、緊張してしまう。
「布団で寝たら、もっと俺の薫りに染まるね♪ははは。」
タオルケットを手に持ってソファーへと向かいながら、昴君は糖度の高すぎる冗談を言う。
「………昴君の薫りに包まれる………?ってこと?!」
その事に気がついた私は、一気に体温が上がってしまった。スバルクンノカオリ…!?
「…臭くないから、拒否しないで?」
私が一向にベッドへと向かわないので、困惑混じりに昴君は言った。ゆっくり寝てね。って。
私は強ばりながらも、ベッドの布団の中へとはいる。布団の中へ入ると、爽やかながらも大人の男性の落ち着いた薫りがした。
「ふぁ…、昴君に包まれてる…。」
布団が羽毛布団で柔らかいのもあるけれども、それ以上に、昴君の薫りが私の昂っていた神経を優しく撫でてくれた。何時までも寄り添っていたい落ち着く薫り。
「昴君の薫り、落ち着いて寝られるね。」
気持ちよくて、私は布団の中でうずくまる。うずくまって、赤ちゃんみたいに丸まった体型で就寝に入る。
「拒否されなくて安心だ。おやすみ、夏海。」
そう言うと昴君は、私のおでこにキスを落としてくれた。
神様が祝福してくれるみたいな柔らかなキスで、幸せな気持ちが込み上げてきた。
「ふふ。おやすみなさい、昴君。」
私は、昴君の薫りに包まれて、深い深い眠りについた。
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