第232話 LB4


 私がうんうん唸っていると、グレンが髪を撫でてくれた。

 でも続いた言葉はとても納得できるものではなかった。


「もういいんじゃないか? 魔族の絶滅も人界の未来も、個人の力ではどうにもならないよ。諦めて楽しく暮らさないかい?」


「グレンはいつもそうだよね。なんでそんなに簡単に諦めちゃうの。ここで頑張れば、何か変わるかもしれないのに」


「変わらないかもしれないだろう。であれば、無駄な時間と労力をかけずに、穏やかに暮らした方がいい」


 それは受け入れられない考えだ。何が無駄で何が有用だったかなんて、終わってみなければ分からない。だから力を尽くさねばならない。

 彼が幼い頃からずっと、寂しさと絶望を抱えていたのは分かる。希望を与えられ、期待した上で裏切られればより傷口が深くなるのも……分かる。

 けれど、だからといって、諦めてしまうのは違うはずだ。


 グレンはため息をついて、私の体を半回転させた。正面から向き合う形になる。


「ゼニス。ありもしない希望を追うよりも、私の方を見て。魔界へ帰るのは実現の可能性があるから、協力するよ。

 でも、それ以外のことはやめておこう。人間の寿命は短い。そんなに先のことばかり気にしないで、今の時間を大切にして欲しい。

 正直に言えば……私はあなたほど、強くないんだ。不確かな希望を諦めずに追い続ける力は、私にはないんだよ」


 悲しげな口調に言葉が詰まった。

 私は別に、自分が強いと思ったことはない。

 けれども、魔力や体力と同じように心にも強さがあるのは知っている。同じ局面でも頑張れる人と、そうではない人がいる。

 頑張れなかった人が必ずしも甘えているとか、努力が足りなかったとは言えない。いくら努力しても全員がオリンピック選手になれるわけじゃないのと同じだ。


 だから、グレンの言葉を聞くべきなのかもしれない。彼が心穏やかに過ごせるなら、私も嬉しい。

 それでも。


「グレンの言い分に一理あるのは認める。でもね、でもね!」


 見慣れた赤い両目を見上げた。愛おしそうに見つめてくる、その奥のかげを。


「ここで私が諦めたら、貴方の未来の孤独が近づいちゃうじゃない! アンジュくんたちが科学を研究してくれているけれど、どこまで成果が出るか分からないもの。ライブラリにたどり着いたのは、これ以上ないチャンスなんだよ。

 私、グレンのために何かしてあげたい。私の一生をあげても、貴方にとってはほんの短い時間なんでしょ。だからもっと長く残るような何かを――」


「ゼニス。何度も言っているけど、あなたがいなくなった後の時間に興味はないよ。最低限の責任を果たした後、すみやかに後を追うつもり」


「それは駄目! 寿命が来るまで精一杯生きるべきだよ!」


「なぜ?」


 なぜって。そんなの当たり前じゃないか。

 そう言おうとした私に先んじて、グレンが静かに続けた。


「このまま魔族が滅びるならば、私の果たすべき責任は少ない。反対にもしも魔族が滅びず、また新しい命が生まれるのなら、彼らが次代を担えばいい。どちらに転んでも、私が早く死んだ所で影響は特にない」


「違う違う、そういうことじゃない! 私はただ、グレンになるべく幸せに生きて欲しいだけ」


「私の幸せはあなたと共に在ることだけだ。ゼニスを失ってまで生きるのは、苦しみ以外の何物でもないよ。

 この前のたった2ヶ月ですら、あんなに寂しかった。それが何千年も続くなど、とても考えられない」


「そんなことないよ! それに、グレンが死んでしまったらみんな悲しむ。アンジュくんもカイもシャンファさんも、リス太郎も、魔王様も、ご両親も!」


「では逆に聞くけど、ゼニスは私が最後まで生きて、彼らを見送ってから死ぬべきだと思っているの? 彼らの悲しみは許せないくせに、私が喪失の苦しみを受けるのはいいわけ?」


「そういうことじゃない……」


 私は前世で自業自得で死んでしまった。どれだけ周囲を悲しませたかと思うと、今でも胸が苦しくなる。

 そして何より、私自身が無念だった。

 結果としてこの世界に生まれて、もう一度やり直すチャンスを掴んだけれど。それはあくまで幸運な偶然であって、最初から望むようなものではない。

 だから今度は最後まで生き切ると決めた。

 グレンはそんな私の決意を含めて、愛してくれているはずだったのに。

 何とか説得しようとして、彼を見る。言葉を探しているうちに、グレンが先に口を開いた。


「ゼニスはいいよね、立派に寿命を全うして、さっさと死ねるんだから」


「な……」


 ひどい言い草に反論したかった。けど、言外に込められた自嘲の響きと瞳の奥の悲しみに気づいて、絶句してしまった。

 仄暗さを夜闇に変えるように、囁くように彼が言う。


「ねえゼニス、いっそ今ここで一緒に死んでしまおうか。なに、どうせ私たちは既に魔界からも人界からも消えたも同然だもの。ここで生きようが死のうが、誰も気にしないよ。

 ……うん、いい考えだ。あなたと一緒なら寂しくない」


「何言ってるの。ちゃんと帰ってまた幸せになろうよ!」


「それも悪くないけど、ゼニスはちょっと目を離すとすぐいなくなってしまうから。失うくらいならここで終わらせたい」


「駄目だって!」


 この人、本気だ。いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべているくせに、うすら寒い殺気が伝わってくる。

 なんで? どうして急にこうなったの? 私のせい?


 ふと気づいた。

 ……急に。急に、ではないかもしれない。この寒々しい気配は何度か覚えがある。

 夜、一緒に眠っている時に。ごくたまに、こんな気配が伝わってきた。

 愛おしさと、寂しさと、大切に思う心と、喪失を恐れる気持ちとが全部まぜこぜになって、繋がった魔力回路から流れ込んできていた。

 苦しみから助けてあげたかったけど、どうしていいか分からなかった。

 朝になったらそれらは消えて、いつもの彼がいた。だから夢かと思って真剣に取り合わなかった。藪をつついて蛇を出したくなくて、目を背けていた。


 ……私のせいなのかもしれない。

 自業自得とそれ以外を含めて、最近は心配と迷惑をかけてばかりいた。

 今回だって私が勝手に浮き上がって消えかけて、グレンは身の危険を顧みず助けてくれた。

 それなのに、さっきの私の態度はどうだろう。

 可能性の低い希望ばかりを語って、失望させてしまった。今の時間を大事にして欲しいと言われたのに、突っぱねた。


 私は、精一杯生きたい。これが間違っているとは思わない。

 でも……グレンの今までを考慮せずに、一方的に押し付けるのは違ったのかもしれない。正論を振りかざして、グレンを軽んじてしまったのかもしれない。それが彼を追い詰めた。

 そう考えたら、自責の念が心を削っていった。


 苦しい心で思う。私たちは、出会うべきではなかったのかも。

 私の存在さえなければ、グレンは寿命まで穏やかに――最後は孤独になってしまうにしても――生きていけたのでは。

 そう考えたら……悲しかった。


「ゼニス、ゼニス、その花嫁衣装、本当にきれいだよ。結婚式の夜が永遠になるなんて、最高に幸せ……」


 抱き締められた。重ねられた唇が、ぞっとするほど冷たい。


 後悔が胸を締め付けた。この人の弱さは承知していたはずなのに。大事にしようって決めてたはずなのに。

 けど、私のせいだからこそ、殺されてあげるわけにはいかない。

 グレンに恋人殺しなんて罪を負わせてたまるか。


「グレン……」


 少しだけ身を離す。最後に想いを込めて名前を呼んだ。微笑み返してくれる彼が愛おしくて、哀しい。


「ごめんね。――さようなら」







 さようなら、と言って、私はタブレットの画面に視線を移した。

 言葉の前に素早く操作していた結果、呪文がひとつ表示されている。


「狭間の世界の魔法機構へ命令オーダー。魔王ジュウロンの孫、天雷族グレンを、狭間の世界より魔力の滴る世界へ強制落下、中央の結界の前に送還せよ」


「ゼニス!?」


 普段であれば、私とグレンの力の差は大きい。抵抗などできるものではない。

 でも今この時、この場所に限れば。私の存在そのものが魔力に傾き、そして、詠唱式呪文が最も強力に発動する方法を手に入れた今ならば。

 私は、彼より強い。


 グレンの輪郭が揺れるように薄れていく。体温がすうっと遠ざかった。

 彼は自分に強制されている現象を察知して、顔色を変えた。


「やめてくれ、ゼニス、お願いだから! 離れたくないんだ!!」


 即時発動のはずなのに、反応がやや鈍い。グレンが魔法の効果に抗っているらしい。

 でも、無駄だよ。


再実行リピート


 一言だけの発音で、再度、同じ魔法の効果が現れる。

 もう手向かいはできず、彼の姿が暗く影に沈み込むようにして、消えた。

 さらに1つ呪文を表示させる。グレンの執着がなくなるよう、私に関する記憶を消そう。

 それが私の出来る、最後のことだ。

 読み上げようとして、声が出ないことに気づいた。

 全身が発光し始め、浮遊感と魔力回路の鳴動が強まっている。辺りがどんどん明るくなって、幾万の燭台が灯されたようになって、目が眩みそうになる。眼球を通して脳に光が、神界の魔力が突き刺さる。


 しまった、思ったよりも神界の引力が強い。タブレットが手をすり抜けて、崩れるように消えてしまう。

 いいや、まだだ。今なら魔力を直接神界に繋いで、魔法の効果を引き出せるはず。

 そう考えて頭上を、天を振り仰いで――




 圧倒的な光に、瞬時に肉体と意識とが融解した。


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