第221話 神前裁判
運び込んだテーブルを急ごしらえの祭壇に見立てて、ラスはシモンと群衆に聖櫃を指し示す。
「これにあるは聖櫃、エルシャダイの王を選定する神の御意志そのものである! 僕、ランティブロスか、シモンか。どちらが真に正しい王の資格を持つのか、聖櫃によって神に問う!」
彼は布をほどかれて剥き出しになった聖櫃に、左手を乗せた。
「シモン。ここへ来て神の御名の元に誓え。お前の全てをもって王の資格を問うと。
僕は受けて立つ。先の国王ヨラム二世の末子、ランティブロスこそが神の正義を代行するものと、神前裁判にて証明する!」
ユピテル兵がシモンの拘束を解いた。
シモンは血走った目で聖櫃を睨み、ラスと同じように左手を乗せる。シモンの手は擦り傷や小さな切り傷がいくつもあって、血が滲んでいた。捕らえられた時に傷ついたのだろう。
「俺は、俺の全てが正しいと神に誓う! 父を殺し、兄を殺したのも全ては正義のため。ユピテルという悪魔を排し、地上に神の楽園を築くためだ!!」
血を吐くような叫びだった。
「僕も誓う。父と兄を殺し、罪に手を染めたシモンを許さない。家族の無念は僕が晴らす。そして、正統な王としてシャダイの民を導き、神の代理人としての務めを果たす!」
兄弟は聖櫃から手を離した。ヨハネさんともう1人の司祭がそれぞれ剣を持ってきて、ラスとシモンに渡す。
「では、これより神前裁判を行う。片方の死を以て生き延びた者の勝利を認定する」
ヨハネさんが厳かに宣言した。
そうして、殺し合いが始まった。
兄弟は体格が同じくらいで、武芸の腕もさほど差がないように見えた。
あえて言えば経験の差でシモンが、若さと体力の点でラスが有利だろうか。
私は正直、急に始まった「神前裁判」に戸惑いを隠せなかった。城の入口から見渡せば、ユピテル人はおおむね同じような困惑の表情を見せている。
このままシモンを殺すなりユピテルに送るなりすれば、勝利は確定だった。
どうしてわざわざラスの身を危険に晒すのか。
疑問と不満が尽きない。
けれどエルシャダイ人たちの様子を見ると、少しだけ理解できるように思えた。
彼らは必死な表情でラスとシモンを見守りながら、祈りの言葉を唱えている。親ユピテル派も過激派もこの時ばかりは区別なく、同じ旋律の同じ祈祷句を口にして、ゆらゆらと体を揺らしている。その共振するさまは、まるで大きな1つの生き物のようだった。
――聞け、シャダイよ。偉大なる神はただひとつ……。
恐らく、2つに割れてしまったエルシャダイの国をもう一度1つにまとめるには、信仰心を根拠にした何らかの方策が必要だったのだろう。
このままシモンを始末してラスが王位に登ったとしても、過激派の不満はくすぶり続ける。特に今回、ラスはユピテル軍を率いてエルシャダイ兵たちをたくさん殺した。
エルシャダイ人の恨みがラスとユピテルに向かってもおかしくない。
でも、いくら何でも決闘しなくてもいいじゃないか。万が一、ラスが負けてしまったらどうするの!?
私はもどかしい思いで階段下の広場を見た。
ヨハネさんに駆け寄って真意を正したかったけれど、彼は聖櫃の側に立って近寄りがたい雰囲気だ。
この決闘が彼らにとって重要な儀式であるのは理解した。
けれど私は、ラスの危機を見逃すのは絶対に出来ない。
いつでも飛び立てるようホウキに魔力を通しながら、私は決闘の行方を注視した。
と。
シモンの横薙ぎの一撃を受けたラスが体勢を崩した。私が思わず身を乗り出すのと同時に、シモンがさらに踏み込んだ。
「ラス――!!」
飛び出しかけた私をシャダイの司祭たちが押し止める。
ラスが一瞬だけこちらを見て目が合った、ような気がした。
次の瞬間、ラスの右腕から鮮血が飛び――シモンの脇腹をラスの剣が突き刺した。
悲鳴のようなどよめきが上がる。口々に神の名を呼ぶ人々の声が聞こえる。
私は司祭たちを強引に振り切って、無重力の魔法を発動。身体強化をかけた脚力で床を蹴る。
宙を舞って、一足飛びに決闘場まで飛び降りた。
*****
【三人称】
シモンは必死に剣を振るう。
弟であるランティブロスが聖櫃を持ち出して神前裁判を宣言した時、シモンは死中に活を求める心でそれに乗った。
このままでいれば、どうせ死ぬだけ。敗北は確定的で覆す目はなかった。
それなのに弟は決闘を行うという。
理由はシモンにも分かる。今後のエルシャダイの結束を求めてのことだろう。
聖櫃というシャダイ最大の秘宝でもって、王家の血を引く兄弟が神前裁判の決闘を行う。
信仰心を煽る舞台装置としてこの上ない。
決闘に勝てば、たとえ過激派であろうともランティブロスを認めざるを得ないだろう。彼らは信仰心に忠実すぎるゆえに過激派なのだから。
だが、とシモンは考えた。
これは彼にとっても千載一遇の好機だ。ここで弟を殺しさえすれば、彼は勝者となる。
そうなればユピテル軍が制圧と殲滅にかかるだろうが、別に構わない。
現世の命が終わろうとも、シャダイ信徒として、エルシャダイ王家の男子として正当性が証明されれば良いのだ。
その後はユピテルとアルシャク朝の泥沼の戦争になるだろう。それでいい。異教徒どもは互いに憎み合い、殺し合うのがお似合いだ。
弟が剣で打ちかかってくる。その一撃は拙いとまでは言わないが、そこまで洗練されてもいない。これならば勝機は十分にある。
シモンは弟の目を見た。父と兄の仇を取ろうと熱くなっていると思ったのに、ひやりとした冷たさを含んでいる。
その冷徹さに背筋がぞっとした。
弟は、武芸の腕は大したことがないくせに勝利を確信している。シモンを殺すことを前提に、もっと先を見ている。そう感じた。
「ランティブロスよ……」
少し距離を取ってシモンは語りかける。祈りと喧騒の中、相手にしか聞こえない声で。
「思えばこうしてお前と向き合うのは、今が初めてかもしれないな。我らは血を分けた兄弟なのに、そしてユピテルに囚われている時期も重なっていたのに、ほとんど交流がなかった」
ラスは答えず、また数合打ち合った。
「お前はユピテルを恨んでいないのか? 奴らは信仰に無理解でエルシャダイを軽視し、神を貶めて憚らないと言うのに!」
上段からの攻撃を受け止めて、弟が言う。
「恨んでなどいません。ただ彼らは、僕たちと違うだけです」
「違うだけ? 馬鹿な。その違いこそが問題なのだ。我らと奴らの間に横たわる大きな溝こそが、無理解と差別の温床なのに!」
シモンはユピテルで暮らしていた少年時代を思い出す。シャダイの風習は全て否定され、信仰を揶揄され、事あるごとに侮蔑と下世話な好奇の目を向けられた。ユピテル人の前では食事の祈りも出来ず、禁忌である豚肉を食卓に出されて食事を断ったことは数えきれない。
友など出来るはずもなかった。ただ一人、自室で誰にも聞こえないように聖句を唱えるのが日課だった。保護者役の司祭も頼りにならなず、自分の身は自分で守らなければならなかった。
そしてその孤独を、ついに家族たちも分かってくれなかった。帰国したシモンを待っていたのは、長兄である第一王子のスペアとしての役割だけ。
シモンが信仰の原点とユピテルの邪悪さを訴えても兄は聞かず、兄弟の関係は悪化した。
父は少しだけ同情的な目を向けてくれたが、結局、王位継承権は覆らなかった。
シモンの心を決定づけたのは、末弟の存在だった。
母の葬儀でほとんど初めて顔を見た弟は、シモンと同じく長くユピテルに暮らしているというのに、彼らを全く憎んでいなかった。それどころか親しい友人が出来たと無邪気に報告する始末。
そんな弟を家族は皆で可愛がった。王子である以上、シモンと同じただのスペアであるはずなのに。父と兄の愛情を受けて、弟は幸福そうに笑っていた。
兄のように権威も権力もなく、弟のように愛されるわけでもない。
自分には何もないとシモンは思い知った。残っているのは歪んだ信仰心。神にだけは愛されていると、盲信する心のみだった。
「俺は神に愛されている! だからお前を殺して、恩寵を証明する!」
叫んだ彼は横薙ぎの一撃を放って、さらに踏み込んだ。ランティブロスの右腕から鮮血が飛ぶ。
弟は体勢を崩している。行ける――!
けれどシモンは、肝心な所で体から力が抜けるのを感じた。
激しい怒りと憎しみで感覚が曇っていたが、不調は少し前から彼を蝕んでいたのだ。
腕が急激に重くなる。剣を持ち続けることすら出来ない。
――おかしい。何故だ。
その直後。
動きが鈍ったシモンの腹を、弟の剣が貫いた。
「が……っ」
シモンは自身が苦悶の声を漏らすのを聞いた。次いで、支えを失った体が地面に倒れ伏せる感覚。
「な、なん……で……」
血まみれの腕を必死に動かそうとするが、動かない。
右手はとっくに剣を取り落としている。
視線を地面に沿って巡らせると、力なく投げ出された左手が目に入った。聖櫃に触れて神に誓った左手。
その手のひらが血液とは違う色に染まっていた。不気味な青黒い色だった。
ユピテル兵に捕縛された時の小さい傷を取り巻くように、気味の悪い変色が進んでいる。
――毒だ。
シモンは直感した。聖櫃に触れた時に毒に侵されて、体の自由を奪われた。
けれどそれならば、どうして弟は無事でいるのだろう。同じ聖櫃の、同じ場所を触ったのに。
まさか本当にランティブロスにこそ神の加護があり、シモンは見捨てられたのだろうか。心から信じて愛する神にさえ、捨てられたのだろうか。
「ラス!!」
若い女の声がする。霞む目で夜空を見上げれば、褐色の髪の女が宙を駆けるように飛んできて、地に降り立った。まるで翼があるかのような、人間離れした動きだった。
「すぐに傷を治すから! ――■■■■■、■■■■■■、■■■」
女は理解できない言葉を発した。すると彼女の手に淡い光が生まれて、弟の傷に吸い込まれていく。
シモンはその幻想的な光景をぼんやりと眺めた。
――ああ、天使だ。天を飛ぶ身のこなしに、優しい光。神の御使い、天使がいる。
死の淵で混濁する意識で、彼は思う。
――ランティブロスには天使がついていた。俺に勝ち目はなかった。
毒と内蔵に届く損傷と出血とが彼の命を削り取っていく。
――天使よ、神の依代よ。愚かな俺の手向けに、どうか、わずかばかりの憐れみを。
シモンは呼びかけようとしたが、もう声が出なかった。
と。
女の赤紫色の瞳がシモンを見る。ぶどう酒を思わせる深い色。一瞬だけ、視線が合った。
その瞳に明確な表情は読み取れなかったけれど、彼女が確かに彼を見たのを感じた。
最期に神の愛の象徴に触れた奇跡を感じながら、シモンは事切れた。
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