第212話 ケレス神殿
ケレス神殿は貧民街の奥地にあった。
表通りの活気ある賑わいとは似ても似つかない、泥と埃と排泄物で汚れた街並み。
学生たちは慣れた様子で歩いていく。貴族と騎士階級の学生の護衛として、奴隷が2人ついてきてくれた。
危ない場所だから、ティトは留守番してもらったよ。
やがて神殿に到着した。古びた建物であまり掃除が行き届いておらず、うら寂しい雰囲気である。
神官に挨拶していると、先に走っていた学生が出てきて案内してくれた。神殿の中は薄暗くて、淀んだ空気が漂っている。
ボロ布を吊るして仕切りにした奥に簡素な石の台があって、遺体が横たわっていた。やせ細った男性だった。死因は餓死だろうか……。
学生たちが遺体を取り囲む。荷物袋からナイフやノコギリを取り出した。
「大型の獣を解体する業者に聞いて、道具を用意しました」
そう言って早速取り掛かろうとする。私は止めた。
「ちょっと待った。素手でやるの?」
「革手袋もありますが、手袋していると刃物が使いにくくて」
「でも、血や内臓を素手で触ると感染症――病気になってしまう場合があるよ。特に同じ人間の場合は、獣より危ない。飛び散ったものを吸うのもよくないから、口と鼻に覆い布をするように」
「はい。気づきませんでした」
きれいな布は用意してあったので、皆でそれを三角に折って顔を覆う。頭の後ろで縛るスタイルだ。
今は流行病は起きていないし、遺体の外見も特におかしな点はない。病気という意味では大丈夫かな?
革手袋をはめた学生がナイフを持つ。私はもう一度言った。
「開始する前にお祈りをしよう。この人が生前どんな人でどうして亡くなったのか、今はもう知るすべがないけど。でも、ちょっと前までは私たちと同じように生きていた」
「そこまでする必要ありますか? 後で埋葬するのに」
すっかりやる気になっていたのだろう、騎士階級の学生は不満そうだ。
「あるよ! だって、この人と私たちは立場がちょっと違うだけ。貧しい平民で、懸命に生きてきたはずでしょう。
生き死にを分ける境界なんて、本当に運だよ。少しの違いで、私や貴方たちがこの台に乗って解剖される立場になったかもしれない」
竜の時の惨劇を思い出す。あの時、私が最初の襲撃を生き延びたのはただ運が良かったからだ。それ以外に死んでしまった人と私の差などなかった。
「……先生の言いたいこと、少し分かります」
平民の1人が言った。
「俺も生まれは貧しくて、ゼニス先生の奨学金で魔法学院に入学できました。魔力持ちだったのも、奨学金のことを知ったのも幸運でした。もしあの時、奨学金の会場に行かなかったら今どうしているだろうと思うと、ぞっとします。何年か後に、この人みたいに行き倒れていたかも」
貴族と騎士階級の学生は、困ったような目で視線を交わしている。恵まれた生まれの彼らとしては実感できないようだ。
それは仕方ない。でも、そういうことがあると知っておいて欲しかった。
「うん。じゃあ、体を使わせてもらうこの人に感謝を。学んだことは必ず人と社会の役に立ててね」
「はい」
「分かりました」
そうして今度こそ、ユピテル初の人体解剖は始まった。
私は途中でグロ耐性が限界突破して、あえなく退場となった。
貧血状態でフラフラしていたので、神官たちの詰め所で休ませてもらった。
夕方、かなり陽が傾いてから学生たちが戻ってきた。誰もが興奮した顔をしている。
「終わりました!」
「ご苦労さま。取り出した内臓は全部戻してあげた?」
「はい。最後に表面を縫い合わせておきました。あとはケレス神殿で埋葬を頼みます」
神官の1人が進み出て言った。
「多額の寄付をいただけたので、ちゃんと墓に入れてあげられます。あのままでは火葬がせいぜいでした」
ユピテルは土葬文化だ。火葬は本当に貧しい人や、下手をしたら刑罰に使われるレベルで嫌がられる。
お墓に入れたからといって、あの死者が満足するかなど分かりようもない。でも、生きている人が自分の欲望で死者を粗末に扱うのは駄目だ。そんなことをしたら歯止めがなくなる。いつかもっと残酷なことに手を出してしまうかもしれない。
「見て下さい、先生! 本物の人間の中身をスケッチしました!」
唯一の女子が紙束を開いて見せてくれた。精密な模写が多数描かれている。もちろんザ・内臓である。
「よく描けてるね。私の人体図よりもリアル。教科書に使いたいくらいだよ」
「教科書に! もし本当なら、ものすごく光栄です」
女子学生が飛び跳ねている。陰鬱な神殿で臓物の絵を持って、とてもギャップがある。
「けどこれで、ゼニス先生の正しさが再証明されたな。教科書の人体図、本当に正確だった」
「ああ。途中退室してしまったから、どうしてと思っていたが。先生にとってはわざわざ見る必要もなかったんだ」
いえ、単にグロ耐性が限界を迎えただけです。
「暗くなる前に帰ろう」
私が言うと、皆がうなずいた。
「皆様、またお越しください」
神官たちが愛想よく見送ってくれた。「また寄付いっぱいちょうだいね!」と顔に書いてあった。世知辛いのう。
こうしてユピテル初(と思われる)人体解剖実験は終わった。
女子学生のスケッチは本当に素晴らしかったので、木板印刷に起こして教科書に組み込むことにした。もちろん自主学習グループの皆に代金を支払って、名前を載せて。
それにしても、予想外の出来事だった。
これも私の行動が彼らに影響を与えた結果だろうか。
ティベリウスさんの言葉を少し理解したように思う。
――ゼニスという人物のこれまでが、今の彼らを作った。きみの意思がどうあれ、今更変えられない。
うん……。怖くもあるが、楽しみでもある。
私の撒いた小さい種が、意外な所で芽吹いていく。これからもたくさん芽が出て育っていくのだと思う。
時には良くない方向に向かうものもあるだろうけど。
その時は手助けをして、また違う方を向いて欲しい。そのためにできるだけ長く見守っていたい。そう思った。
グロ耐性は大変なことになったが、出来事自体はいい刺激になった。
私は改めてやる気を出して、仕事に取り組んだ――のだが。
朝、アパートから出て学院に向かおうとしたら、私の前に誰かが立ちふさがった。
寝不足気味だった私は対応が遅れた。ガシッと肩を掴まれて、しまったと思う。まさかこんな所で何かあるとは思っていなかった!
いきなり抱きつかれた。といっても相手の方が体が大きいので、抱き抱えられるような格好だ。
なにこれ、新手の変質者か!? それとも誘拐再びか。私は慌てて身体強化を起動――
「――姉さんっ!」
若い男性の声が、懐かしい呼びかけをする。
「アレク!?」
田舎の実家にいるはずのアレクが、私を抱き上げていた。
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