第22話 サンドバッグとピーポくんと結婚と
十月二十三日 午後二時五分
今日は父が私のマンションに来ている。
久しぶりに連休をもらい、一年ほど会っていない両親に会うかと思い連絡すると、父が有給を取って会いに来ると言った。母は仕事が終わってから来る。
父は国税局の職員で母は保育士だ。
高校卒業後は短大に進み保育士になれと言う母と税務職員のやりがいを猛アピールする父に対して、とりあえず娘を適当な四年制大学に進ませる気は無いんだなと思料して、私は高校の担任に警察官になりたいと相談した。
私の家は公務員が多く、官僚もいるし市役所勤めの地方公務員もいる。母は市の保育士だ。
だから公務員になるのは当たり前だと思ったし、民間企業に勤めるという発想が無かった。
身内に警察官がいなかったから高卒で警察官になってみたが、やはり父の言う通りに国税局に奉職すればよかったと思う時もある。だが警察官も悪くないと思うことも多くなった。
今、娘のマンションのリビングにサンドバッグがあることを知り、持参したケーキを抱えて呆然としている父は、警察官になった娘を自慢の娘だと言っているらしい。
警察官になると言った時は猛反対したが、考えが変わったようだった。
「奈緒ちゃんサンドバッグ」
「うん」
私は警察官を拝命し、初任地は両親へ正しく明らかにしたが、松永さんと仕事をするようになった五年前から両親へ所属を偽っている。
最初は松永さんと同じように、『音楽隊で楽器を拭く係』と言っていたが、嘘が秒でバレてからは警視庁本庁の広報課に勤めていると言っている。だが父は疑っている。
父は長く法人課税部門にいるせいか、警察官とは違ったアプローチの仕方で人を追い詰めて来るのだ。私は国税局職員って怖いなと思った。
だが警察官の仕事だっていろいろあるのだ。守秘義務もあるのは父もわかっている。それでも聞きたいのだろう。娘の晴れ姿を一度は見てみたいのだ。
だから私は言った。イベントでピーポくんの中の人をやっていると。私はそのためのトレーニングも仕事であると言った。
私がそう言えば父は察してくれるだろうと思ったのだ。ピーポくんの中に人がいないわけがないのに、いないことになっているから。それについて触れてはいけないのだから。
だが父は挫けずにピーポくんがいるイベントに行き、中の人が娘なのか確認しているという。
「中の人、複数人いるよね」
「中に人などいない」
「一人、凄いアクロバティックな動きをする人がいるよ」
――それは中山陸さんだ。
「中に人などいない」
◇
私は昨年このマンションを買ったのだが、そのきっかけとなったのは父の言葉だった。
『奈緒ちゃん、そろそろ……ね?』
二十五歳を過ぎた頃から、この言葉を頻繁に言われるようになって私も考えたのだ。そして私は不動産の勉強をして、昨年やっと良い物件があったからローンを組んでマンションを買った。
だが父は私がマンションを買ったことに驚き、なぜだと言った。私は『そろそろ家を買え』という意味だと思っていたから、父こそなぜそんなことを言うのかと思った。
そのやりとりを聞いていた母は、言葉足らずの父の血が流れる娘を懸念していた。
――お母さん、娘も立派な言葉足らずに成長しているよ。
「奈緒ちゃん結婚は?」
「相手がいないよ」
「お見合いする?」
「所属を偽る警察官を信用する人はいる?」
父は娘の幸せを願っている。それはどこの親もそうだろう。だが時代は変わったのだ。
女にとって結婚することが一番の幸せだとは言い切れないだろう。
男は働き、女は家庭を守る時代は終わった。
保育園に子を預けて働くなんて子が可哀想、子が幼いのに働くなんてワガママだ、嫁を働かせるなんて甲斐性無しの夫だと言われた時代から、子を預けて働く女性が当たり前になるまであっという間だった。
だが女性も働いているのに、家事育児は女性が割りを食うのは今でも変わらない。その結婚は女性にとって幸せなのだろうか。
母も公務員で働いているのに、家事育児は母に丸投げしていた父だ。そんな夫と結婚してよかったと母は思っているのだろうか。
「結婚は考えてないよ」
「うーん……」
◇
午後九時二十五分
私は今、エアロバイクに跨がり、一人掛けソファに座る母と話している。
べろんべろんに酔っ払った父は和室で伸びている。
「奈緒ちゃんに会えてお父さん、嬉しかったのねー」
「けっこう飲んでたね」
私は母に聞いてみようと思った。結婚してよかったのか、と。
もちろん母の時代は結婚しないという選択肢は無かった時代だ。保育士だから結婚、妊娠出産を経ても職場復帰するのが当たり前だったとはいえ、家事育児もするのは大変だったろう。
「あの、お母さん」
「んー?」
「お母さんは結婚して良かったと思ってる?」
「うん」
――即答。見事なまでに即答。
「どうして?」
「だってお父さん、いい人だよ?」
「でも家事しないよ?」
「お母さんは家事に手を出されるのが嫌なのよ」
確かに母は家族が家事を手伝うことは当然としながらも、家事は自分でやっていて、家族が主体的に行うことを嫌がっていた。
「奈緒ちゃんはお父さんのことは好き?」
「うん」
母は、私が子供の時も思春期の時も三十三歳になった今でも父が好きなのは、自分が父の愚痴を言わなかったからだと言う。
「お母さんにとってはお父さんはいい夫なのよ」
母は父に対して、子煩悩な父であって欲しいと願ったという。仕事柄、子を通して家庭環境や夫婦関係が見える立場にいる以上、母はそう願ったのだろう。
「お父さんね、毎日肩を揉んでくれるのよ」
「そうなの?」
「あと足のマッサージも」
子供が寝た後の夫婦の時間は、父は母を労る時間に充てていたという。私はそれを知らなかったとはいえ、見える部分で父を判断していたことを恥じた。
「お父さんね、お母さんの代わりに保育園のおたよりも作ってくれたのよ」
――ほのぼのおたよりが国税局職員作。
「奈緒ちゃんは、この人の子供を産みたいなと思う男性と出会えたら結婚すればいいよ」
「……子供」
「うん」
私は自分の腹に手を当ててみた。いつかここに命が宿る日が来るのだろうか。
恋人は相澤がいいと思っているし、夫も相澤がいいと思っている。だが、相澤の子供を産みたいと思ったことは無かったなと、母の話を聞いて思った。
相澤と結婚したら相澤に似たちびゴリラが産まれるだろう。私はちびゴリラの母になるのか。
相澤に想いを伝えたら受け入れてくれるだろうか。
私は相澤との関係を失くすことが怖くて、想いを伝えることが出来ない。
◇
午後十時十二分
私は今、両親を見送っている。
マンション付近のコインパーキングに停めた車はフラップ板を越え、私の前で止まった。
「気をつけてね」
「うん。楽しかったよ。またね」
後ろの席でシートベルトに守られながら体が斜めになっている父は、機嫌良く『奈緒ちゃんまたね!』と言いながら両手を振っている。
そんな夫を横目で見て微笑む母を羨ましく思った。
坂道を唸りを上げて登っていくコンパクトカーは私を置いて去っていく。
――結婚か。私だってしたいよ。でも……。
その時、ジャージのポケットに入れたスマートフォンが鳴った。葉梨だった。
「もしもし」
「こんばんは、葉梨です。今お電話よろしいですか?」
葉梨が電話をかけてくるのは珍しい。
おそらく予定のキャンセルだろう。これまでもそうだった。
「二十七日なんですが、別の日にお願いしたいです」
「うん、いいよ」
「申し訳ございません」
岡島からは既に連絡が来ていた。飲み会に葉梨も連れて行く、と。その日付が二十七日だったが、岡島には葉梨と会う日だとは言わないでいた。葉梨は岡島へ先約があると岡島へ言っただろう。だが岡島を優先させたようだ。
――ちょっと悲しいな。
「いいよ、また連絡して」
「はいっ!」
きっと、岡島は私との約束があったと知った上で、どうしてもとゴネたのだろう。
――物理的に抹殺してやる。
私は真剣に岡島を抹殺する方法を調べようと思った。
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