第21話 ラティーナとアディオスとパンイチと

 午後八時二十分


 メキシコ料理店を後にした私たちは、公園に行くことにした。


 符牒を決めるから防犯カメラがあるところでは無い方がいい。ここから十分ほど歩くと大きい公園があると葉梨が言い、私たちはそこに行くことになったのだが、公園までの道すがら、葉梨はメキシコ料理店の話を始めた。


 会計が済み、ドアまで見送りに来たラテン系の明るく朗らかな外国人女性店員が、『ノス べモス!』と言い、すぐにその店員は日本語で、『ノス べモス』はスペイン語で『また会おうね』という意味だと教えてくれた。

 店を出た私は、『アディオスじゃないんだね』と葉梨に言うと、『そうですね』と答えた。私はそれで話は終わったと思ったが、葉梨はまたその話を始めたのだ。


「加藤さん、アディオスは日本語で言うところの『さようなら』なので、あまり使わないようです」

「そうなんだ」

「あの、『さようなら』よりも、もう一段階上くらいです」

「えっと、もう会えないことがわかってる時とか?」

「そうですね、もう会わない時です」


 アディオスは二度と会うつもりがない時に使う言葉なのか。葉梨がこの話を私にした意図は何だろうか。それに葉梨は私の言葉を繰り返さず、視点を変えた。なぜだ。そう私が考えていると、葉梨は言った。


「加藤さんは、俺を守るって言ってくれましたよね」


 ――どうした。


 見上げる葉梨は前を向いたまま私を見ない。

 何か、言って欲しい。そんなことを考えながら歩いているうちに、目的地に着いた。


 公園の入口の脇には鋼鉄製の門扉があるが、緑豊かな広いこの公園は夜間も開いている。そこを通り抜けて中に入ると、すぐ目の前に噴水が見えた。

 賑やかな喧騒に包まれたオフィス街の外れにあるこの公園には、今はもうほとんど人はいない。


 不意に涼やかな風が吹き抜けていった。


 ふと見上げた空では大きな月が輝いている。煌々と照らす月光が、辺りの闇を払っているようだった。

 公園の奥の方にぽつりと見える街灯の光が、まるでスポットライトのように暗闇に浮かんでいた。


 公園に入ってからも葉梨は何も言わなかった。



 ◇



 途中にあった自動販売機で飲み物を買い、私たちはベンチに座った。


「葉梨、どうしたの?」


 葉梨は答えない。真っすぐ前を向いたままだ。

 私は背もたれに背を預け、空を見上げた。


 ――まだ、お腹が苦しい。


 輝く月を見上げながら視界の端に葉梨を入れているが、一ミリも動かない。だがようやく葉梨は口を開いた。


「こんなこと、先輩にお話することではないです。すみません。やめておきます」


 終わった恋の話だろう。

 岡島からは、葉梨の仕事に関しては問題無いと聞いている。仕事でないならプライベートだ。でも葉梨は話さないと決めた。

 ならば私は聞いてはいけないだろう。だって『加藤さんに』でもなく、『女性に』でもなく、先輩に話すことではないと言ったのだ。聞いてはならないだろう。


 葉梨が何も話さないのなら、私は中山陸さんの話をしようと思った。

 初めての出会いから六週間のトレーニング、任務後の療養中のことだ。任務のことは、話せることと話せないことがある。


「葉梨は警察官になって後悔したことある?」

「ええ、もちろんあります」

「そうだよね、私もあるよ」


 私はマンションに監禁状態にされた時、中山さんが初めにしたことを話した。


 中山さんは浴槽にお湯ではなく水を張って、その水が溢れ出した頃に私を浴室に呼んだ。『加藤、おいでよ』と優しげな声の中山さんの元に行くと、ジャケットにタイトスカート、白いブラウスを着た私の髪を掴み、上半身を浴槽に沈めた。体は中山さんに押しつけられ、両手も拘束された。

 息が出来なくて、水を飲んで、苦しくて、私は死ぬと思った。先輩にこんなことをされるような覚えは無いが、誰かの代わりに中山さんがやっているのだと思った。


 もうダメだ、死ぬと思って諦めた瞬間に髪を引っ張っられた。息をしたいと思っても出来ず、咳き込んでむせて、呼吸が出来なかった。その姿を中山さんは冷めた目で見ていた。

 やっと呼吸が出来るようになると、また中山さんは私を浴槽に沈めた。何度も何度も、中山さんは私が脱力すると顔を上げるが、私はもう死んでもいい、このまま楽になりたいと思って、身を任せた。楽になりたかった。だが中山さんはそれを許してくれなかった。


『ヤラせてくれるならやめてあげるよ?』


 嘲笑含みの声が私の耳に流れ込んだ。

 だが私は『嫌です』と言った。言って中山さんの目を見ると、中山さんは人間の目をしていなかった。

 私は浴槽にまた沈められ、何度も何度もそれを繰り返した。ずっと浴槽に流れ込み続ける蛇口の水の音は今でも思い出す。


「それをね、中山さんは二十時間続けたんだよ」


 私は『私も辛かったけど、中山さんも疲れるし辛かっただろうね』と言って笑おうとしたが、無理だった。


 ――ドン引きしてる。


「……どうしたの?」

「えっと……あの、そんなこと、を?」

「うん」


 私はその後、中山さんは私を殺す気は無いと思い至り、そのうち時間が来れば終わるだろうと考えて沈められていた。

 終わった後、浴室に放置された私はそのまま眠った。


 目が覚めると私は寝袋の中にいて、ベッドに寝かされていた。ベッドに腰かけて私を見下ろす中山さんに、『おはようございます』と言うと、中山さんは『お前ヤバいな、松永の言ってた通りだ』と言って、やることを指示した。

 だが私はベッドから起き上がったものの、あることに気づいた。服を着ていない、と。パンツは履いているがパンツだけだった。ブラジャーをしていない。これじゃ寝袋から出られないじゃないかと思い、部屋を出ようとしていた中山さんを呼び止めて、『今日はパンイチでやるんですか?』と訊ねると、『お前、マジでヤバいな』と言って、ジャージとTシャツを持ってきてくれた。


「ブラウスとブラジャーはね、中山さんが洗ってくれて、ベランダに干してあった。でも中山さんはブラジャーを干したことなんて無かったんだろうね。ちゃんとホックを着けて、肩紐を洗濯バサミで留めてたんだよね。几帳面だな、って思った」


 私はこれで葉梨は笑ってくれると思った。思ったが、甘かった。葉梨は夜空を見上げていた。


「あの、葉梨」

「はいっ!」


 私は結果を出した時に、中山さんに言われたことを葉梨に伝えようと思った。使用済みパンツの話はしなくてもいいだろう。理由を聞かれても答えられないし、そもそも理由を聞きたいのは私だ。


 葉梨をスカウトしたのは中山さんだから、もしかしたら同じことを言われたことがあるかも知れないが、言おう思った。


「中山さんが笑顔でね、『警察官なんて日本で一番割に合わない仕事。嫌なら辞めればいい。でも、人が好きな仕事、楽な仕事だけをしたら、世の中回らない。だから俺は警察官やってるだけ。そこに正義なんて無い。今の俺はお前を守ることが仕事。だから俺の命と引き換えに必ずお前を守る。俺の命はお前にくれてやる』って言ったんだよ」


 葉梨は何か言おうとしているが、何も言わない。


「葉梨、私は葉梨を守るから」


 私はそう言って立ち上がり、葉梨の腕を掴んだ。

『帰ろう』と言い、来た道を歩み始めた。


「仕事、辛い時かも知れないけど、私がいるから大丈夫だよ」


 葉梨はプライベートのことで悩んでいる。だが言わないのなら、仕事で悩んでいると勘違いした先輩役を演じればいいと、私は考えた。


 見上げる葉梨は笑っている。

 その笑顔を見て、何の解決にもならないだろうが、気分転換になれたのならいいと思った。



 ❏❏❏❏❏



 Nos vemos!

(・∀・) ノス べモス!






 

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