第20話 キュウリとタイヤとメキシコ料理と
九月四日 午後七時四十五分
私は今、不機嫌だ。
今日は望月さんのバーに来ている。松永さんはいない。
目の前にいる岡島は、任務で電話に出られなかった二週間分の話をしている。終わらない。終わる気配がしない。だが、聞かなくてはならない話題に変わったから私は頑張って聞いたのだが、不機嫌になった。
相澤に彼女が出来たことは松永さんから聞いたが、岡島は相澤が幸せそうにしているという。岡島も行った合コンで出会ったそうで、ご多分に漏れず小さくて可愛い女の子だ、と。
「昔の女なんて忘れて、さっさと結婚しちゃえばいいのにね、奈緒ちゃん」
五年前、私はその彼女と相澤がデートしている所を松永さんと見たことがある。それが原因で松永さんに私の恋心がバレたのだが、相澤はその彼女が浮気して別れた後、抜け殻になっていた。仕事にも影響が出て松永さんに叱られているのを見たことがある。
三年程付き合っていた二人は結婚するのだろうと私は思っていた。だが三年前に別れた相澤は、年一ペースで彼女が出来てすぐ別れてを繰り返している。
前の彼女が忘れられないのだと、松永さんは言っていた。
小さくて可愛い女の子――。
デカくて可愛げのない女の私は、叶わぬ恋をして十四年経った。
いつか裕くんの腕に抱かれたいと、裕くんに愛されたいと願って、十四年経った。裕くんが結婚すれば私の恋は終わるのだが、まだ終わらない。
「あんたはお持ち帰りしたの?」
「してない」
「なんで? 好みの子、いなかった?」
「いたよ。でもさ……」
岡島が続けた言葉に私は驚いた。葉梨がお持ち帰りしたという。葉梨は男だし、お持ち帰りしようとしまいと彼個人のことだからいいのだが、私はなんとなく、葉梨は女性と真面目にお付き合いするタイプだと思っていた。
「ラブホ入るの見てた」
「うわー、
「そうだけど……俺、ちょっとショックだった」
岡島も、葉梨は真面目で恋人がいるから合コンでお持ち帰りしたことが過去に無く、今回のことは驚いたという。それに相手の女が絶対に葉梨の好みのタイプじゃない派手なギャルだったから、なおさら嫌な気持ちになったらしい。
それに葉梨は短期間で痩せたようで食事を取っていないそうだ。食事も喉を通らない傷心の葉梨、か。
私が任務後の療養中に会った時は変わっていなかった。だが香水は……。あの香水は、彼女の思い出が詰まったものだったのだろう。
「あんたさ、葉梨の香水、今日つけてる、よね?」
「うん」
「いつ、つけた?」
「官舎出る時」
私はあれがトップノートなのかと思った。
駅の改札口で岡島を待っていたが、現れた岡島の纏う香りがなんとも形容し難く、困惑したのだ。
「トップノート、不思議な香りだね」
「うん、俺も最初びっくりした」
なんと説明すればいいのだろうか。車のディーラーにある新品タイヤ、だろうか。そこに何か他の匂いもあるのだが、語彙力が無いから上手く説明出来ない。
「葉梨はね、『寒い日にキュウリを齧りながらタイヤにライター近づけて溶かしてる時の匂い』って言ってた」
――どういう状況だ。
そこにバーテンダーの望月さんが皿を下げにやって来た。
「そのトップノートってさ、ディオールのファーレンハイトじゃない?」
――それなの、か?
岡島を見ると、『そうですよ』と望月さんに答えていた。
望月さんは、トップノートが苦手で敬遠する人もいるが、それを我慢すると良い香りになると笑いながら言った。
「情熱と冷静、男らしさと繊細さとか、相反するものを持ち合わせる大人の男のイメージだって」
「望月さんもつけてるんですか?」
「いや、俺は昔、女からもらったけど……」
望月さんは『今はつけてないよ』と言って、皿を下げて灰皿を交換してカウンターへ戻った。
「大人の男だって。あんたには早い」
「えー、葉梨はつけてたのにー?」
「あんたには早い」
◇
九月十日 午後六時二十五分
今日の葉梨は休みで、私の仕事上がりの時間に合わせて二人で食事に行く予定だ。
今日の私はスーツではなく、ライトグレーのワンピースの上にネイビーの長袖カーデガンを羽織っている。髪はアップにして、メイクはいつもより濃い目だ。
理由は手元が狂い、ラメ入りのブラウンのアイシャドウをごっそり塗り拡げてしまったからだ。まあ、女子あるあるだ。
待ち合わせ場所の駅前の広場に向かうと、葉梨はすでに来ていて噴水の前でスマホを見ていた。
十五メートル先に、ブルーのジーンズに薄いピンクの長袖シャツを腕まくりしている葉梨がいる。だが私は躊躇った。
葉梨の横に相澤がいる。そこに女性が近寄った。
――新しい彼女、だ。
相澤は葉梨にその女性を紹介している。相澤に寄り添う女性は小さくて可愛い清楚系の服を着ている。
私は隠れた。相澤に、葉梨に、見つかりたくない。
だが葉梨と目が合ってしまった。葉梨は私に気づいた。どうしよう。
◇
「おねえさん、ひとり? 待ち合わせ?」
――ナンパ、か。めんどくさいな。
「そうです、待ち合わせです」
「カレシ?」
「そうです」
立ち去った男と入れ違いに葉梨が来た。
葉梨は私に気づいていたが、話しかけている男を観察していて私に近寄らなかった。
早く符牒を決めなければ。私はそう思った。
「加藤さん、こんばんは」
相澤と彼女はもう去ったと言い、二人の予定を聞くと私たちとは反対方向へ向かうと言っていたと。
葉梨は私が隠れたことから、二人の行き先を聞いた方がいいと判断したそうだ。
「ありがとう。さすがに同期でも私は女だし、彼女にしてみたら気分は良くないからね」
並んで歩く葉梨を見上げると、やはり痩せたようだった。体格は良いから、痩せたところで変わり映えしないが、頬がコケて肌に艶が無い。
「あの、今の男性って……」
「ん? ああ、ナンパだよ」
この会話は前もしたな、その時の葉梨はスーツを着ていたなと思い出していると、葉梨から思いがけない言葉が落ちてきた。
「加藤さんは美人ですからね。男なら声をかけようと思いますよ」
そう言って微笑む葉梨は私の目を見た。
どうしたのだろうか。機嫌がいいのだろうか。リップサービス……そうだ、社交辞令だ。私は葉梨の先輩だ。今までは緊張していたから言えなかっただけで、慣れてきたから社交辞令を言えるようになったのだろう。
「ふふっ、ありがとう。でも……」
私は早く符牒を決めようと言った。ナンパは面倒だし、今日も葉梨にすぐに来て欲しかったと言うと、葉梨は目線を外した。
「ん? なに?」
「ああ、いえ、なんでもないです、決めましょう」
ああ、そうか。私は葉梨を守ると言ったのに、助けて欲しいだなんて言ってはいけないんだ。恥ずかしい。情けない。私は葉梨に謝らなければ。
私は葉梨を見上げて言った。
「あの、葉梨」
「はい!」
「ごめんね、私は葉梨を守るって、命をあげるって言ったのに助けて欲しいだなんて言って」
葉梨は少し眉根を寄せて、私を真っすぐ見た。
「あー、ははっ、大丈夫です。決めましょう、すぐに」
◇
午後七時十分
私は今、初めて食べるメキシコ料理を黙々と食べている。
メキシコ料理はタコスだけではないのだと私は初めて知った。
この鶏のスープ、美味しい。
スープを頼んだのにスープに入れるサイドメニューがたくさんついてくる。お得だ――。
メキシコのタコスは小麦粉ではなくてコーン粉なのか。しかも小さい。十二センチ位の薄いタコスを二枚重ねて食べる。理由はちぎれたら手が汚れるからだと。なるほど、と思った。
おにぎりに海苔を巻くようなものなのだろう。
アボカドのワカモレもサルサソースも美味しい。市販のものとは全く違う。
コロナビールはライムが飲み口に刺さっているが、料理もライムをかけて食べる。スープにもかける。テーブルにライムが、いっぱい――。
「葉梨、美味しい」
「そうですね、美味しいですね」
微笑む葉梨に私も微笑んだ。
葉梨はよく食べている。食欲があるのなら大丈夫だろうと思った。
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