第5話 チョコと狸とむーちゃんと
三月二日
私は今、絶望している。
葉梨と会う日のセッティングの件で玲緒奈さんに連絡をしたのだが、岡島からの電話に出ないとグーパンすると言われたのだ。
玲緒奈さんは葉梨と他二名をグーパンした件でグーパンを封印しているが、玲緒奈さんならやりかねない。絶対に。
承諾しなければグーパン――。
ならば私は岡島からの電話に出なくてはならない。だってグーパンは嫌だから。
――早めに、岡島を抹殺しよう。
私はそう決めて、次の休みは図書館に行こうと思った。
◇
三月十三日
私は今、チンピラと電話している。
玲緒奈さんに言われ仕方なく岡島に電話をかけ、これからは電話に出ると伝えたのだが、あれから毎日電話がかかって来ている。迷惑だ。
出られない時ももちろんあるが、大体は出られるので岡島と毎日電話するハメになっている。迷惑だ。
九割はくだらない話でムカつくが、一割はまともな話なのでしぶしぶ聞いている。迷惑だ。
「ねえ奈緒ちゃん、なんで葉梨に『十五キロメートルって何の条項?』って聞いたの?」
「葉梨は完全には理解してないから」
「そういうこと言うから葉梨は無理しちゃうんじゃん」
「知らないよ。あんたが仕込めって言ったからでしょ」
葉梨は生活安全部所属だ。仕事が忙しく勉強する間も無いことは理解出来るが、それを言い訳にしてはいけない。
「あんたは警察法覚えてんの?」
「……まあ、なんとなく」
「なら十五キロメートルって何?」
「六十の二の一。管轄区域の境界周辺における事案に関する権限で、施行令七の二の一」
「よく覚えてるね」
「えへへっ、葉梨が教えてくれたのー」
「…………」
「ふふっ、電話だといいよね、殴られなくて」
チンピラ岡島は隠れてこっそり勉強するタイプだ。要領も良い。葉梨が教えてくれたと
「奈緒ちゃんさ、葉梨にあの居酒屋の件、聞いてないでしょ?」
――あ、いけねっ、忘れてた。
玲緒奈さんのことを伝えたら葉梨がしょんぼりしたからすっかり忘れていたのだ。その後の電話でも忘れていた。
「葉梨から聞いてね」
「なんでよ」
「葉梨が何を言うか、どう言ったのか、それを俺に教えてよ」
――試してるのか、私を。
このチンピラめ。
あの居酒屋は誰かの息がかかってる店だ。既に内偵は進めているのだろう。葉梨が何かに気づき、それを岡島に伝えた。
松永敦志さんの件なのだろうか。玲緒奈さんが岡島の電話に出ろと言うのは敦志さんの件で確定なのか。分からないが、ただ一つ言えるのは、岡島を早めに抹殺すればいい、ということだ。
――そうだ、図書館へ行こう。
◇
四月十九日 午後二時二十分
平日昼間の住宅街。
桜は散ったが、ミモザが眩しく輝いて青空に映えている。
『今日もいい天気ですね』と葉梨が言う。私は黙って頷いた。二人の間に沈黙が流れる中、私たちは歩いている。
今、私たちは玲緒奈さんに会うために向かっている。玲緒奈さんの自宅へ――。
葉梨は濃紺のスーツにネクタイを締め、私はライトグレーのパンツスーツだ。
私たちは共に菓子折りを持っているが、私も葉梨も同じ菓子メーカーの紙袋を持っている。
――被って、しまった。
悩んだ時はコレ、と八割方の人が納得するであろう菓子だ。名は思い出せないが、薄ーいクッキーをくるくるっと巻いて葉巻のように見立てたクッキーだ。美味しいし、空き缶は何かに使えるから八割が納得するお菓子だ。
「ねえ、何本入りの買ったの?」
「十八本入りです」
――二十本と三十本入りしか無かった気がするが。
「十八本?」
「はい、チョコの方を買いました」
――裏切り者め。私はノーマルを買ったのに。
私の顔を見て察したのだろうか、葉梨は口元に笑みを浮かべるとこう続けた。
「末のお嬢さんがこれを好きだと聞いたことがありまして」
――葉梨はそこまで把握しているのか。
私はそんなことを考えてもいなかったのに。二十本でいいやと思ったのに。
葉梨は凄いなと思う。捜査員としての能力の高さもあるけれど、人の心の動きをよく見ている。私がそこまで気が回らないことを葉梨は見越してした。
葉梨を尊敬するけど、ちょっと怖いなとも思った。
◇
玲緒奈さんの自宅に着き、私たちは呼吸を整えた。
「……頑張ろう」
「はい……」
葉梨と出会い、初めて心が通じ合った瞬間だなと思いつつ、インターフォンを押そうとしたその瞬間――。
「何を頑張るの?」
「ひっ!」
インターフォンとポストがある塀の向こうから玲緒奈さんが姿を見せた。刈込鋏を手に持って――。
「ごめん、もう時間か、ごめんね」
庭木の手入れをしていた玲緒奈さんは時間をよく見ていなかったという。隣の葉梨は固まったままだ。
刈込鋏を手に持つ玲緒奈さんに誘われ、玄関に入るとシューズボックスの上に小さい狸の置物があった。あの居酒屋にあった初代の狸だ。
「玲緒奈さん、これ、直ったんですね」
「そうそう」
玲緒奈さんが破壊した小さい狸の置物は、玲緒奈さんの真ん中の息子さんが直したという。見事に直っていた。
あの日、玲緒奈さんは狸の置物の欠片をダンボールに入れて持って帰り、電車の中で隣り合った人に狸の置物の欠片を見せて笑っていた。
「今日ね、うちの人もいるのよ。でもこの後、仕事なんだけどね」
――
久しぶりにお会いするなと思っていると、玲緒奈さんは室内に向かって大きな声で叫んだ。
「むーちゃーん!」
――犬? 飼ってたっけ?
「なにー?」
久しぶりに聞くその声の主は
敦志さんは廊下の奥の部屋から顔を出したが、玄関に私たちがいることに動揺した。玲緒奈さんは振り向かずに後ろにいる私たちの気配を覗っている。これはもしかして――。
葉梨はこれを把握していたのかと私は横目で見たが、ものすごい目ヂカラで狸の置物を見ていた。
多分、知らなかったのだろう。私だってそうだ。知らなかった。玲緒奈さんが敦志さんを『むーちゃん』と呼んでいるだなんて。だが私は警察官だ。
――まつながあつし、だからむーちゃん。
はい、そうです。むーちゃんです。むーちゃんで間違いありません。
私は納得した。
余計なことは考えず、ただ黙って納得しておけばいいのだ。警察官などそんなもんだ。黒い物でも上が白と言えば白なのだ。松永敦志さんはむーちゃん。そうだ、むーちゃんだ。紛れもなくむーちゃんだ。
葉梨もそう思い至ったのだろう。私と葉梨は一気に仕事モードになった。もちろん玲緒奈さんと会うから九割方仕事モードだったのだが、今は完全に仕事モードだ。
玲緒奈さんは固まったままだ。さすがに向けないだろう。何せ夫を『むーちゃん』と呼んでいることが後輩にバレたのだから。
気まずそうに敦志さんがこちらへ寄ってきた。
「ご無沙汰しております」
「ああ、久しぶりだね」
葉梨と共に頭を下げている間、玲緒奈さんは廊下の奥へ消えた。
その姿を横目で見た敦志さんはこう言った。
「俺、もう仕事行くから。後は二人で、耐えて。頑張れよ」
私たちは、むーちゃんに、見捨てられた――。
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