第6話 秘密と油断と直くんと
四月十九日 午後六時三十五分
いつものことだが、玲緒奈さんは門扉の前で私たちの姿が見えなくなるまで見送ってくれる。
松永家はちゃんとしたお宅だ。途中でお子さんも帰宅して、真ん中の息子さんと下のお嬢さんも一緒に私たちを見送ってくれた。
私たちは玲緒奈さんらに別れを告げ、曲がり角で立ち止まり、再度挨拶した。そして曲がり角に一歩踏み出した瞬間、走り出した。全力で走った。
一秒でも早く玲緒奈さんから、玲緒奈さんの家から、居住エリアから逃げたいと思って走った。
あの玲緒奈さんが夫を『むーちゃん』と呼んでいるなんて思いもしなかった。
年末でもないのに『笑ってはいけない先輩宅』とはどういうことだ。私たちはギリセーフだったが、当のむーちゃんは後輩の私たちを置いて逃げたし、歯を食いしばっていた葉梨はものすごい目ヂカラでガラの悪い中堅構成員みたいだったし、私はずっと太ももに爪を立てていたからちょっと痛いし。なぜこんな思いをしなければならないのか。私はそう思った。
警察官にならなければこんな思いはしなかったはずだ。まつながあつし、だからむーちゃん――。
――どこを、どうしたら、むーちゃんなんだ。
私の家は公務員の家系だ。あの時、父と同じ国税局へ奉職すればよかったんだ。そうすればむーちゃんの衝撃に耐えなくてもよかったんだ。
「はあっはあっ……かっ……加藤さ……加藤さん!」
「なに?」
「まっ……待って……はあっはあっ」
ここは曲がり角から五百メートル程走ったあたりだろうか。葉梨は息が上がっている。私は速度を落とし、後ろにいる葉梨を待った。
「あんた私より前を走ってたのに」
「はあっ……はあっ……はひ……」
走り出した後、葉梨は私の前を走ったが、チラッと私を見て速度を緩めた。気を遣ったのだろう。だが私はその気遣いにムカついて全力で葉梨を追い抜いた。
今日は五センチのヒールだが、日頃のトレーニングのおかげでヒールを履いていてもタイムはランニングシューズの一割減で済んでいる。
「あんたさ、足、遅くない?」
「はあっ……あの……な……ではあっ……なんで……」
葉梨は、私が足が速いということは岡島に聞いていた、でもここまで速いとは思わなかった、ヒールを履いているから走れないと思った、と言ったんじゃないかな、多分。息が上がっている葉梨はそんなことを言ったのだと思う。
「トレーニングしてるから」
「……はあっはあっ……そ……ですか」
呼吸の落ち着いた葉梨と、汗ばむ肌をデオドラントシートで拭きながら歩いた。
私たちは、『むーちゃん』について話し合わなければならない。
だがまず、ここから逃げ出したい。
私たちは電車でとりあえずターミナル駅へ行くことにした。
◇
午後七時二十分
ターミナル駅の改札口を出て、私は葉梨の腕を掴んで身を寄せ、小声で『静かな所で二人きりになりたい』と葉梨に言うと、葉梨は動揺した。なぜだろうか。
私は他人に、『むーちゃん』と発音している姿を聞かれたくないのだ。だってちょっと恥ずかしいし、葉梨だって嫌だろう。
「どこがいいと思う?」
私はこのターミナル駅で降りたことが無い。繁華街があることは知っているが、ここの所轄は縁が無いし、何も知らない。葉梨の経歴を考えると知っていると思って聞いたのだ。
「カラオケかな?」
「ああっ! はい!」
何か他にいい所があったのだろうか。私はカラオケに行きたいわけではない。葉梨と二人で静かに話せる場所を探しているだけだ。
◇
私たちはカラオケ店に着いた。チェーン店のようだが、平日だからか空いていた。
受付を済ませて個室に入り、L字のソファにそれぞれ座って、ドリンクを飲みながら話し合いを始めた。
「玲緒奈さんの秘密を知ってしまった。これは口外してはならない」
「はい……」
「私たちは秘密の共有をしたことになる」
「……はい」
「これから先、私と葉梨は運命共同体だ」
「はい……」
「葉梨、私は葉梨を必ず守り抜くから」
「…………」
「返事は?」
「はいっ!」
――相互監視、か。
だが玲緒奈さんは罠を仕掛けたはずだ。あの玲緒奈さんが何もしないわけがない。
流失経路を特定させるために何かしたはずだ。おそらく私がトイレに行った時だ。私が立ち上がると葉梨が今にも泣きそうな顔をしたが、それをガン無視してトイレに行った時だ。若干、緊急だったんだよ、すまんな葉梨。
「私が洗面所をお借りした時、玲緒奈さんと二人だったでしょ?」
葉梨は今、油断していた。私の言葉に目をそらしたのだ。
玲緒奈さんから解放され、秘密の共有者である私と二人きりの今、油断するのも仕方ない。だが、玲緒奈さんと何かあったと私に知られた。
「葉梨」
「……はい」
「正直に話して」
「お話出来ません」
「そう」
きっと葉梨は、私が『殴るよ』と言うと思ったのだろう。葉梨の体が強張っていた。でも私は言わなかった。葉梨は絶対に言わないと思ったから。
それに目をそらしたのは葉梨の演技かも知れない。
私はまだ葉梨をよく知らないから判断が出来ないのだ。
だがこうして会ったり、電話したりする中で葉梨がどんな人間なのか、そのうち理解出来るようになるだろう。
ただ一つ言えることは、葉梨は信頼出来る、私はそう思った。葉梨は玲緒奈さんとの約束を守っているから。
「とりあえず、歌おうよ」
「ええっ!?」
◇
午後八時五十二分
今、私は改札口の向こうにいる葉梨の後ろ姿を隠れて見ている。
――官舎最寄り駅はそっちのホームじゃないだろう。
葉梨は官舎に戻る気は無いようだ。
何か予定でもあるのか、それとも仕事か。
私には関係無いことだが、カラオケ店にいる時に葉梨はスマートフォンを気にしていたから、私たちは食事をせずに帰ることにした。
予定があるのならそう言えばいいのにと、私は葉梨の後ろ姿を見て、そう思った。
◇
午後九時四十四分
自宅に戻った私は風呂に入ろうと洗面所に行くと手に持ったスマートフォンが鳴った。画面を見ると葉梨からメッセージだった。
――官舎に戻った時刻、だ。
葉梨は官舎とは逆方向へ行ったが、こうしてまっすぐ官舎に帰った場合の時刻にメッセージを送ってきた。ならば仕事ではなくプライベートだったのか。
――なぜこんなことをするのだろうか。
私はリビングに戻り、電話のアイコンをタップしてチンピラ岡島に電話をかけた。
呼出音がして、三回鳴った時に岡島は出た。
「もしもーし! 奈緒ちゃんから電話くれるなんて嬉しいなあー」
「あの……」
「あははっ! 奈緒ちゃん元気そうだね!」
岡島は車内にいて、誰かいる。公用車だろうか。
私に違和感を覚えたのか、ドアを開ける音がして、岡島は車から出た。静かな場所だ。衣擦れの音がする。少し移動したようだ。そして岡島は声をひそめて言った。
「奈緒ちゃん、どうしたの?『バカなの』って言わないの? 体調悪い? 何か嫌なことでもあっ――」
「あの、会いたいの……ダメ?」
「えっ……」
今日、カラオケ店で葉梨からあの居酒屋の件を聞いた。私は今、岡島にそれを伝えてもいいのだが、顔が見えない電話だと岡島の機微がわからない。
岡島は私を試しているのだ。ならば私だって岡島を試してもいいだろう。
「直くんに、会いたくて」
「あっ……えっ……」
「会いたいの」
明らかに動揺するチンピラの顔を思い浮かべて笑いがこみ上げてくる。
岡島を騙すのはチョロい。
警察官なのに寄ってくる詐欺女を見抜けず毎回騙される馬鹿につける薬は無いのだ。私はそう思いながら、もう一度、言った。
「直くん、お願い……」
「えっ、あ……うん……」
――抹殺するチャンスがついに、やって来た。
私は笑いを堪えながら改めて連絡する旨を伝えて電話を切った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます