イノチ

見知らぬ女の子にツイてると言われて数日後、すんでの所で事故に会いそうになった。


あの日は2件目のバイトまでの時間があんまりないのに電車が遅れていた。二駅だし急げばギリギリ間に合いそうだと思い、雨上がりの中小走りで駅を出た。夕食時をとうに過ぎた駅前の人通りは疎らで、湿り気を含んだ空気は冷く重たかった。暫く休みなく働く日が続いていたせいか、体が少しだるかった。

「まじ、だりー。」

近道の路地を抜けると前方の青信号が点滅し始めるのが見えて、赤になる前に渡ってやろうと走り出した所、横断歩道へ踏み出す直前にいきなり誰かに後ろからかなりの力で引っ張られた。その拍子に後ろへバランスを崩してちょっとよろけた鼻先をバイクが鋭くクラクションを鳴らして走り去った。その勢いに前髪が舞うのを感じてビビった。

「おー、危ねー。…あっ、あり…」、とお礼を言いいながら振り返った。

グイっと引っ張られた感覚はジャンパーの袖に確かに残っていて、何ならまだ掴まれているとさえ思っていたのに、俺の後ろは空っぽで、目に映るのは街灯の光を映す濡れたアスファルトだけだった。グルっと見回したけど、やっぱり誰もいなかった。すると、またさっきの袖がクイ、クイっと引っ張られた気がした。「えっ?」感覚の残る袖を見下ろすと、フッと抵抗がなくなった。


ただ、ゆっくり考えている暇は無かった。ようやく見つけた好きなバイト。警備会社の仕事で、駐車場の夜間見回りをしている。年配の先輩警備員の佐々木さんと交替で、2時間に一回、大して広くない駐車場を見回る。夜間レートだからバイト料も割にいいし、車の出入りが無ければ、巡回以外は暇で何していても咎められることもない。佐々木さんは、「ここはいいよ。長い夜、電気料も気にせずにこんなに暖かい所で本が読めるんだからね。家にいるよりよっぽどいいさ。」、などと本気かどうか分からない事を言っては、セキュリティーカメラの監視画面を前に本を開いて、いつもうつらうつらしている。これだけ気楽な仕事場はそうそうない。夜はどうせ余計な事ばかり考えてウジウジするから、こういうバイトはある意味救いなのだ。ただ時間厳守とはいつも言われている。ちょっとの遅刻で首になるのはごめんだ。


そして青信号に変わる前から、左右をちゃんと確認して横断歩道を渡った。誰かに見られている様に感じたから。


ほとんど走り通しで駐車場に着いたのはシフト開始4分前だった。佐々木さんはもう警備員室にいて、いつものように軽く片手をあげて挨拶してくれた。制服に着替えて、一息つき、鏡を覗き込んだ時、もしかしたらさっきあのバイクに引かれていて死んでいたかもしれないと思った。そして、強く引っ張られた腕に触れて、助けてくれた人の事を考えた。


この日だけは、不思議に死ななくてよかったと思った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る