エニシ

 ユウは職場の同僚の甥っ子だった。その同僚は親しい友人か、と言われれば、それも違う。なぜって、彼女は私より少なくとも10歳は若く、内向的な私とは真逆の、とにかく開けっ広げな性格で、誰彼構わず何でもよく喋るので、どちらかと言うと苦手なタイプだった。だから、彼女と同じ部署に配属されて数カ月は目立たない様にミニマムコンタクトを心がけていたぐらいだった。

 それが、とあるお昼休憩、職場の休憩スペースで食後のコーヒーを飲んでいた時「ここいいですか?」、と声を掛けられたのだ。『ミニマム、ミニマム…』と心の中で唱えながら、そこそこ社会経験を積んできた器の大きい先輩OL気取りで

「あ、林さん。どうぞ。」、と言って隣の席からカバンをどけた。彼女もコーヒーを注ぐと、深く腰をかけた。

「風間さんって、ランチいつもここですよねぇ。外行かないんですか?」、とテーブルの上の紙袋の中を覗き込もうと腰を浮かせた。初っ端からこちらの苦手意識を助長するような行動に、曖昧に笑いながら、

「うん、まぁ、外に出ると、時間気になってゆっくりできないから。」、と言ってそっと袋を彼女から遠ざけた。

「あぁ、そうなんですね。で、風間さん、って、どう思います?」

 あまりにも脈略に欠ける話題を振られて驚いている私のことなどお構いなしに、彼女は続けた。何でも妹さんが妊娠して結婚する事になったのだが、相手の事をそんなに好きな様にも見えないし、見切り発車的で先が心配だと言う。

「で、聞いたんですよ、妹に。本当にあの人でいいのって。そしたら、『自分が結婚できないからって私の結婚に余計な口挟むのやめてよね』、って、目くじら立てて。こっちは心配して言ってるのに、取りつく島なくって。どう思います?」、と表情豊かに興奮気味にまくし立てるのを聞いて、

「そう。…まぁ、二人の関係は当人同士にしか分かんないしね。二人の時は案外ラブラブなのかも知れないし。」、と思ってもいない当たり障りのなさそうな事を言ってみた。

「そうかな…。あの子、昔っからちょっと捨て鉢なとこあって、後先考えないから心配なんですよね。妹が良くても、子供はね。だって、責任あるわけじゃないですか。」

「そうね…。」

 私は一人っ子で不自由なく育った。これといった不満は無かったけど、両親や家には特に愛着も無く、大学入学を機に迷わず家を出た。それからは節目節目に顔を合わせるけれど、親も私も示し合わせたようにお互いに干渉しない。そのせいか否か、当時30代前半だった私には結婚願望も無ければ子育て願望も皆無だった。なのに、この時同僚が言った「子供」の響きに、なぜか心がザワっとした。

 その日以降、私の心は林さんを見る度にザワつくようになった。彼女はと言えば、時々私を休憩室で捕まえては、妹の近況を勝手に話し、数カ月後には、子供が無事生まれた事を知らされた。

「風間さ~ん、見て下さいよ~。生まれたんですよ、甥っ子ちゃん。」話す機会が増える度に林さんは物理的な距離も縮めてきていた。ほとんど肩が触れ合う距離で見せられたスマホの画面に映った生まれたばかりのその子は、少し口元が緩んで笑っている様に見えた。その無防備な姿に、心が震えて目が潤んでくるのが分かった。

「生まれたての頃はお世辞にも可愛いって感じじゃなかったんですけどねぇ。慣れてくるとだんだん愛情が湧くんですよ、不思議と。」

「ううん、可愛いよ。とっても。」彼女に言った初めての本音だった。そして考える先に「ねぇ、お誕生祝い送ったら迷惑かな。林さんから色々聞いてたせいか、何か他人の子に思えないのよね。」と口走っていた。

「えー、本当ですか。嬉しいなぁ。じゃ、今度、一緒に会いに行きます?妹に言うとちょっとややこしくなるんで、内緒で。あの子、ベビーシッターしてあげるって言うと喜んで出かけるんで。」

 自分らしからぬ衝動的な言動を不可解に思いながらも、二つ返事で了解してしまった。そして初対面の日、居間には命名の色紙がまだ壁に掛かっていて「あ、ユウト君?」と言ったら「いえ、それでハヤトって読むんです。」と直された。でも、一目見て『ユウトだ。』と思った。初めて見たユウの寝顔、抱いた時の暖かい重み、そして真っ赤な泣き顔、その全てがめくるめく心を揺らした。「幸せにしなくちゃ。守らなくちゃ。」、と感動と共にそんな感情が脈打つように滾々と湧き始めた。


 ユウに会ってから、時々ユウの夢を見る様になった。

 その後も、ユウの様子を林さんから聞いていたせいか、夢の中のユウもハイハイができる様になり、歩ける様になり、片言ずつ話せる様になり、と順調に成長していった。ただ、話しの端々からユウの家庭環境の方はそれほど順調ではない事が感じられていた。そして、2歳の誕生日を迎えて間もなくユウの両親は別居。母親に連れられて家を出たものの、母親は仕事を数件掛け持ちしていて家にいないため、ほとんど祖母に預けられっぱなしだという。『力になりたい。でも他人の私にできる事なんて…。』と悶々としていた時、林さんの転勤が決まった。


「心配なのはハルなんですよ。春から保育所なんです。まぁ、母の負担が減るのはいいんですけど、環境変わると大変な子もいるっていうじゃないですか。ハルの母親はいないも同然だし…。でも私は遠くなるから、今と違ってすぐに駆け付けられなくなりますし。」そのため息交じりの彼女の言葉に飛びついた。

「ねぇ、私の出る幕じゃない事は承知の上なんだけど、私が林さんの代わりに時々ハル君の様子見に行くってのはどうかな?ハル君が元気にしてるかチラッと確認して林さんに報告するぐらいできると思うんだけど。」

「うーん、それは助かりますけど…。でも、いいんですか?」

「もちろん。だって心配なんでしょ。ハル君の事はよく聞いてたし、ほら一度会わせても貰ってるし、他人事じゃないっていうか…。それに、大きくなったハル君にも会ってみたいし。」、と言ってから、『ちょっと押しが強すぎるか』、と思いつけ足した。

「まぁ、保育所に慣れて元気にしてる様なら、めでたしめでたしで、お払い箱って事で。」

 その一言を聞いて、安心したのか、いつも預けられているという母親のアパートの住所と春から通う保育所の名前をメモして渡してくれた。

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