第17話 泥

「いや、単なる思いつきですよ。話半分で聞いてください」


 音吉は慌てて、違うとばかりに手を振って話を変える。


「そのほか、手がかり……と言えば、この紙かなあ」

「音吉さんが読売に使っている紙は?」

「私の使う紙は、武蔵国で作っている紙です。私はできるだけ安くとお願いしているので薄くて破れやすいのですが……それで、ええっと、このびらの紙は」


 音吉は何度も紙の隅っこを折り返すが、破れる気配が無い。


「かなり強靱な紙ですね」彼は首をかしげた。「そういえばこの紙の色、どこかで……」


 びらは黄色みのある薄い茶色をしていた。

 りのが期待を込めた目でじっと音吉を見上げる。それに気がついた音吉は眉をピクリと動かし、頭から記憶を絞り出すかのように目を閉じて眉間に皺を寄せた。

 ふと頭の片隅に、上方でよく立ち寄った商家の番頭の手元がぐいと拡大される。


「あ」

「わかったの?」りのが思わず、音吉の袖をひっぱって急接近する。しかし、息をのんで硬直した音吉の反応に彼女は慌てて手を離した。

「ええ、多分……」


 平静を装って音吉が口を開く。茶色の紙は記憶の一場面とぴったり重なっていた。


「上方に居たとき、商人達が帳簿を付けるのに使っていた紙に似ています。なんでも、火事が起きたときにはそのまま井戸に放り込んでも、破れない強い紙だそうで」

「それは、何という紙なの? どこで作られているの?」

石見いわみの国で楮から漉かれている石州せきしゅう半紙です。このびらは半紙を半分に切った大きさですね。普通は原料となる楮の皮を白くなるまで剥ぐのですが、強い紙にするために石州では黒い皮を剥いだだけでわざとその下の緑の甘皮を残すので、真っ白になりません。この紙なら空からばらまいて、水に落ちても破れにくい。しかし数多有る紙からこれを選んだとは、紙のことをよく知っている者ですね」

「そんな遠くの紙を多量に購入できるなんて、黒天馬の一味は資金が潤沢なのかしら」

「さあ、黒天馬があれば、わざわざこちらで高い紙を買わなくても石見に行って買う事はたやすいことでしょう。しかし、この紙は自由に売り買いできず松江藩の専売になっているはずです。と、すれば買ったのではなく、こっそり作らせたのかも」

「いずれにせよ、この紙の産地を探ってみればいいのかしら――」

「何かの手がかりがあるかもしれませんね」


 音吉の言葉に、りのは険しい顔つきでうなずいた。黒天馬が出没してから、気がかりなことが多く、充分に眠れていない。うっすらと目の下に隈ができている。

 何を思ったのか音吉ははたと手を打ち、向いのお菓子処と書かれた看板を指さした。厚みのある立派な看板で、小さいながらも洗練された店構えだ。


「さっきのお礼におごらせてください」


 青年はすぐに、小さな紙包みを持って戻ってきた。


「これはあの店の新作、泥の揚げ菓子です」


 仰々しい包みを開けると二寸半ほどの黒くてゴツゴツした棒状の揚げ物がたったひとつだけ入っていた。


「え、ど、泥っ?」


 音吉はにっこりとうなずく。


「ええ、なかなかいけますよ。俺、菓子の名店が多い上方から来たんで、時々この店で発売前の菓子を食べさせて貰って、味の感想を聞かれるんです。今日は知り合いのよしみでまけて貰いました」


 りのは平然としている音吉を見上げる。泥を食べるなんて……しかし、音吉の好意を無にはできないとばかり目をぎゅっとつぶって口の中に放り込む。

 サクッ。揚げ菓子特有の軽快な歯触り。

 しかし、次の瞬間。眉をひそめて彼女は音吉を見つめた。


「これ、ゴボウ……?」


 覚悟して味わった菓子は、ゴボウの香りがする甘くて香ばしい揚げ菓子だった。

 初めて食べた美味にりのは目を丸くする。


「ははは冗談ですよ、これに泥は入ってません。すったゴボウに米粉と近頃さつまの辺りで作られ始めた黒砂糖を混ぜてごま油で揚げた、見かけによらず高級なお菓子です」

「もう音吉さん、だましたわねっ」


 りのがほほを膨らませて、そして相好を崩して笑い始めた。


「ああ、良かった。笑ってくれた」音吉がつぶやく。「今日は全然読売りが売れませんでしたが、お嬢さんの笑顔が見られて幸せな気持ちになりましたよ」


 音吉の優しいまなざしに、りのは微笑む。


「音吉さん、いろいろとありがとう。黒天馬の正体が暴かれて、読売りが飛ぶように売れるようになることを祈っているわ」

「ええ、そうですね」音吉は困ったように笑う。「でも、約束してください。私の事でもう危険なことはしない、って」


 彼の視線は、りのの着物の裾と草履の泥に向けられている。

 路地に走りこんだ男を足払いした時についたものだ。

 りのはそっとうなずいて一礼すると、人ごみの中に消えていった。

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