第15話 黒天馬再び

 日本橋。

 それは徳川家康が江戸を開いたその年に、神田川の分流を整備した飯田堀にかけられた大きな橋である。江戸の中央にして、各地につながる五街道の起点、その名はまさに日本国の中心となるべく名付けられたものだった。

 その両岸には大型商店が軒を連ね、北には魚河岸が並ぶ。

 仰ぎ見れば富士の山、満々と湛える飯田堀の水。そしてアリが群がるかのごとくひっきりなしに行き交う人々のざわめき、叫び、怒鳴り声。日本橋は町の脈動があふれ出ているような場所であった。


 しかし、いきなりその喧噪けんそうが鎮まった。

 道行く人々はポカンと口を開けて上空を見つめている。

 その視線の先、カラスが渦を巻いているように見える黒い塊から半紙の半分くらいの紙がはらりはらりと紙吹雪のように舞い落ちてきたのである。

 橋の上、水の上、建物の屋根。

 紙には墨で何やらおどろおどろしい絵と、文字が刷られていた。

 小さな黒い粒は徐々に高度を下げて天空に渦を描く。


「く、黒い天馬だっ」


 天を指さし誰かが叫んだ。指の先には、大きな黒い羽根を広げた天馬の群れが悠々と空を駆けている。群れから外れた数匹は、急降下して光る蹄で屋根を蹴る。砕けた屋根瓦が飛び散り、人々から一斉に悲鳴があがった。


 威嚇するように狂ったようにいななく馬と、真っ黒な異形の面を付けた乗り手達の奇怪な叫びに驚いた人々は、悲鳴を上げながら押し合いへし合いしながら建物や軒下に入る。中には橋の上から川の中に飛び込む人々も出て、橋の周囲は大混乱に陥った。

 ひとしきり狼藉を働くと、馬たちはまるで上空に吸い込まれるように消えていった。

 天馬が居なくなったのを確かめて出てきた人々は地上に散乱した紙を拾い上げる。 そこには角が生えた猿のような異形の絵が描かれ、『蒼天そうてんすでに死す、黒天こくてんまさに立つべし』と記されていた。


「ありゃあ、以前大天馬町に現われたって噂の黒天馬か」

「まあ、見るからに吉兆じゃないよな」


 町人達は恐怖の面持ちで黒天馬が去って行った方向を眺めた。




「日本橋に続いて浅草、これでビラが撒かれるのも二カ所め。天空に現われたと思ったら、面妖なビラを撒いて去って行く。なんとかならぬのか、お前たち」


 南町奉行、神尾元勝かんおもとかつが苦虫を噛みしめたような顔で御天馬隊の面々を見つめた。尖った鼻、頬骨の目立つ峻厳な顔。一本の乱れもなく結い上げた白髪の混じる髪。その生え際、右のこめかみの青筋がピクピクと動き、彼の焦りを代弁していた。


「ええい、わしがもう少し若ければ家々の軒にかじりつき、屋根を踏み越えてでも駆けつけて、捕らえてやるのに」


 細い鼻の穴からこれでもかというほどの鼻息を吹き出し鶴のように細身の南町奉行は歯嚙みする。胸の内に煮えたぎるものがあるのか、彼はぎらぎらしたつり目で握りしめたビラをにらみつけている。

 以前から同心を率いて現場に駆け付け、吉原で起こった力士と狼藉者の騒ぎを見事鎮圧するなどして喝采を浴びてきた神尾である。六十の齢を超えた今でも、ここぞという事件では周囲の諫めも聞かず現場に飛び出していた。せっかちで万事に厳しいが、実際に結果を出す南町奉行は江戸の人々の絶大な支持を集めていた。

   

「すみません、毎回知らせと同時に出撃しているのですが、奴らは神出鬼没、着く頃には姿を消しており……」


 りのの答えに神尾は小さくうなずく。


「すまない、良くやってくれているお前達を責めるつもりはさらさらない。だが、期待する余りに声が大きくなってしまったのだ」


 そう言うと、気は短いが情のある南町奉行はもう一度ばらまかれた紙を手に取りしげしげと眺める。

 そこには、くだんの文句以外に、不吉な文言と火を纏った動物のようなおどろおどろしい絵が刷られていた。文言は同じだが、絵は毎回違っている。二回目となれば、さすがに江戸市中に噂が流れ、世間も不穏な空気に包まれ始めていた。


「蒼天已に死す、黒天当に立つべし……か」

「御奉行様、それはどういう意味ですか」


 小さいころから天馬乗りになるための訓練と忍術の鍛錬に明け暮れてばかりいたため、りのは漢字をほとんど知らない。もちろん漢文などさっぱりだ。

「この文言もんごんの元になっているのは、唐土の後漢という時代の末期に張角ちょうかくという導師が起こした「黄巾こうきんの乱」で反乱軍の理念を完結に伝えるために使われた言葉だ。『蒼天已に死すべし、黄天こうてん当に立つべし』、これは今の天は終わりを告げた、黄巾党が新たな時代を作るという意味だ。それをもじって、次は黒い天馬の時代が来るとでも言いたかったのだろう」

「黒い天……妖天玉の色にも思えますね」カンナがじっと文面を見る。「もしかして、妖天玉と、徳川の世の転覆をたくらむ誰かが結びついたことで、今回の妖異が起こっているのかも」

「家光様のご容態が芳しくない。確かにここで世情の不安を煽って徳川の世を危うくしようという魂胆かもしれんな」


 苦虫をかみつぶした顔で神尾はつぶやいた。幼い頃に一寸先は闇の乱世を経験した彼は、ようやく安定しつつあるこの平穏な世がこれからも続いていくことを切に望んでいる。


「これからさらに発展していくだろうこの江戸を、いや日の本を守らなければならん」


 りのは上空から眺める、江戸の丑寅うしとらの方角を思い浮かべた。上空からの捜索では変わりない市中の暮らしが続いているように思えるが、妖天玉が煙と化して消えていったところで何が起こったのか、いや、起こっているのだろうか――。

 そして、今度天馬に会ったときに、自分は戦えるのだろうか。

 りのは、息ができなくなった自分を思い出して、唇をかみしめた。

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