第13話 脳天霞の夏火鉢

「抱え込まない……か」


 りのは、文机の上に広げた読売りをじっと見ている。だが、最近は常に顔面に出ていた眉間の皺がなくなっていた。

 皺の寄った読売りには、右上に黒天馬、左下に白い天馬に乗るりのと恵鈴とカンナが描かれてある。中でも忍び装束に身を包んで颯爽と先頭に立つりのは、ほぼ目だけしか出ていないが、見ている本人が恥ずかしくなるくらいに美しく描かれていた。


「何、これ」恵鈴がりのの肩越しにのぞき込む。「例の読売りの最新版?」


 自分もなかなか魅力的に描かれていることに満足したのか、恵鈴はにんまりと微笑むとりのの方を向いた。

 りのの目がとろんと半眼になっている。頬も赤い。


「熱いわ、熱があるんじゃないの?」額に手を当てて恵鈴がつぶやく。「黒天馬との戦いのことを考えすぎて知恵熱が出たの? 早く寝なさい」


 ぼんやりとするりのを恵鈴がひきずるようにして布団に連れて行く。


「いいこと、思いついちゃったんだあ」


 布団に潜り込みながら、桜色の頬でりのはにんまりと微笑んだ。


「カンナには悪いけどね、ふふ」


 何を言っているのかよくわからない恵鈴は、肩をすくめて大きく首をかしげた。





 数日後。

 くしゃん。

 愛馬、流星号の世話を終えたカンナは馬小屋で大きなくしゃみをした。


「なんだか、寒気がする」


 昨日から、体調は悪くないのにくしゃみと背筋の寒気がたびたびある。誰か自分のことを噂しているのか、それとも何か災難が我が身に降りかかるのを身体が予感しているのか。


「気晴らしに、銃のお掃除でもしようかな」


 縁側に何種類かの長筒を持ち出したカンナは、縁側の柱にもたれて鼻歌を歌いながら自分で改良した鉄砲の分解掃除を始めた。


「カーンナ」


 そこにやって来たのは、りのであった。気持ち悪いほどの満面の笑みである。


「これ、欲しがっていたすずめ柄の小物入れ。寝るときにあなたの眼鏡を入れておくのにぴったりよ」


「えっ」カンナは顔を輝かせて小さな巾着袋を貰う。可愛いふくらすずめの刺繍があって、店で見たときに一目惚れしたものだ。しかし手の込んだ一品だけあって、カンナの小遣いではとうてい買う事ができない贅沢品だと、泣く泣くあきらめたのだった。

 りのたちと同じくカンナのお手当も安くは無いのだが、銃をはじめとするからくりの部品に湯水のごとくお金をつぎ込む見境の無さがあるため、カンナの手元には小遣い程度を渡し、後は天馬の里にいる両親にお金の管理が任されていた。


「どうしたの? この巾着袋」


 未練たらしく見に行った時には、もう無くなっていたのに。


「もしかして、他の人に買われないように、りのが買っておいてくれたの? ありが――」

「お願いがあるの」袋に手を伸ばすカンナの言葉を途中で遮り、りのは突然両手を合わせて言った。

「今から私が頼むことをうん、と言って」

「え?」


 御天馬隊の末娘は、浮かべていた満面の笑みを凍り付かせ、疑り深そうな瞳でりのを見かえす。


「あやしい。何かたくらんでるわね、りの」


 すずめの刺繍のある巾着をつっかえそうとしたカンナだが、


「カーーーンーーーナーーーーっ」


 声と共に、何かが両手を広げてカンナに突進してきた。


「僕の大切な、小鳥ちゃん、ひなぎくちゃん、真珠ちゃんっ」

「ぎゃああ、泰理やすり兄ちゃん」


 カンナは飛び上がると、素早く身をひるがえす。

 突進してきた兄は、間一髪でかわされ。そのまま柱に激突して、蝉のように柱を抱えたまま失神した。


「りの、だましたわねっ」真っ赤な顔でにらみつけると、カンナが叫ぶ。「困るのよっ、兄ちゃんはヘンなんだから。江戸に付いてくるって聞かなかったのをなんとか初代の力も借りて阻止した事を、忘れたの?」


 余りにも自分のことを溺愛しすぎる兄を妹は持て余している。カンナを見つけるとすり寄ってきてじっと横に座っているだけで基本無害なのだが、夏に火鉢を置いたように押し寄せる熱気というか、得体の知れない圧がうっとうしいのだ。

 幼い頃、カンナと友達になろうと寄ってきた里の男の子たちは、泰理に延々とつきまとわれてずいぶん迷惑したらしい。

 ありがた迷惑もここに極まれり。血を分けた兄でなければ、絶海の孤島に封印したいくらいの気持ち悪さである。

 縁側にひっくり返った兄を妹はにらみつけながら観察する。普通に息はしている、大きな怪我もない、気を失っているだけだ。

 きりっとした眉毛に、紅い唇。高い鼻。丸渕眼鏡がひょうきんな印象を与えるが、それさえなければ光の加減で紫色にも見える涼やかで大きな黒い瞳。

 黙っていればいい男なのに、カンナべったりのため、里では娘達から激しく敬遠されている。カンナとしては、悪い兄ではないので早く良い相手を見つけて身を固めて欲しいのだが。

 やっと気がついた兄にカンナは怒髪天を衝く勢いで文句を言い始めた。


「何しに来たのよ。さっさと里に帰ってちょうだい。兄ちゃんが居ると、腹が立って任務がこなせないから」

「カ、カンナ……」泰理が涙目になる。

「ま、まあそういわないで」りのが慌てて中に割って入る。「確かにカンナのお兄ちゃんは極めつけにヘンな人だけど――」

「そこ。肯定ですか?」


 自分より年下の三代目に決めつけられて、カンナの兄が眉を八の字に歪めて口を尖らせる。己を客観的に評価するのは苦手なようだ。


「あたりまえでしょ。でもねカンナ、あなたも知っているように、残念ながらこの妹大好きのうっとうしい頭には抜群の頭脳が隠れているの」

「そう、言ってみれば肥だめに玉石が浮かんでいるような頭ね」


 いつの間にか横に来た恵鈴が、彼女らしくない辛辣な言葉を浴びせる。泰理を天馬で里から急いで連れてきたのは彼女であった。


「里でも常軌を逸した行動が多くて、脳天に霞がかかっているんじゃないかと言われてたものねえ」


 りのと恵鈴は、お互いに視線を交して大きくうなずく。


「そ、そこまでヘンじゃないわ。確かにボンヤリしてて役立たずで、うっとうしくて、変わっているけど、優しくていいお兄ちゃんなの」

「カ、カンナ」


 予想外の妹の援護に、兄の目が潤んでキラキラと光る。


「ありがとう、妹よおおおおっ――」


 ばこっ。

 抱きつこうとした兄の顔面に妹の座布団がめり込む。


「本当に、いい気になりやすいんだからっ」般若の顔をしたカンナが肩で息をする。

「ごめんね、カンナ。あなたのお兄ちゃんのどうしようもないところも重々理解しているけど、それ以上に頭の中の玉石が極上品って事もよくわかっているのよ。だから、私たちに力を貸して貰おうと思ってお呼びしたの」


 りのはカンナと泰理に頭を下げる。

 隊長の真剣な表情に、カンナがため息をついて苦笑いする。やはり誰よりも兄のすごさを知っているのはカンナなのだ。


「皆が、わかってるんなら良いけど。でも、頼むから必要以上私につきまとわせないでね」


 カンナは不承不承兄の江戸滞在を許可した。

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