第7話 三代目の憂鬱
りのの母――。
優しい人だったのか、それすらも記憶には無い。『二代目肩矢りの』である、いや世間にそう知られるはずであった母の思い出は、颯爽とした姿と結気の術を習ったおぼろげな記憶の断片ぐらいである。
不思議なことに小さい頃はそれすらも忘れていた。思い出したのはずいぶん大きくなってから。それまでの長い間、りのは若々しい初代を母だと思い込んでいたのである。
おかしいと思い始めたのは、友達と遊ぶようになってからだった。友達のお父さんとお母さん、おじいさんとおばあさん、の関係がおぼろげに解るようになったりのは、ふと病気で早くに亡くなった自分の父親の奥さん、つまり母、が居ないことに気がついた。その時に自分の記憶を探り、かろうじて抽出できたのは、わずかな記憶の断片だけあった。
「ねえ、お母さんはどこに行ったの?」
この問いを聞いた初代の強ばった顔を、りのは今でも思い出す。
「居なくなってしまったんだ、お前が三つになるかならないかの頃にね。皆で不眠不休の捜索をしたけどとうとう見つからなかった。どこかで生きていると思うんだけどね。元気にしてくれていればいいけど」
見たことも無い初代の瞳の色。それはまるで暗い淵のような憂いを帯びていた。子供心にもそれ以上聞いてはいけないと察したりのは、それから初代に母の事をたずねていない。
しかし口さがない人々の憶測は、りのの耳にも伝わってきた。時に耳を塞ぎたくなるような噂もあり、りのは母の事を極力考えないようにしている。母が居なくてもりのは幸せだし、世襲とは言え、天馬に乗るこの任務も気に入っている。
でも、時折不思議な声が耳に蘇る。なんと言っているのかは覚えていないが、心地よく胸に染み入るような声の波動が、りのの心を優しくてさみしいこだまで満たすのだ。
「ねえ、りの。何考えてるの?」
甘い物に目が無い恵鈴が干し柿をほおばりながらやってきた。
「うーん、この前のこと。恵鈴が、意識を失ったじゃない。もしあれが戦闘中で私が助けに行ったとすれば……」
「そうね、りのが私にかかりっきりになったら、カンナ一人では敵を倒すのに力不足だものね。戦闘どころじゃないわ」
カンナの戦闘力が低いわけではない。頭もいいし、操馬の技術も確かだ。
だが、やはりまだ経験が浅い。この前のような状態でりのが恵鈴を助けに行けば、三人の戦力が恐ろしく低下する事は避けられなかった。
恵鈴は天馬と心で会話する『天馬伝心の術』ができるという誰にも無い強みがあるが、先日のように他の二組に技術的について来れないことがある。正直、りのと比べると戦闘力は格段に低い。日々体術の努力はしているようだが、りのとの差は広がる一方でそれは持って生まれた特性の違いとしか言いようがない。
「ねえ、りの。もし、私が敵にやられても助けに戻らないで。私はあなたの足手まといにはなりたくないの」
「やめて、そんなことを言うのは。恵鈴の力は誰にも無いもので、私たちにとってかけがえのない存在だわ」
恵鈴はりのにとって何でも話せる唯一の友達である。祖母には遠慮して言えないことも、恵鈴なら言える。彼女はいつも誰にも話せないりのの不安を黙って包み込むように聞いてくれる、かけがえのない大切な友であった。
「馬鹿なこと言わないで」
「ありがとう。もっと訓練するから、期待してて」
恵鈴はにっこりと微笑んで見せた。
「今ある戦力で最大限の力を出さなきゃね、私もどうすればいいか考えてみる」
もっと乗り手が増えればいいのだが。しかし、乗り手以前に天馬自体が少ないのだ。
天馬は数十年に一度、天馬の里の限られた馬の系統にのみ生まれてくる。馬の血統図を書いてみてもその出生に明らかな規則性はなかった。天馬の誕生は不定期で、時によれば何十年に渡って生まれないこともあるし、三代目が生まれた頃の様に三頭が同時期に生まれることもある。
天馬たちは気難しい。彼らは乗り手を自分で選ぶ。彼らの許しを得ずに身体に触れようものなら、追い回されてかみつかれることさえあるのだ
乗り手に選ぶのは女性のみだが、年齢は子供から大人まで千差万別だ。天馬は自分たちに会った乗り手と邂逅すると自ら従順の意志をしめす。
りのは『肩矢りの』の名前を引き継ぐ天馬乗りの家系の三代目である。小さい頃、目の前に引かれてきた
りのは自分が安堵の余り泣き出したのを覚えている。
それは彼女の母が拒絶されたという噂を聞いていたからであった。自分も受け入れてもらえないのではないか。対面の前夜は不安で眠れなかった。
しかし、りのの心配は全く杞憂だった。
なぜ、お母さんは……。
二代目の「肩矢りの」を継承するはずであった彼女の母は、丁度良い天馬が生まれなかったため初代の愛馬である
初代のとりなしで、なんとか銀香を引き継ぐが、継承は並大抵ではなかったらしい。ともすれば拒絶する銀香と、幼い二代目の訓練は困難を極めた。
「厳しかったからねえ、初代」
ふとした機会に、村のおばばが漏らした言葉だ。
家康殿との約束を守るため、そして娘への期待もあって初代はすべてにおいて娘に厳しくあたった。生真面目なりのの母もそれに応えようと歯を食いしばって極限まで努力した。もともと余り有る才能の持ち主だったのだろう、彼女は優れた天馬乗りに育っていった。二代目として華々しく活躍し始めたころに縁あって結婚し、りのを生んだ。
すべてが順調だと思われたが、りのが生まれた直後に流行病で父が死ぬ。
そして不意に現れた黒い天馬とともに母は姿を消した。
母の記憶をほとんど無くしたりのに、初代が教えてくれたのはそれだけである。
りのにとっては、訓練だけは厳しいがそのほかは水飴のように甘い祖母。時折ふと見せる憂いはやはり母の身を案じてだろうか。
連れ去られたのか、それとも。
「逃げたんじゃないか、厳しい初代から」
村人の噂話を小耳に挟んだことは一度や二度では無い。
「子育てでいっぱいいっぱいだった二代目に、初代は相変わらず厳しい訓練をしていたからなあ」
そんな噂を聞くたびにぼんやりと、りのの頭の中に浮かぶ思い。
辛いから……、私を捨てていったの? お母さん。
沢山の愛情に囲まれて育ったりのだが、この針で突いたような一点をどうしても埋めることができない。その小さな穴から漏れ出るどすぐろい感情は、時折ふとした拍子に彼女の心を澱ませてしまう。
「元気出しなよ、あんまり考えない方がうまくいくよ、いろんなこと」
恵鈴が小さい金平糖を差し出した。とてつもなく高価な砂糖の塊だが、恵鈴はその安くは無いお手当のほとんどを菓子につぎ込んでいる。
「あっまーいお菓子は、幸せな気持ちにしてくれるよ」
楽天的なこの娘に救われている。りのはもらった砂糖の粒を口で転がしながら頷いた。
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