第6話 普通の娘ではいられない

「では、次の訓練を始めるわ」

「りのは鬼隊長ね」


 恵鈴がため息をつく。

 あれから約2刻。やっと猛訓練の甲斐あって、りのの求めにカンナと流星号が食らいつき、高速で一糸乱れぬ持続飛行できるようになったばかりである。


「だって、お江戸をそんなに留守するわけにはいかないし。ここにもそう頻繁に来れるわけではないから、来たときには集中してできる限りの技を練習しないと」


 職務に関して頑固なりのは言い出したら聞かない。そして、確かにそうしなければならない事情もある。カンナと恵鈴は仕方ないとばかりにうなずいた。


「次に練習するのは、空中で一回転して相手の後ろを取る技よ。勢いよく速度を上げて、そのまま大きく円を描いて回転するの。急上昇の時には身体だけでなく呼吸にも結構な負担がかかるから、いつも訓練しているあの呼吸法を使うのよ」

「ええ――」


 カンナが口を尖らせる。


「あの息の仕方難しいんだけどなあ」

「いつ、どんな敵が現れるかもしれないから、できるだけ早くいろいろな技を会得しないといけないの。妖天玉ようてんぎょくを無力化するまでは絶対に気が抜けないわ。さあ、やるわよ」

「でもこれ以上高度な術をやる必要があるのかしら? 天馬に乗って空から攻撃すれば今でも結構な敵にも対処できるわ。弓や鉄砲で射られても上空に逃げれば良いだけだし」

「必要はあるよ。いつ天馬に乗った敵が現われるかも知れないし」


 りのはそう言い捨てると天馬にまたがった。


――りのの焦りはお母さんの件も関係しているのかも。


 恵鈴の天馬、香月かげつが恵鈴の心にささやく。天馬は人間の言葉を解し、天馬同士で心を伝え合うことができる。だが、天馬の言葉を解し心で会話できるのは天馬の里でも恵鈴だけであった。


――ええ、そうみたいね。


 ならば、これ以上触れていけない。彼女の母の突然の失踪は、伊賀忍者の系譜を継ぐ天馬の里でも有名な事件だった。連れ去られたのか、それとも里を逃げ出したのか、未だにわからない。りのの母がいなくなった森の上空で、黒い天馬が目撃されていた。里ではりのの母親より、むしろ突如現われた黒い天馬の方が問題視されている。


 りのと北辰号は強気な瞳で青空の彼方を見つめ、高度を上げていった。


「上方旋回、心してかかれ」


 りのの声が響く。

 三頭の天馬の速度が上がり、一閃する白い矢のごとく青空を切る。


「開始」


 りののかけ声で天馬たちは羽根を斜め後ろになびかせて速度を上げていく。速度が上がるにつれて、結気の力が強くなり徐々に馬体は白から銀に煌めきを変える。その勢いのまま、りのは手綱を引き、天に向かって弧を描きながら急上昇した。恵鈴とカンナもそれに続く。


 りのですらこの訓練は辛い。

 結気の術を使ってさえも、馬体が上昇すればするほど身体全体が押しつぶされ、頬がブルブルと震える。何かに意識が吸い込まれるように、辺りがすうっと暗くなる。

 りのは息を詰めて、腹筋に力を入れた。ぐっとお腹に力を入れて、そのたびにくっ、くっといきむように短く強く息を吐き出しながらほぼ同時に吸う。この呼吸がかろうじて飛びそうな意識をつなぎ止めてくれていた。


 これは、後世の戦闘機乗りが急上昇の重力加速度(G)に耐えるために使う耐G呼吸と同じような呼吸法だ。急激な加速でかかるGのため脳や上半身の血流が低下するのだが、下腹部と下半身に力を入れることによって心臓に帰る静脈に入る血流を増加させ、胸部の内圧を上げることによって、心臓から出る血液を増やし脳への血流を保っているのだ。

 経験則で知っているのか、御天馬隊の彼女たちも急上昇の際にはこの呼吸法を使っていた。


 天を突き破るような勢いで、彼女たちは円弧を描いて上昇していく。

 円のてっぺん、上下が反転したその時。

 りのは天馬からぶら下がるように投げ出されている恵鈴に気がついた。天馬を包む光が消え、黒ぶちのある灰色の馬が減速してみるみるうちに遠ざかる。金茶色の巻き毛の乗り手は意識を失ったのか目を閉じていた。


 結気が切れている。


 恵鈴の手は手綱から放れ、かろうじて鞍に結ばれた命綱で馬の上につなぎ止められている状態だ。同じような飛行をしたカンナは無事だ。りのは手綱を強く弾き、慌てて旋回をほどき、香月号のそばに滑り込む。


「恵鈴っ」


 恵鈴の身体はすでに馬体から落ち、右側にぶら下がっていた。命綱でつながっているとは言え、強風に恵鈴の身体がゆれると引きずられるように香月号は右に傾いで落下していく。このままでは香月号ともども地面に激突する。


 りのは北辰を香月の左側に併走させる。しかし、お互いの羽の長さ分だけ離れてしまうためぴったり横付けという訳にはいかない。


「そっちに乗り移るわ」


 地上の小屋が豆粒ほどに見える。目もくらむ高さだ。

 だが、りのは平然と自分の命綱を外し、手にした投げ輪を香月に見せる。天馬は馬体を斜めに傾げながらも投げ輪がかかりやすいように首を立てた。投げた輪っかは、大きく揺れる馬の首に一発でかかり、盛り上がった胸にストンと落ちた。


 投げ輪の縄を持って、りのは北辰の鞍の上に立つと、風が弱まった一瞬を逃さず飛び移る。りのの片足が香月号の背中に付いた瞬間、風に馬体が翻弄されてりのは馬体から滑り落ちる。だが、香月号の胸にかかった投げ輪と背にかけた片手で、なんとかかじりつくようにして鞍の上によじ登った。


「恵鈴っ」


 気を失っている恵鈴をたぐり寄せると馬上に引きずりあげる。


「ありがとう、香月。もう大丈夫よ」


 重心の変化で恵鈴が救出されたことを悟ったのか、香月号はうれしそうに唸ると、ゆっくりと高度を下げる。心配そうに併走していた北辰も安堵の表情を浮かべてそれに続いた。





 ツンとした爽やかな臭いが長い睫毛をしばたたかせる。うっすら開かれた瞼からは少女の透き通った明るい茶色の瞳が現われた。


「りの、恵鈴が気がついたよ」


 恵鈴の顔を真上からのぞき込んでいるのは丸ぶちの眼鏡をかけたまん丸い瞳。片手の透明な瓶から漂ってくる香りは恵鈴を現実に引き戻してくれた薄荷の香りだった。


「よ、よかった」駆け寄ってきたりのが、恵鈴の手を取って胸に当てる。


 彼女はいてもたってもいられなくて、横たわる恵鈴の周りをぐるぐると周りながら、知りうるかぎりの神仏の名前を連呼していたのだった。


「ごめんなさい……、やっちゃったかな」


 目を開けた恵鈴がまず最初につぶやいたのは謝罪の言葉だった。


「りのが助けてくれたのね。本当にありがとう」


 恵鈴の横にぺったりと足を付けてとんび座りした三代目は大きく首を振った。


「何言ってるの、当たり前よ」


 相当心配したのだろう。無理に笑った唇が少し震えている。


「なんで私、呼吸法が下手くそなんだろう。もうちょっとでうまくいくと思ったのに」


 恵鈴は苦笑いを浮かべる。今までの練習でも急激に上昇する場合、恵鈴は気分が悪くなることが多かった。呼吸法は人一倍練習しているのに、なかなか恵鈴は上方旋回がうまくいかない。


「りの、恵鈴は細くて身体が弱いから、急激に高度を上げるのは無理じゃないかな」


 気付け薬を片付けながら、カンナがりのを見る。


「体格じゃ無いよ、カンナ。体格だったらあんたが一番劣っているはずなのに、できるでしょ。疲れよりもむしろいかに天馬と一体化するかが問題なんだ。恵鈴も天馬との『結気の術』が上手くいってない。結びの力が強ければ、馬と乗り手を守る結気の助けが強くなって、息が楽になるの」


 りのは恵鈴の乗る天馬に目をやった。


「恵鈴には無理、って思ってなかった? 香月」


 天馬は隊長の視線から逃げるように首を逸らす。


「恵鈴の不安な気持ちが香月に伝わったのかも。あなた達はお互いの事を思うばかりに遠慮しすぎてる。恵鈴、香月とわかり合っている?」

「もちろんよ、それはあなたたち以上に……」


 こればかりは譲れないとばかりに半身を起こした恵鈴がりのをまっすぐに見返す。他の二組と違って、恵鈴は香月と毎日会話をしている。気持ちはお互いに通じ合っているはずだ。香月も不満げに首を横に振る。


「香月も私の気持ちをわかってると言っているわ」

「違うの。表面の気持ちだけではなくて、もっと深いところ、お互いに強引なくらい強い信頼感を持てているかどうかってとこなのよ」

「強引……」

「そう、お互いに遠慮しあってたやすい道を選ぶのは誰でもできる。でも困難に突っ込んで行くには、そのもう一つ先、目的を共有した相手を心から信頼して、どんなことでも遠慮なく頼りあう覚悟が必要なの。その生死を超越した覚悟がもう一つ高い目標に連れて行ってくれるのよ」


 恵鈴と香月は顔を見合わせる。


「香月に気を遣わせすぎてはダメって事。主人にこの訓練を行わせてよいかどうか香月に迷いが生じている。だから結気が結べない。もっとお互い強引なくらい相手に踏み込まなきゃ。精神的にたくましくならなきゃ」


 りのの言葉に焦りの色がにじみ出ている。

 香月がそっと恵鈴を伺うように首を向ける。恵鈴は静かにうなずいた。

 りのは足の草を払うと立ち上がった。


「ねえ、みんな。将軍家光様のご容態も優れないと聞いているわ。江戸城から門外不出の邪宝じゃほう妖天玉ようてんぎょく」が盗まれたことで、この先何が起こるかわからなくなってきたの。私たちの使命は、この平和なお江戸を災いから守ること。もう関ヶ原の戦いのような大きな戦を起こしてはいけないわ」


 空から眺めるお江戸の町は、この五十年で大きく変った。初代が飛んだ暴れ川の細かな流域に広がる不毛な湿地帯は、あまねく苦難を乗り越えて治水され、人を養える農地になった。農地は富を生み、富はさらなる人を呼ぶ。今の江戸は整備された大きな川の青と、風に揺れる草木の緑に彩られ、道沿いに並ぶ家々の屋根瓦がキラキラと輝く美しい町だ。

 道には人や馬がひっきりなしに行き交い、上空からでも土地の鼓動が聞こえるような生き生きとした場所に変貌した。そしてこの町は今からもさらに拡大していくだろう、人々の夢をいっぱいにはらんで。


 守らなくては……。


 人々が今日から続く日を、そのまま当たり前の様に紡いでいけるように。

 初代から何度も聞いた凄惨な戦場の話を思い出して、りのは唇を引き締めた。

 私は、お江戸を守る三代目肩矢りの。普通のではいられない。

 勤めを果たさなければ。幻の二代目、母の分まで。

 何かを探すように、澄んだ瞳が青い空をさまよった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る