第5話 結気の術

 数日後。三代目肩矢りのは中山道の鴻巣こうのす宿から吹上ふきあげ宿に向かう街道沿いに広がる原野の上空を飛んでいた。

 さすがに江戸より十四里も離れると賑わいも影をひそめ、当たりは灌木と農家が点在するだけの見渡す限りの野っ原となる。見下ろすと風に波打つ新緑の原野にまっすぐな道が通り、数人の旅人が道を覆い隠す草を足早に踏み越えていく。彼方には薄青い富士が雄大な裾野をなびかせているが、もう見飽きた光景なのか旅人達はことさらに立ち止まって富士を愛でることも無く黙々と道の先を見ながら歩むばかりだった。

 ここに来るには江戸からは天馬に乗っても一刻近くかかる。だが、広くて邪魔な建物も無い原野は天馬の訓練場として、特に大技の鍛錬には最適であった。


 仲間達を待つ間、りのは四季折々の姿を見せるこの平原の上の散歩を満喫している。

 おりしも時は弥生、頭上には陽光あふれる雲一つ無い藍色の空。


「気持ちいい」


 顔をなぶる風を大きく吸い込んでりのは小さくつぶやいた。上空は地上の人間くさい臭いがすべて消し飛んで澄み切っている。身体全体が春に包まれているような感覚が、りのの心を弾ませた。上空には届くはずもないが、それでもかすかな草の香りが鼻腔をくすぐる気さえする。

 上空では下界よりもさらに強い風が吹いていた。とりわけ今日は雲を吹き飛ばすほどの強い風だ。彼女の気持ちが伝わるのか、愛馬北辰ほくしんは臆することなく白い翼を大きく広げて風を受ける。向かってくる風は翼によって上昇力に替えられて、天馬の高度を勢いよく押し上げていった。


 今度は早く、滑るように。


 りのの高揚感が伝わるのか、愛馬は次に高度を下げ、滑空し始めた。景色が筋になって飛ぶように後方に流れる。ビュウビュウと風が板のように顔に当たり、呼吸が苦しくなってくるのを感じたりのは馬の背に伏せるように額を付けて、何かを念じるようにつぶやいた。

 その途端、白い光が天馬とりのを包む。光の塊は、水中を泳ぐ魚のような紡錘形になり、天空を切るかのように速度を増した。

 まるで繭のような白い光に包まれ、外気と遮断されると、りのの呼吸もずいぶん楽になった。天馬も楽になるらしい。首をかすかに後ろに向け、りのの様子を伺う余裕すらある。


 これが結気の術だ。

 天馬と心を一つにし、湧き出る白い光の力で障壁を作り飛行を楽にする。

 鍛錬をしても皆が使えるわけではない。天馬と、天馬が選んだ乗り手にしか結べない強い気持ちの繋がりがこの現象を起こすのだ。と、りのは初代から教えられている。だがこの術は乗り手の体力や気力が落ちた場合、そして天馬と乗り手の間に不信がある場合には、術が弱まったり、最悪の時には戦闘中に術が溶けてしまう危険な一面もあった。


「すごいわ、りのはやっぱり天才ね」


 あれは三歳になるかならないかのころ。幼いながらも天馬に選ばれ、結気の術を会得したりのに、『二代目肩矢りの』である母がかけた言葉だ。

 二代目も格好良かった。

 白い天馬を駆る母。風になびく紫の組紐でまとめられた輝ける黒髪。

 物心つくかつかないかの頃だったが、その神々しさにうっとりとし、憧れたのは今でも覚えている。今となっては数少ない母親の思い出だ。


 ふと、りのは右後方の光る白ごまのような二つの点に気がついて思い出から抜け出した。

 不思議なことに、結気の術を発動すると外からだと白い光に包まれているように見えるが、内側からは透明で外界の様子が手に取るように解る。二つの光点は術を解いたのか、二体の天馬となってこちらに向かって来た。


「二人ともやっと来たわね。残念ながら私たちの準備運動はこれでお終い」


 りのはご苦労様とばかりに愛馬の首を撫でる。馬体を包んでいた光が消えて、名残惜しそうに北辰は天空で大きく弧を描くと仲間の方に進路を変えた。

 

 江戸から着いたばかりのカンナと恵鈴は地上に座り込んで竹筒に入ったお茶を飲む。


「やっぱ早いわね、りのは。いつ頃着いたの」


 これでも急いできたとばかりに透き通った白い頬を赤く染めて恵鈴がたずねる。捕り物前にも髪飾りを忘れないお洒落さんだが、急いで来たのかせっかくの髪飾りが黄茶色の髪から半分落ち、かろうじて巻き毛の端に引っかかって揺れている。

 りのは恵鈴の髪飾りの位置を直してやった。


「半刻ぐらい前かな。結気の術で吹っ飛ばしてきた」

「すごいわね」カンナが肩をすくめる。


 結気の術をかけたまま長時間飛行するのはかなり体力を消耗する。平然と立っているりのを見て、さすが手負いながらも伏見から関ヶ原まで不眠不休で天空を駆け抜けた初代の孫だけある、とカンナは眼鏡の奥の丸い目をさらに丸くした。


「長く座っていると、根が生えるよ。そろそろ行こう」


 二人が元気を取り戻したのを見て、りのは寸刻も惜しいとばかりに天馬に飛び乗った。主人に負けず劣らず壮健な北辰が待ってましたとばかりに大きく羽ばたいて飛び立った。慌てて二人も茶筒を置き、りのに続いてそれぞれの愛馬を駆って宙に浮く。 羽を目一杯広げて風を受けた馬たちは間隔を開けながら、りのを先頭に、カンナ、恵鈴と縦列を作った。


「結気の術」


 先頭を飛ぶりのが、左手を真上に挙げて叫ぶ。と、同時に天馬は足を折り身体にぴったりとくっつけた。りのの後方でも、カンナと恵鈴の天馬が流線型の白い光に変化して、ぐんぐん加速する。


 だが、しばらくすると真ん中の流星号の光が急に暗くなり、目に見えて遅くなった。前方の流星号の速度が落ちるため、ぶつかるまいと恵鈴の操馬が不安定になる。瞬く間にりのと後方二体の天馬の位置はかなり開いてしまった。


「まーった、待ったっ」


 結気の乱れを感じたのか、りのが振り向いて左手を横に上げる。

 速度が下がるにつれて白い光が徐々に薄れ、元の天馬たちの形が現われた。

 りのが反転して、カンナの横につく。


「ちょっと降りて話をしよう」


 地上に降りて思い思いに羽を休める天馬の横に降り立ったりのの視線は、カンナの乗馬、流星号に向いている。身体の小さなカンナだが、乗馬の流星号は筋肉のしっかり付いた大きな天馬である。本来なら栗毛のきれいな馬なのだろうが、よく見ると背中の所々が汚れでくすんでいた。形の良い三代目の鼻が、怒りを溜めているかのように膨らむ。

 りのの言いたいことを察してか、カンナはばつが悪そうに視線を下に向けている。

 険悪な空気を察してか、恵鈴が戸惑いの表情を浮かべながら二人を代わる代わるに見つめた。何か言いたげな恵鈴の視線を振り切って、りのがカンナの前に立つ。


「ねえ、カンナ。結気の術がうまくいっていれば、天馬にとって真ん中は楽なはずよ。あなためんどくさいって気持ちで、最近流星号のお世話を手抜きしているでしょ。からくり道具を作るのが好きで、寸暇を惜しむ気持ちはわかるけど、せっかく天馬に選んでもらったのだから感謝してお世話をしなきゃ」


 我が意を得たりとばかり、流星は大きく馬首を縦に振った。


「天馬達は家畜ではないの。私たちと一緒に江戸を守る仲間なのよ。わかってる?」

「そんなこと言われなくてもわかってる」


 気の強いカンナが頬を膨らませてりのを見上げる。


「解ってないじゃない、この汚れは何? 手入れを怠っている証拠でしょ。丁寧に藁でこすってやることで、馬と乗り手の心が通じ合うのよ。「気」がしっかりお互いに結ばれるかどうかは日頃の細やかな心遣いにかかってくるの」


「何よ、りのの小姑っ。自分が完璧だからって上から目線でネチネチネチネチ。だから男の人から引かれちゃうのよ」

「はあっ、ガキの癖してうるさいわねっ」


 両手を腰に当てたりのが上からカンナを睨みつける。カンナも負けずに下から睨み返す。


「ああ、ちょっともう止して。喧嘩している場合じゃないでしょ」


 間に入った恵鈴は、困った顔で二人を交互に見る。

りのには大人げないとばかりにちらりと強い視線を送り、そして膝を曲げてカンナの顔をそっとのぞき込む。とんがった唇、膨れた頬。カンナの目尻が赤くなっていた。


「あなたの言い分も聞かないでごめんね、カンナ。りのはあなたのことを子供だとは思ってないからついつい手加減なしで注意してしまうの。あなたは流星号に選ばれるほどの才能ある天馬乗りだから」


 優しく諭すと、カンナはそっとうなずいて口を開く。


「確かに、ちょっと最近面倒くさくて手入れを怠けてた。それに手入れをしても、流星号は大きくなるのが早くて、手が届かないところがあるの。足台を作っても、最近の流星号の成長に追いつけなくて、今、自在に上下する足台を作っているところなんだけど、なかなか納得いく物が作れなくて……」


 りのがはっとした目でカンナを見る。


「ごめん、背のことは気がつかなかった」

「りの、確かにこの子の背では流星号の背によじ登ることはできても、藁でしっかりこすれるほど手が届かない場所があるのかもしれないわ」


 恵鈴がカンナの背に手を当てる。


「ね、カンナ、言ってくれたら今度から私も手伝うから、足台ができるまで一緒にお手入れをしてあげよう」


 恵鈴の言葉が染み入ったのか、カンナはそっと馬の首を撫でる。


「ごめんね、流星号」


 流星号も仲直りとばかりにカンナに顔を擦り付けた。

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